第536話「蠢く影の残滓と、臨床の眼」
「風池」の鍼によって一時的に正気を取り戻しかけた領主ルクレツィア。しかし、それを阻むかのように、彼女の影から魔王軍の悍ましい「呪縛の核」が這い出てきます。すぐに撃退するのではなく、往診チームがその異様な魔力の正体をじっくりと見極める、緊迫の防衛戦が始まります。じっくりと練り上げられた戦闘と治療のプロセスをお楽しみください。
「――させない。私の……私の効率的な世界を、壊させはしない……」
ルクレツィアの口から漏れ出たのは、先ほどまでの彼女自身のものとは明らかに異なる、何重にも歪んだ不気味な地声だった。
彼女の足元にある影が、まるで生き物のように蠢き、ドロドロとした黒い粘液状の魔力を噴出させていく。その魔力は触手のように激しく波打ちながら、ルクレツィアの真紅のドレスを駆け登り、再びその首筋やこめかみへと絡みつこうとしていた。
「ルクレツィア様……! くそっ、この黒いネバネバは一体何なんだ!?」
背後から彼女を支えていたバザルが、その異様な気配に圧されて思わず顔を背ける。
黒い粘液から放たれるのは、嗅ぐだけで頭の奥がズキズキと痛み出すような、濃厚な「焦燥」と「絶望」の臭気だった。それは、この館の地下で何百人もの人々が流した不眠の脂汗と、追い詰められた精神の叫びが結晶化したような、悍ましい呪いの塊である。
「離れろ、バザル! そいつに触れるな!」
ガストンが叫びながら前に飛び出し、太い腕でバザルの襟髪を掴んで強引に後ろへと引き剥がした。直後、彼らがいた空間を、黒い影の触手が鋭く鋭く引き裂いていく。パキパキと音を立てて大理石の床が削れ、黒いシミが広がっていく。
「キャッ……! 部屋の明かりが、どんどん吸い込まれていく……!?」
リナが両手をかざして光の障壁を展開するが、室内の魔導灯の光は、ルクレツィアの影が広がるにつれて目に見えて暗く、細くなっていく。まるで空間そのものが、エネルギーを収奪するブラックホールに変貌しつつあるかのようだった。
魔導灯のガラスがパキンと音を立てて割れ、室内の明かりはリナが放つ魔力の淡い輝きと、枢の持つランタンの光だけになっていく。
「ハク、下がっていなさい」
哭がハクを背後に庇いながら、一歩前に出る。その深紅の瞳は、激しくのたうち回る黒い霧の動きを、ミリ単位で見切るように鋭く動いていた。
「臨床的に見て、これはただの魔力による物理攻撃ではないな。人間の防衛本能を麻痺させ、限界を超えて肉体を酷使させるための『自律神経の強制駆動術式』……いわば、外付けの悪質な精神呪縛だ。ルクレツィアの肉体を媒介にして、周囲の『気』を徹底的に貪り食っている」
「はい、哭先生……! 彼女の脈が、さっき『風池』で落ち着いたはずなのに、また異常な速さで跳ね上がっています! この影が、彼女の心臓を無理やり動かして、強制的にエネルギーを搾り取っているんだわ……! このままじゃ、呪縛を切り離す前に彼女の『気』が底をついてしまいます!」
ハクが医療カバンを抱え直しながら、必死にルクレツィアの胸元の激しい上下運動を観察して声を上げる。
呪縛の核は、枢の鍼によって治療されそうになったことで、防衛反応としてルクレツィアの生命力を限界まで前借りし、往診チームを排除しようと牙を剥いているのだ。
「私の……私の金貨が……成果が……止まってしまう……! 働け、働きなさい……!!」
ルクレツィアの瞳が、再び感情のないガラス玉へと塗りつぶされていく。彼女の身体がミシミシと音を立て、過剰な負荷によって関節から悲鳴が上がる。
影の触手は数本に分裂し、部屋の壁や天井の装飾を破壊しながら、執務室の中央に立つ白い医療着の青年――枢へと一斉に襲いかかった。
ヒュオォォォッ!! と、空気を切り裂く凶悪な音が迫る。
しかし、枢は一歩も引かなかった。
彼の白銀の瞳は、驚くほど静かに、蠢く黒い影の「経絡の流れ」を見極めていた。どれほど複雑怪奇に動く呪いであろうとも、人間の肉体に寄生している以上、必ずそれを動かしているエネルギーの「流入点」が存在する。
東洋医学において、すべての病には侵入の経路があり、居座るための拠点がある。この黒い影もまた、彼女の強固な意志の隙間に巣食う「病邪」に過ぎない。
「どれほど外側から狂気を注ぎ込もうとも、それを繋ぎ止めているのは、彼女自身の強い『責任感』と『生真面目さ』が裏返った歪みです。それを無理に引き剥がせば、彼女の魂ごと壊れてしまう」
枢は静かに呟くと、右手に握った銀鍼を、今度は逆手に持ち替えた。
焦る必要はない。敵が生命力を燃やして暴れれば暴れるほど、その寄生している「病根の繋ぎ目」は鮮明に浮かび上がってくる。
過労の魔力によって肥大化した影の根元、ルクレツィアの背骨のラインに沿って、ドクドクと脈打つ黒い魔力の「結節点」がハッキリと見えた。
「リナ、ガストン。彼女の肉体を傷つけることなく、あの黒い触手の『外周』だけを3秒間、抑え込めますか」
枢の落ち着いた声が、室内の緊迫した空気をすっと鎮める。
「あったり前じゃない! 枢の往診の邪魔は、指一本させないわよ! 『シャイニング・シールド』!」
リナの両手から放たれたまばゆい聖なる光が、蜂の巣状の巨大な障壁となって枢の前方に展開される。そこに激突した黒い触手が、ジジジと不快な音を立てて火花を散らした。
「へっ、3秒と言わず、何秒でも引き受けてやるぜ! 邪魔な触手は全部俺が叩き落とす! フンッ!」
ガストンが巨大な戦斧を爆風のような速度で振り回し、リナの障壁を回り込もうとした別の触手を力任せに叩き潰す。凄まじい風圧が室内の書類をさらに舞い上げ、黒い霧の勢いを一瞬だけ完全に停滞させた。
「――今です」
リナの魔力の光と、ガストンの戦斧の風圧が作った完璧な3秒の隙。
枢の身体が再び音もなく前進する。その白銀の瞳には、すでにルクレツィアの背後に蠢く呪縛の「核」を捉える明確な針路が描かれていた。往診チームの確かな連携が、狂気の暴君を救うための「絶対の治療の機会」を作り出そうとしていた。
第536話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回はルクレツィアの影から噴出した魔王軍の呪縛の「異様さ」と、それに対する仲間たちの臨床的な観察・連携をじっくりと描写いたしました。責任感が強い人ほど、ブラックな呪縛に囚われやすいというのは、東洋医学的にも非常にリアルな病理ですね。
さて、今回は作中のルクレツィアのように「過度な責任感やプレッシャーから、心が常に張り詰めてしまい、胃がキリキリ痛むようなストレス」を感じた時に、体内の気の滞りをスムーズに通すためのツボをお届けします。
今回ご紹介するのは、足の甲にある『太衝』というツボです。
場所は、足の親指と人差し指の骨が交わる手前の、V字型になっているくぼみの部分にあります。
ここは東洋医学において、ストレスや怒り、強迫観念によってコントロールを失った『肝』の気を鎮める、最重要のレスキューポイントです。ここを刺激することで、滞った自律神経の波を整え、全身の気血の巡りを劇的に滑らかにすることができます。
ケアする場合は、親指の腹を使って、足首の方向に向けてじわーっと痛気持ちいい強さで5秒間押し込むのを左右交互に繰り返してみてください。驚くほどお腹の緊張が解け、呼吸が深く楽になるのが実感できますよ。
次なる第537話は、明日7月5日(日曜日)の【12:00】に更新を予定しております。リナとガストンが作った3秒の隙のなか、枢先生の次なる一鍼はルクレツィアのどこを捉えるのか――。どうぞお楽しみに!




