第532話「新大陸の針路と、最初の作戦会議」
港での騒動を終え、往診チームは協力者となったバザル隊長を交え、今後の進め方についてじっくりと膝を突き合わせます。新大陸を支配する「過労の闇」の正体、そして枢先生たちが掲げる新たな往診の方針とは――。
じっくりと描かれる新章の土台、どうぞお楽しみください。
港の騒動からしばらく経った頃。往診チームは、埠頭にひっそりと係留された魔導船の作戦室に集まっていた。
中央の円卓を囲むのは、枢、リナ、ハク、ガストン、そして哭。そしてもう一人、かつては港を恐怖で支配していたものの、枢の「人迎」の一突きによって完全に毒気が抜け、すっきりとした顔をした衛兵隊長バザルの姿があった。
「――旦那が言った通りです。俺たち衛兵も、街の役人たちも、みんな頭が割れそうな頭痛と不眠のなかで、ただ領主様の命令に怯えて動かされていたんです」
バザルはハクが淹れてくれた温かい薬草茶を静かに啜りながら、これまでの事情をぽつりぽつりと語り始めた。その目は、昼間の凶暴さが嘘のように落ち着いている。
「半年前、領主ルクレツィア様が『効率至上主義』を掲げてから、このサンタ・ルチアの街は一変しました。休むことは悪、成果を出せない者は容赦なく切り捨てる……。民だけでなく、俺たち衛兵にも過酷なノルマが課され、失敗すれば即座に投獄。プレッシャーと極限の過労で、みんなまともな思考を失っていたんです。昼間、リナお嬢に剣を抜いた時の俺も、完全に頭に血が上って狂ってやがった……。本当に、申し訳ねえ」
バザルが深く頭を下げると、リナは少し気まずそうに髪をいじりながら笑った。
「う、ううん、もういいわよ。ツボを突かれて大号泣して謝ってきたときはびっくりしたけど……あなたも被害者だったのね」
「いやあ、それにしても枢旦那の指先一つで、あのガチガチの強面が借りてきた猫みたいになっちまうんだから、相変わらず大した神技だぜ」
ガストンが豪快に笑いながら、太い腕を組む。ハクも手元の資料にペンを走らせながら、臨床的な視点で頷いた。
「過労と恐怖による支配……。これは個人の悪意というより、組織全体が『集団的な精神の不調』に陥っている状態ですね。無理な労働で脳の血流が滞り、イライラが暴力を生み、それがさらに下の人間を追い詰める。まさに悪循環の経絡です」
「それだけではないな」
それまで部屋の隅で静かに壁に寄りかかっていた哭が、冷ややかに口を開いた。その深紅の瞳が、バザルをじっと見据える。
「 clinical に見て、単なる過重労働だけで人間がそこまで一変するわけがない。バザル、お前が言っていた『領主の館の奥に潜む不気味な男』……そいつの正確な気配を教えろ」
「は、はい……。名前は分かりませんが、領主様が『アドバイザー』として連れてきた、常に黒い霧をまとったような男です。そいつが来てから、領主様の部屋からは夜な夜な、人間の生気を吸い取るようなドス黒い魔力が漏れ出ているんです。街の噂では、人々のストレスや絶望のエネルギーを糧にする【魔王軍の幹部】の一人ではないかって……」
魔王軍の幹部。その言葉に、室内の空気が一段と引き締まる。
これまでの海域での戦いは、自然界の歪みである『五邪』との戦いだった。しかし新大陸に待ち受けていたのは、人間の心と体を意図的に蝕み、世界を「過労の闇」で塗りつぶそうとする、明確な意思を持った敵だったのだ。
「……なるほど。五邪の異常気象を解決したことで、私たちはようやくその元凶である『病根』の正体に辿り着いたわけですね」
枢が静かに、しかし凛とした声で言った。白銀の瞳には、一切のブレもない。
「これからの私たちの針路は決まりました。ただ目の前の悪党を倒すのではなく、彼らを呪縛している『過労の根本』を治療していく。バザルさんが教えてくれたように、街を支配している領主も、その部下たちも、元々は優しい人々だったはずです。ならば、私たちの鍼が成すべきことは一つです」
枢は立ち上がり、円卓の上の地図を指し示した。
「まずは、このサンタ・ルチアの領主ルクレツィア様の元へ往診に向かいます。彼女の身体に巣食う過労の呪縛を解き、本来の正常な気血の巡りを取り戻してもらう。そして、この港町を私たちの『最初の往診拠点』として再生させるんです」
「世直し往診旅、ってわけね! 最高じゃない、枢!」
リナが目を輝かせて拳を握る。ガストンも「へっ、ただの殴り込みじゃなくて、患者を救いに行くってのが俺たちのスタイルだからな。面白そうだ!」とニヤリと笑った。
「ですが旦那、領主の館は今、厳重な警備が敷かれています。正面から行けば、いくら旦那たちでも無数の衛兵に囲まれてしまう」
心配するバザルに対し、枢は優しく微笑みかけた。
「だからこそ、バザルさん。あなたの力が必要なんです。この街を愛するあなただからこそ知っている、安全な道を教えていただけますか?」
バザルは一瞬目を見張ったが、すぐにその顔に熱い決意をみなぎらせ、深く頷いた。
「――もちろんです、旦那! 館の裏手にある、物資搬入用の地下隠し通路があります。そこなら、俺の部下たちを見張りに配置して、誰も気づかれずに最上階の執務室まで案内できます!」
「よし、方針は決まりましたね」
ハクが医療カバンをしっかりと閉め、往診チーム全員が立ち上がる。
過労の覇権によってガチガチに凝り固まった新大陸。その巨大な病巣を、指一本で解きほぐすための本当の戦いが、今ここから静かに幕を開けようとしていた。
第532話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は領主の館へ行く前に、これからの新大陸での大きな方針を固める「作戦会議」をじっくりと描写いたしました。バザル隊長もすっかり往診チームの信頼できる案内人として馴染んでくれましたね。
さて、今回は会議中、ハクがバザルに淹れてあげたような「ストレスを緩和する薬草茶(民間療法)」にちなみ、日常の緊張をほぐすためのツボをお届けします。
今回ご紹介するのは、手のひらにある『労宮』というツボです。
場所は、手を軽く握ったときに、**中指の先と薬指の先がちょうど当たるところの中間(手のひらの真ん中あたり)**にあります。
ここは東洋医学において「心」と深く繋がっているツボであり、過度な緊張や作戦会議の前のようなストレスで自律神経が乱れ、動悸がしたり息が苦しくなったりした時に、その興奮を鎮めてくれる「心の救急箱」のような場所です。
反対側の親指を使って、痛気持ちいいくらいの強さで、息を吐きながら5秒間じっくりと押し、ゆっくり離す。これを左右数回繰り返してみてください。驚くほどすっと呼吸が深くなり、体内の淀んだ緊張が抜けていくのが実感できますよ。
次なる第533話は、明日7月3日(金曜日)の【12:00】に更新を予定しております。バザルの案内のもと、いよいよ歪んだ領主館の地下通路へと足を踏み入れる往診チーム。焦らず、しかし着実に迫る魔王軍の影――。どうぞお楽しみに!




