第435話:新たなる大陸、動乱の医療都市と謎の黒鍼師
アムネシアの島を出港してから数日、枢先生たちを乗せた往診船は、未知の熱気と魔導の硝煙が立ち込める新たなる大陸の玄関口、医療都市ルミナリアへと到着しました。
高層建築が立ち並び、最新の魔導カプセルによる治療が絶対とされるこの大都市は、一見すると病とは無縁の楽園のように見えますが、その足元には、既存の医学では解明できない奇妙な風土病が蔓延していました。
「おやおや、リナさん。新しい土地の空気は、随分と機械の油の匂いが混ざっていますね。最新の魔導医療機械がどれほど並んでいようとも、それを扱う人間の心が疲弊していては、本当の健康は訪れません。さあ、鞄を持ちましょう。どうやらこの街の診療所に、私たちの銀鍼を必要としている、とても興味深い経絡の乱れを持った患者さんが待っているようですから」
12時、日曜の昼の更新。第二部開幕。新たなる大陸、動乱の医療都市と謎の黒鍼師。
聖鍼師・枢、新たな大陸の病根を診るために、再びその一歩を踏み出します。
往診船の重厚なタラップが降りた先には、かつて経験したことのないほど巨大な、鉄と魔導結晶で造られた港湾都市が広がっていた。
医療都市ルミナリア。
大陸全土から難病患者が集まるというその街は、空を飛び交う医療艇と、巨大な製薬工場の煙突から吐き出される青い煙によって、常に奇妙な活気に満ち溢れている。
しかし、舗装された美しい大通りの華やかさとは裏腹に、一本路地を裏へと入れば、そこには最新の魔導治療を受ける金を持たない、貧しい人々が身を寄せ合って暮らす、深い闇が存在していた。
「すごい活気だけど、なんだか息が詰まる街ね。空気の中に、魔力の残滓と、人間の焦りみたいなものが混ざり合っている気がするわ」
リナが、新調した軽快な旅装束の襟元を少し緩めながら、周囲のそびえ立つ高層建築を見上げて呟いた。
彼女の隣を歩くシオンも、街のあちこちに掲げられた「魔導カプセルによる一発完治」を謳う看板を見て、不快そうに眉をひそめている。
「身体の治癒力を無視して、魔力で強制的に細胞を焼き固めるような治療法が流行っているのね。錬金術の観点から見ても、あんなのは一時的な誤魔化しに過ぎないわ。等価交換の歪みが、いつか患者の肉体を内側から崩壊させることになるわよ」
「シオンの言う通りだよ。僕の計測器、さっきからこの街の地下から、すごく不安定な生体エネルギーの逆流を感知しているんだ。最新医学の都なんて言われているけど、経絡の視点で見たら、この街全体が重度の高熱に浮かされているみたいだ」
ガストンが計測器の画面を見せると、そこには赤く脈打つ不気味なノイズが走っていた。
枢は、その三人の会話を静かに聞きながら、往診鞄を右手にしっかりと持ち直した。
かつて錆に侵されていた右腕は、今や完全に回復し、衣服の袖の下で白銀の気を穏やかに循環させている。
「おやおや、皆さん。新しい土地に到着した途端に、見事な集団問診ですね。確かに、この街が抱える歪みは、これまで診てきたどの病とも性質が異なっています。ですが、まずは目の前の患者さんを診ることが、往診医の最初の仕事です。ガストン、先ほどギルバート提督の紹介状にあった、地下街の私設診療所はどちらですか」
「ええと、この先の古い昇降機を降りた先にある、スラム街の奥深くみたいだよ」
四人が錆びついた昇降機に乗り、光の届かない地下街へと降りていくと、そこは華やかな地上とは完全に切り離された、病人たちの巣窟であった。
薄暗いランタンの光の下、多くの人々が、身体の一部が硬い鉱物のように変化していく奇妙な風土病「石脈病」に侵され、苦しみの声を上げていた。
その私設診療所の古い扉を開けると、中では一人の老医師が、激しい呼吸不全と全身の硬化に苦しむ少年を前に、手をこまねいていた。
「だめだ、魔導治療器が地下の有毒な魔力と共鳴して動かない。このままでは、この子の肺の機能が完全に停止してしまう」
「先生、下がってください。ここからは私の往診時間です」
枢が静かに割って入り、少年の枕元へと膝をついた。
少年の胸部は、石脈病の進行によって硬く変色し、呼吸をするたびに肺が悲鳴を上げている状態であった。
一刻の猶予もない、超急性期の呼吸不全。
枢は迷うことなく往診鞄を開き、中から極細の金鍼を一本、抜き放った。
「手の太陰肺経の、中府を穿ちます。肺の気を直接広げ、滞った呼吸の経絡を一気に開放しましょう」
枢の指先が、少年の鎖骨の外端の下、肋骨の間に存在する経穴、中府へと正確に触れた。
寸分の狂いもない速度で金鍼が刺入され、枢の体内から、優しく温かい白銀の気が鍼を通じて少年の肺へと直接注入されていく。
さらに、枢はもう一本の鍼を素早く抜き、少年の手首の近くへと向かって手を走らせた。
「続けて、同じく肺経の太淵を刺激します。脈が会するこの場所から、硬化し始めた血脈の運行を正常化させ、全身の熱を逃がしますよ」
二本の鍼が完璧な術式をもって施された次の瞬間、それまで木石のように硬く強張っていた少年の胸部が、ふわりと柔らかさを取り戻した。
ヒュー、ヒューと鳴っていた不気味な呼吸音が静まり、少年は大きく息を吸い込むと、まるで深く心地よい眠りに落ちるかのように、穏やかな寝息を立て始めた。
顔色にはみるみるうちに健康的な赤みが戻り、石脈病の進行が、その経穴穿刺によって完璧に食い止められたのだ。
「な、なんて鮮やかな手際だ。魔導の機械も使わずに、たった二本の鍼で肺の硬化を解いてしまうなんて、貴方は一体」
老医師が目を見開いて震える中、枢は静かに鍼を抜き、少年の布団を優しくかけ直した。
「私はただの鍼灸師ですよ、先生。この子の病根はまだ完全に消えたわけではありませんが、急性期の危機は脱しました。あとはあなたの手による、丁寧な看病が必要です」
枢が立ち上がり、往診鞄を閉じようとしたその時、診療所の開け放たれた窓から、冷徹で、どこか不気味な魔力の気配が室内に流れ込んできた。
それは、枢が放つ白銀の気とは完全に相反する、すべてを侵食し、強制的に支配するような漆黒の気の波動であった。
枢が路地の奥へと視線を向けると、薄暗い霧の向こう側に、一人の男が静かに佇んでいた。
黒い法衣を纏い、その右手には、不気味な漆黒の輝きを放つ、見たこともない太い黒鍼が握られていた。
その男の周囲にいた石脈病の患者たちは、彼の黒鍼が一刺しされるたびに、苦痛の声を上げながらも、まるで魂を奪われた人形のように、強制的に立ち上がって歩き出していた。
「管理されざる命を、偽りの救済で繋ぎ止めるか、白銀の鍼師よ。だが、その生ぬるい医術では、この大陸の本当の病を完治させることはできん」
黒衣の男は、冷笑を浮かべながらそう呟くと、黒い霧と共に路地の闇へと姿を消した。
枢の白銀の鍼に対し、破壊と強制の経絡を操る「謎の黒鍼師」の出現。
新たなる大陸での医療の覇権を巡る、より深く、より過酷な第二の闘いが、今まさに幕を開けたのである。
つづく。
5月17日(日)10:00、第二部開幕。
聖鍼師・枢。黒鍼の宿敵と邂逅する。
12時、日曜の特別更新は、第436話「黒い医療の罠、私設診療所の危機とリナの不穏な直感」へと突入します。
第435話「新たなる大陸、動乱の医療都市と謎の黒鍼師」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
ついに始まりました、待望の第二部「動乱の医療都市編」!
舞台は、最先端の魔導医療に湧く大都市ルミナリアですが、その華やかさの裏にある地下街の惨状、そして奇病「石脈病」の恐怖は、第一部とはまた違った緊張感を物語に与えていますね。
石脈病による急性呼吸不全に苦しむ少年に対し、枢先生が放った二つの神速の銀鍼。
まず、胸部にある手の太陰肺経の「中府」を穿ちました。この中府は、東洋医学において肺の気が集まる最も重要な場所(募穴)であり、呼吸器全体の機能を急速に高め、胸のつかえや呼吸困難を劇的に改善する効能を持っています。枢先生はここへ白銀の気を送り込むことで、石のように硬化し始めていた少年の肺組織を内側から優しく拡張させました。
さらに続けて、手首の横紋上にある同じく肺経の「太淵」を刺激しました。ここは「脈会」と呼ばれ、全身の血脈の流れを統括する非常に重要な経穴です。ここを刺激することで、呼吸不全によって滞り、冷え固まりかけていた少年の血液循環を一気に活性化させ、体内に溜まった不要な熱と不浄の気を効率よく排熱させました。この二つの連携により、少年は一滴の魔導薬を使うこともなく、完璧に呼吸の平穏を取り戻したのです。
しかし、そんな枢先生の前に現れた、漆黒の鍼を操る謎の黒鍼師。
患者を優しく癒やす枢先生の医療とは真逆の、恐怖と強制によって病人を動かす彼の目的とは一体何なのでしょうか。
次回の第436話は、本日【10:00】に更新予定です。
地下街を侵食する黒い医療の罠と、私設診療所に迫る新たなる危機。
リナさんが感じ取った、不穏な直感の正体とは。
皆様の熱い新章への応援コメントが、枢先生の銀鍼にさらなる鋭さを与えます。
12時、霧深き地下街の診療所にて、再び皆様とお会いできることを楽しみにしております!




