第436話:黒い医療の罠、私設診療所の危機とリナの不穏な直感
謎の黒鍼師が地下街に姿を現してから数時間、医療都市ルミナリアの底辺に、さらなる狂乱の嵐が吹き荒れようとしていました。
黒鍼によって石脈病の苦痛を強制的に遮断された患者たちが、虚ろな瞳のまま立ち上がり、理性を失った暴徒となって私設診療所へと押し寄せてきます。
「おやおや、リナさん。あなたの直感は、やはり見事に大当たりのようですね。一時的に痛みを麻痺させ、身体を限界を超えて動かさせるなど、それは医学ではなく、命の蝋燭を無理やり削り取る悪魔の業です。皆さん、私の背後へ。理性を失った患者さんたちを傷つけることなく、その暴走した神経を一度眠らせる、緊急の集団施術をはじめますから」
12時、日曜の特別更新。黒い医療の罠、私設診療所の危機とリナの不穏な直感。
優しき白銀の銀鍼が、黒に染まった狂乱の街を包み込みます。
地下街を満たす湿った空気は、数時間前よりも明らかに不穏な熱を帯びていた。
老医師の営む私設診療所の窓の外からは、地響きのような無数の足音と、獣のような低い呻き声が近づいてくるのが聞こえていた。
リナは部屋の隅に置かれた自身の巨大なリュックサックから、昨日新調したばかりの護身用の短槍を素早く引き抜き、扉の前に立ちはだかった。
彼女の全身の細胞が、これまでの過酷な戦場で培ってきた戦士としての危険信号を、激しく鳴らし始めていた。
「先生、やっぱりおかしいよ。あの黒鍼の男が去っていった後から、地下街のあちこちで、さっきまで動けなかったはずの重症の患者たちが、一斉に暴れ始めているの。痛みが消えたっていうより、何か恐ろしい力で身体を操られているみたいに、みんな正気を失っているわ」
リナの言葉を裏付けるように、診療所の薄暗い木製の扉が、外側から凄まじい力で叩き壊された。
現れたのは、衣服を引き裂き、皮膚の一部が黒い岩のようにガチガチに硬化した、石脈病の末期患者たちであった。
彼らの瞳はハイライトを失って完全に濁り、口からは白い泡を吐きながら、ただ目の前にあるものを破壊せんとして突進してきた。
「うわああっ! 来ないでくれ! みんな、どうしちまったんだ、さっきまで寝たきりだったじゃないか!」
老医師が恐怖のあまり腰を抜かし、少年のベッドを庇うようにして床に這いつくばる。
ガストンが即座に計測器を構え、押し寄せる暴徒たちの生体波長をスキャンしたが、その画面に表示されたのは、異常なまでの脳神経の過加熱を示す真っ赤なアラートであった。
「先生、ダメだ! 彼らの脳、アドレナリンと未知の闇の魔力が限界値を超えて分泌されているよ! 痛覚が完全に死滅しているから、自分の骨が折れるのも構わずに動き回っているんだ。このままだと、あと数時間で彼らの心臓が負荷に耐えきれなくて破裂しちゃう!」
「つまり、あの黒鍼師の目的は、治療ではなく、患者の命を使い潰すことだったのね。なんて悍ましい男かしら。等価交換のルールさえ無視して、ただ肉体を暴走させるなんて、絶対に許せないわ!」
シオンが魔導書を展開し、暴徒の足元の大地を錬金術で泥に変えて拘束しようとしたが、狂乱した患者たちは自らの足首の肉がちぎれるのも厭わずに、泥を振り払って前進してきた。
彼らはもはや、痛みを忘れた最強の兵士へと変えられていた。
「おやおや、これはひどい乱診ですね。痛みを消すために、命の本質である経絡そのものを焼き切ってしまうなんて。……リナさん、槍を収めなさい。彼らは敵ではなく、極めて重篤な急性脳症に陥っている、可哀想な患者さんたちなのですから」
枢が静かにリナの前に歩み出た。
彼の往診鞄からは、すでに五本の白銀の長鍼が、彼の指の間に扇状に挟まれて輝いていた。
暴徒の先頭に立つ巨漢の男が、岩と化した巨大な拳を振り上げ、枢の頭部へと向かって容赦なく振り下ろす。
並の戦士であれば肉体を粉砕されかねない一撃。
しかし、枢はその拳の軌道を見切るどころか、自らその懐へと一歩、鋭く踏み込んだ。
「まずはその過剰な脳の興奮を、力ずくではなく、大自然の静寂へと戻しましょう。督脈の、百会を穿ちます」
枢の白銀の鍼が、巨漢の頭頂部の正中線上にある経穴、百会へと、まるで豆腐に針を刺すかのような滑らかさで突き刺さった。
白銀の気が巨漢の脳の経絡へとダイレクトに注入され、暴走していた神経伝達物質の嵐が一瞬にして凍りつく。
巨漢の動きがピタリと止まり、その拳が枢の額のわずか数センチ手前で完全に停止した。
「続けて、手の厥陰心包経、内関を開放します。高ぶりすぎた心臓の鼓動を鎮め、内臓の熱を速やかに排泄させますよ」
枢のもう一本の鍼が、巨漢の手首の内側にある経穴、内関へと吸い込まれるように刺入された。
ドクドクと不気味に波打っていた巨漢の頸動脈の脈拍が、みるみるうちに静かで穏やかな律動へと落ち着いていく。
巨漢は大きな息を一つ吐き出すと、そのまま糸が切れた人形のように、しかし非常に安らかな表情となって、砂浜の寝床へと横たわるように床へ崩れ落ち、深い眠りへと落ちていった。
「な、何が起きたの? 触れただけで、あんなに暴れていた人が寝ちゃった……!」
リナが驚愕の声を上げる中、枢は残る四人の暴徒たちに対しても、まるで舞を踊るかのような優雅な歩法で接近していった。
右へ、左へと、敵の攻撃の風圧を感じながらも、枢の指先からは白銀の閃光が絶え間なく放たれる。
「貴方には百会と内関を。そちらの貴方にも、同じく心の平穏を」
わずか数十秒の出来事であった。
診療所に乱入してきた五人の暴徒たちは、誰一人として新しい傷を負うことなく、その場に静かに横たわり、まるで長年の不眠症から解放されたかのような、穏やかな寝息を立て始めたのだ。
「素晴らしい……。これが、伝説の一族の、経穴執刀術なのか……」
老医師が涙を流して感嘆する中、枢は往診鞄の蓋を静かに閉め、地下街のさらに奥深く、漆黒の気の残滓が渦巻く闇の向こうを見つめた。
「ガストン、この暴走を引き起こしている黒い気の源泉は、どこから流れてきていますか」
「ええと、計測器のデータによると、この地下街のさらに最下層にある、廃魔導エネルギーの処理場だよ。そこに、あの黒鍼師の拠点がある可能性が高い。……でも先生、あそこは有毒なガスが充満していて、普通の人間じゃ一分も生きていられない場所だよ!」
「おやおや、それは好都合ですね。毒が強い場所ほど、名医の治療のしがいがあるというものです。リナさん、シオン、準備はいいですか。私たちの新しい往診の旅は、どうやらこの街の最も深い膿を搾り出すことから始まるようですから」
枢の言葉に、リナは力強く頷き、シオンは不敵な笑みを浮かべた。
黒鍼師が仕掛けた、命を弄ぶ狂気の医学。
その真意を突き止めるため、聖鍼師・枢と仲間たちは、光なき地下街の最深部へと、迷うことなく足を進めるのであった。
つづく。
5月17日(日)12:00、黒い医療の罠。
聖鍼師・枢。狂乱の患者たちを無傷で救う。
15時、日曜の夕方の更新は、第437話「有毒の最下層、魔導廃棄場での追跡と黒鍼師の冷徹な実験」へと突入します。
第436話「黒い医療の罠、私設診療所の危機とリナの不穏な直感」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
新章第二部、早くも怒涛の展開となってまいりましたね。
痛みを無理やり麻痺させ、限界を超えて肉体を暴走させるという黒鍼師の呪われた医療。それは、目の前の患者の命をただの使い捨ての道具としてしか見ていない、枢先生の理念とは完全に相容れない絶対的な悪の形でした。
そんな狂乱の暴徒と化した患者たちの襲撃に対し、枢先生が繰り出したのは、誰一人として傷つけない白銀の連携術式でした。
頭頂部の百会を穿つことで、黒鍼の魔力によって異常な興奮状態に陥っていた脳の神経伝達を一瞬にして鎮静させ、まるで大自然の静寂の中にいるような深い眠りへと誘う。
さらに続けて、手首の内側にある内関(内関)を刺激し、痛覚を失って壊滅的な負荷がかかっていた彼らの心臓の鼓動を穏やかな律動へと戻し、急性心不全による肉体の崩壊を未然に防ぐ。
脳と心臓の暴走を同時にコントロールし、血を流すことなくただ眠らせて命を救う姿は、まさに東洋医学の極致であり、白銀の銀鍼が持つ真の救済の姿でしたね。
次なる舞台は、有毒ガスが渦巻く最悪の魔導廃棄場。黒鍼師がそこで行っているという冷徹な実験の正体とは一体何なのでしょうか。
次回の第437話は、本日【15:00】に更新予定です。
夕暮れの闇が地下街をさらに深く包む頃、枢先生たちの次なる往診の戦いをぜひ見届けてください。
皆様の熱い応援コメントや新章への感想が、次のエピソードを最高潮の熱量で執筆するための最高の気となります。
15時、霧深き地下街の最深部にて、再び皆様とお会いできることを楽しみにしております。




