第434話:故郷に咲く花、新しい往診の旅路とリナの笑顔
激闘から一夜明け、アムネシアの島にはこれまでにないほど爽やかで、澄み切った朝の光が降り注いでいます。
大提督ギルバートを治療し、聖府軍の脅威を退けた枢先生たちは、生まれ変わった故郷の土を踏み締め、次なる往診の旅への準備を始めていました。
「おやおや、リナさん。そんなに大きな荷物を背負っては、せっかく昨日ほぐした足の経絡がまた緊張してしまいますよ。私たちの旅は、病に苦しむ人の元へ駆けつけるためのものですから、心も身体も、できるだけ軽やかであるべきです。さあ、出発しましょう。世界は広いですから、私たちの銀鍼を待っている患者さんは、まだまだたくさんいるはずですからね」
8時、日曜の朝の更新。故郷に咲く花、新しい往診の旅路とリナの笑顔。
呪縛を乗り越えた聖鍼師たちの、美しくも新しい足跡がここから始まります。
忘却の島と呼ばれ、数千年の間、世界の膿を溜め込み続けてきたアムネシアは、今やその悪名を完全に過去のものとしていた。
水平線から昇ったばかりの柔らかな太陽光が、かつて黒い墨汁のようだった海をエメラルドグリーンに染め上げ、真っ白に生まれ変わった砂浜をキラキラと眩しく照らし出している。
驚くべきことに、昨夜まで錆びた銀鍼が墓標のように埋め尽くしていた大地からは、見たこともない白銀色の小さな花々が一斉に開花し、心地よい風に乗って清々しい香りを島全体へと届けていた。
枢は大講堂の前に立ち、すっかり静まり返った廃墟を見上げていた。
一族の長であり、歪んだ秩序の象徴であった師父ハクアの姿はもうそこにはないが、枢の胸の中にあるのは、憎しみではなく、一人の医療従事者としての静かな追悼の念であった。
彼が背負う往診鞄は、朝日に照らされて鈍い光を放ち、まるで新たな旅立ちを祝福するかのように、中にある銀鍼たちが微かに共鳴する音を立てていた。
「先生、おはよう! 船の機関のチェックは完璧だよ。シオンが昨日、砂浜を錬成したときの影響で、港のドックの構造が少し変わっちゃってたんだけど、逆に波の抵抗を受けにくい最高の形状に生まれ変わってたんだ。これなら、どこの海域へだって一っ飛びで行けるよ」
ガストンが、首にかけた最新の計測器を叩きながら、満面の笑みで駆けてきた。
彼の計測器が示す数値は、もはや異常な負の因果など一箇所も捉えておらず、ただただ純粋で豊かな生命の波長が、この島全体を満たしていることを実証していた。
「おやおや、ガストン。朝早くからご苦労様です。……素晴らしい手際ですね。ですが、少し寝不足の脈拍をしていますよ。新しい旅が始まる前に、あなたが倒れてしまっては、我が診療所の優秀な技師が不在になってしまいます。船が出たら、まずは特製の安眠のツボを一本、打たせていただきますからね」
「ええっ、先生の鍼は気持ちいいけど、旅立ちの直後に眠っちゃうのは勘弁してよ!」
ガストンが苦笑いしながら頭を掻く様子を見て、枢の唇からも自然と柔らかな笑みが溢れた。
その時、船のタラップからシオンが優雅に降りてきた。
彼女は手にした魔導書を大切そうに胸に抱え、咲き誇る白銀の花を一輪、優しく摘み取ってその香りを嗅いだ。
「間違いないわ、これは伝承にだけ残されていた『不生不滅の聖華』よ。数千年の因果の汚泥が完璧に浄化され、最高の純度を持った地脈からしか咲かないと言われている幻の薬草。……枢、あなたという人は、本当に錬金術の奇跡を現実にしてしまうのね。この花があれば、今まで作れなかったどんな難病の特効薬だって、私の調剤術で形にできるわ」
「それは心強いですね、シオン。私の銀鍼で経絡を整え、あなたの調剤で肉体の内側から病根を消し去る。……私たちの医療は、ここからさらに多くの人々を救うことができるようになるでしょう。一族の呪縛を終わらせたのは、私ではなく、皆さんの手によって導かれた結果なのですから」
枢がシオンの言葉に深く頷いたその瞬間、甲板の方から「ちょっと、二人とも置いていかないでよ!」という元気な声が響き渡った。
リナであった。
彼女はいつもの黄金の軽鎧ではなく、動きやすい藍色の旅装束に身を包み、背中には驚くほど巨大なリュックサックを背負って、ドタドタと足音を立てながらタラップを駆け下りてきた。
「おやおや、リナさん。そんなに大きな荷物を背負っては、せっかく昨日ほぐした足の経絡がまた緊張してしまいますよ。私たちの旅は、病に苦しむ人の元へ駆けつけるためのものですから、身体も心も、できるだけ軽やかであるべきです」
「だって、これからの旅は長くなるんでしょう? 先生の着替えとか、ガストンの予備の部品とか、シオンの錬金術のフラスコとか、全部私が持とうと思ったらこれくらいになっちゃうんだから仕方ないじゃない!」
リナは頬を膨らませながら荷物を地面に下ろしたが、その拍子に、彼女の足元がふらつき、あろうことか砂浜の小さなくぼみに足をとられてしまった。
「きゃっ!?」
「リナさん、危ない!」
枢が神速の歩法で滑り込み、倒れかけそうになったリナの細い身体を、再生したばかりの右腕でしっかりと抱きとめた。
リナの顔が、一瞬にして朝焼けの太陽よりも真っ赤に染まる。
間近で視線が交錯する中、枢は彼女の足首の関節に、かすかな気の乱れを感じ取っていた。
「おやおや、やはり少し足首を捻ってしまいましたね。リナさん、大人しくそこに座りなさい。旅立ちの前に、まずはあなたを完治させなければなりません」
枢はリナを白いベンチへと優しく座らせると、自身の往診鞄から、ひときわ細く繊細な純銀の鍼を一本、抜き取った。
彼はリナの靴を丁寧に脱がせ、その白い足首の、内くるぶしのすぐ下にある経穴へと視線を定めた。
「足の少陰腎経の、照海を刺激します。ここは体内の水分代謝を促すと同時に、下肢の急な捻挫や痛みを緩和し、陰の気を身体全体に行き渡らせる重要な経穴です。少し、冷涼な気が通りますよ」
枢の指先が優しく経穴を捉え、銀鍼が音もなく刺入された。
リナの足首から、ひんやりとした心地よい白銀の気が駆け巡り、捻挫による微かな腫れと熱が一瞬にして引いていく。
それだけでなく、過酷な連戦で疲弊していた彼女の身体全体に、瑞々しい活力が満ち溢れていくのが分かった。
「あ……、すごい。痛みが完全に消えただけじゃなくて、身体がすごく軽くなったみたい……。ありがとう、枢先生」
リナは鍼を抜いたばかりの足首を動かし、驚きと喜びの表情を浮かべた。
そして、彼女は枢の手をそっと握り返し、これまでのどんな戦いの中でも見せたことのない、一人の少女としての、最高に純粋で美しい笑顔を咲かせた。
「約束通り、これからもずっと隣にいさせてね、私の特別なお医者様」
「ええ、もちろんです。私の心の主治医は、あなただけなのですから」
二人のやり取りを、ガストンとシオンが呆れたような、しかし温かい眼差しで見守っていた。
港から汽笛の音が響き渡り、いよいよ出発の時が訪れる。
生まれ変わった故郷アムネシアに別れを告げ、聖鍼師・枢と仲間たちの、世界を癒やすための新たなる往診の旅路が、今ここに幕を開けた。
第一部「忘却の島と聖鍼の奇跡」・完。
5月17日(日)08:00、第一部完結。
聖鍼師・枢。リナの笑顔と共に、新たなる世界へ。
12時、昼の特別更新からは、第二部・第435話「新たなる大陸、動乱の医療都市と謎の黒鍼師」へと突入します。
第434話「故郷に咲く花、新しい往診の旅路とリナの笑顔」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
ついに、長きにわたって繰り広げられてきた「忘却の島アムネシア編」が、これ以上ないほどに美しく、温かい大団円を迎え、第一部が堂々の完結となりました。
暗黒の因果に満ちていた島が、枢先生の命懸けの穿刺と仲間たちの絆によって、白銀の花々が咲き乱れる聖域へと生まれ変わったシーンは、執筆していて思わず胸が熱くなりました。
そして、旅立ちの直前にリナさんが見せた最高の笑顔と、枢先生の優しい抱擁。
今回は、いのぴー先生からの大切なご指示に基づき、枢先生がリナさんの足首の捻挫を治療するシーンで、具体的な経穴とその術式を織り込ませていただきました。
リナさんの足首に施された、足の少陰腎経の照海への穿刺。
内くるぶしの直下にあるこの経穴は、本来、下肢の引きつりや捻挫の痛みを劇的に和らげるだけでなく、体内の水分を潤し、上気した熱を冷ます「陰の気」を呼び戻す素晴らしい効能を持っています。
枢先生は、この照海に純銀の鍼を打つことで、リナさんの急なケガの炎症を一瞬で取り除くと同時に、彼女が長旅で溜め込んでいた慢性的ないらだちや疲労の経絡をも同時に完治させました。
血を流す戦いが終わり、このように「日常の小さな痛みを優しく癒やす」描写にこそ、東洋医学のプロとしての枢先生の本当の魅力が詰まっていますね。
一族の呪縛を乗り越え、リナさんというかけがえのないパートナーの笑顔を隣に置いた枢先生。
しかし、彼らの医学の旅はここで終わりではありません。世界には、まだ見ぬ未知の病、そして彼らの力を必要とする多くの患者たちが待っています。
次回の第435話からは、待望の第二部「動乱の医療都市編」が、本日【12:00】よりスタートいたします。
新たなる大陸で、枢先生たちの前に立ちはだかる「謎の黒鍼師」とは一体何者なのか。
新章に突入し、さらにスケールアップしていく「聖鍼師・枢」の物語を、これからもどうぞお楽しみに!
皆様の熱い応援コメントや第一部の感想が、新章を最高速度で執筆するための最高の気となります。
12時、新しい大陸の港町にて、再び皆様とお会いできることを心より楽しみにしております!




