84.トカゲ(2/2)
「こんにちは」
寒い日の白い吐息のような、ふんわりと空気に溶け出してしまうほど気の抜けた声だった。
――トカゲは必ず、きちんと挨拶をする。
この挨拶を無視するとトカゲが怒りだして厄介だ。
ミチルはトカゲのいる段まで下りてから、丁寧に、貴族然と一礼をした。
「こんにちは。こちらには何の御用で?」
「魔法士官学校の生徒を攫って来いと言われまして」
「へえ、誰に?」
「チビで、デブで、ちょび髭の、ハゲたおじさん」
――トカゲは割とおしゃべりが好き。
質問すれば重要なことでも案外教えてくれる。
お陰で『魔狩り』に指示を出したのが十中八九、朱雀伯であることが知れた。
「そいつ、すごく横柄で腹が立っただろう? 命令聞くの、癪じゃないのか?」
「そうですね。癪ですね。帰ろうかな」
――トカゲは基本的にやる気がない。
やる気のないところを更に煽れば、何もせずに帰ってしまうこともある。
ミチルは今回、戦わずに済ませようとしていた。
生徒の無事を確保するには、それが一番確実だからだ。
加えて、塔の中には異様なほどに魔力が満ちていて、魔法が暴発しかねない。
「あの、トカゲ様、さすがに何もせずに帰っては主様が何と仰られるか……」
それはトカゲの後ろに隠れていた、一人の魔法使いが掛けた言葉だった。
怠惰なトカゲの目付け役だろう。
そこで初めて、トカゲ以外にも魔法使いがいたことに気付いた。
それも、外套を着ていたから魔法使いと認識できたほどだ。
なんせ周囲の魔力が濃すぎて、弱い魔力を感知できない。
目付け役の魔法使いは、それほどまでに脆弱な魔法使いだった。
「んー、じゃあ、人間だけでも突撃させますか」
トカゲが階段を下り、人間たちが矢面に立たされる形になった。
「あ、どうぞ、襲っていただいて」
トカゲが手でミチルを示す。
当然、人間たちは戸惑った。
腰が引けたまま隣り合う人間で顔を見合わせ、うん、と一つ頷き合うと、得物を掲げて階段を駆け上がってきた。
「めちゃくちゃだな……」
ミチルはうんざりとした顔で前髪を掻き上げた。
殺し合いをするには今一つ緊迫感が足りない。
でも、人間たちは構わず襲い掛かってきた。
最初にミチルの前に到達した人間が、持っていた鍬を振り下ろそうとした。
が、ミチルはその腕を片手で軽々と掴むと、もう片手で鍬を奪い、ついでに腕の骨を折った。
「あああっ!」
悲痛な叫び声を上げて、人間はその場に崩れ落ちた。
「あー……、ミチル先生、俺、どうしたらいいですか……?」
アスカはすっかりやる気を削がれていた。
だが、人間に鋤で突かれそうになり、アスカは咄嗟に人間の鳩尾を蹴り上げた。
やはり人間はうめき声を上げて、その場にしゃがみ込んだ。
「油断させるために茶番を挟んだ可能性があるだろう。気を抜くな」
「なるほど。分かりました」
アスカは外套から短刀を引き抜いた。
アスカが成人の際に父親から贈られた、シヅの物より一回り長い短刀だった。
わずかな光を反射して、刀身が瞬いた。
刃を向けられて、人間たちの顔色が変わる。
ミチルはそれを見逃さなかった。
「お前たち、『魔狩り』じゃないな。朱雀領の農民か?」
『魔狩り』であれば、もっと悪い人相をしているものだ。
それがこの人間たちは見るからに気が弱そうで、とても悪さができるとは思えない。
へっぴり腰も、人を襲うときのぎこちない動きも、まるでなってない。
武器に農具を携えていることが、より一層悲壮感を漂わせていた。
「ここで退散するなら見逃してやる。そろそろ収穫どきだろ? 今人手を失うのは良くないんじゃないか?」
ミチルの言葉を飲み込んだ人間たちが、再び隣り合う者たちで顔を見合わせる。
「退散しないなら、容赦しないぞ」
ミチルはそう言って袖をまくり上げ、その逞しい筋肉で威嚇しながら、姿勢を低く構えた。
「わあ」「ひい」と言いながら、皆一目散に駆け下りていった。
ミチルに腕を折られた人間と鳩尾を蹴られた人間は逃げ遅れ、この場に置き去りになってしまう。
そしてもう一人、置き去りにされた者がいた。
「おい、お前たち!?」
トカゲの目付け役の魔法使いだった。
この魔法使いだけは『魔狩り』なのだろう。
『魔狩り』もある程度厳しい組織ではあるらしい。
任務を遂行できなければ、『魔狩り』の名に傷を付けたとして処罰が下されるという。
目付け役は――自棄を起こした。
目付け役は魔力を足に集中させ勢いよく踏み込み、高く跳び上がる。
ミチルとアスカの頭上を軽々と越えて、彼らの背後に着地した。
上手く背後に抜けた、と目付け役の口元に笑みがこぼれた。
「何を笑っている?」
「へ!?」
僕の顔を見て目付け役は目を丸くした。
『魔狩り』の死角となる位置で控えていた甲斐があった。
「タクミ、そっちはよろしく」とミチルが言った。
「ああ」と僕はそれだけ返す。
目付け役はもう一度魔力を集中させ、今度は僕を跳び越えようとした。
が、そんなことなど当然予測済みだ。
目付け役が頭上を通り過ぎようとしたその瞬間、足首を引っ掴み、そして振り下ろす。
目付け役の身体がしなり、ドカン、という大きな衝撃音と共に、後頭部が階段へ強く打ち付けられた。
更に、掴んだ足首を潰すように強く握り、骨にひびを入れた。
声にならない悲鳴が上がる。
それでも皆、涼しい顔をしていた。
皆の関心はトカゲにあった。
――トカゲは、周りが退くと本人も退く。
でも、こちらから帰りを促すと機嫌を損ねて襲い掛かってくることがある。
天邪鬼で地雷のような奔放な気質は有難くもあり、どうしようもなく理不尽でもある。
どうかこのまま退いてくれと三人ともが願っていた。
「と、トカゲ様……! どうか、どうか私共の代わりに任務を果たして……! こいつらを蹴散らし、生徒を一人でも連れ帰れば――」
目付け役が縋るような声を上げた。
バカなのか、コイツは。
「え、いやです」
キッパリとトカゲが断った。
――トカゲは格下の命令を、いや、懇願すら聞かない。
「そもそも俺、言ったでしょ。こんな計画じゃ失敗するって。見届けたので帰ります。あーあ、全滅って伝えないと。怒られるかなあ」
「え! あの、トカゲ様……!」
「それじゃあ、失礼します。お疲れ様でした」
トカゲはくるりと身を翻し、ゆっくりゆっくり、階段を下りていく。
だが、いつトカゲの気が変わって襲いかかってくるか分からない。
三人ともトカゲの位置を探り続ける。
ようやくトカゲが建物の外に出た、その瞬間、トカゲの魔力が膨張する。
ミチルもアスカも身構えたが――
「……転移した。もうこの辺りにはいない」
僕がそう言うと、ミチルとアスカは深い深い溜め息を吐いた。
「噂には聞いていたが、あいつ、引き際だけは超一流だな……」
ミチルが呆れたように言った。
――トカゲは必ず、逃げる。
引き際を間違えない。
そして痕跡を残さない。
これまでトカゲが何度『黒烏』と対峙してきたか分からない。
だが、その全てを潜り抜けて、未だ捕まったことがないのだ。
こうして『魔狩り』の襲撃は、比較的平和に、魔法士官学校側に被害を出すことなく幕を閉じた。
捕らえた侵入者たちは僕が引き受け、塔の出口で鉢合わせたシロウ様に引き渡した。
シロウ様は両肩に一人ずつ抱えていたが、何があったのかは敢えて聞かないことにして、僕は何食わぬ顔をして生徒たちの前に戻った。
その他、いくつかの残務処理は上に任せることにする。
次話投稿は 2026/10/13 21:00 です。




