76.魔法使いと首都豪雨(1/2)
今日は夏休み明け初めての雨天日。
私は久しぶりに春花侯爵家の魔法特区邸にやって来ていた。
『偽装婚約』のために来ているけれど、それを抜きにしても、私はここで過ごす時間が好きだ。
この邸宅は建国以前に建てられたものらしい。
確かに年季は感じるけれど、細部まで手入れが行き届いていて、今も大事に使われていることが分かる。
それに、使用人さんたちはみんな魔法使いで、私のことも丁重にもてなしてくれる。
一番丁寧なのは、もちろん、ツバキ先輩だ。
「改めまして、先日は白陰領にお招きくださり、ありがとうございました」
「こちらこそ、わざわざ足を運んでいただき、ありがとうございました」
「それから、青龍では不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
「その件については、もうツバキ先輩は謝らないでください」
こうして来賓室で近況報告が始まる。
とはいっても、授業でどんなことをした、とか、女子寮でこんなことがあった、とか、他愛のない話ばかり。
不仲を疑われないためにも、こうやってお互いの近況や交友を把握しておくことだって大事なことなのだ。
実利も大きい。
授業で分からないことがあれば、ツバキ先輩は積極的に教えてくださる。
教職に就く前の練習になるから、と言って。
本当に、ありがたい時間だ。
さて、今日の話題はというと――
「先日の中央御苑では、ツバキ先輩もお濠に舟を出されたんですか?」
「ええ、貴重な体験をさせていただきました」
ああ、やっぱり……。
想像すると少し……いや、侯爵令息が皇宮のお濠に小舟を浮かべて城壁に張り付いている姿なんて、どこをとっても面白い。
「シヅさんはあの日、城壁に触れなかったのですか?」
「はい、一年魔法特科は周囲の散策だけでしたので」
「……そう、ですよね」
ツバキ先輩は決まりが悪そうに笑った。
今になって大胆なことをした自覚が芽生えたみたいだった。
私はそこには触れずに続けた。
「私、皇宮を見たのは初めてで、あまりに大きくってびっくりしました! ツバキ先輩は、皇宮の中に入ったこともあります、よね?」
「ええ。父の付き添いで何度か」
「皇帝陛下や皇女殿下にお会いしたことも?」
「はい。どちらも片手で数えられる程度ですが」
やっぱり、ツバキ先輩と皇女殿下は面識があるんだ。
皇女殿下がツバキ先輩に好意をお持ちかもしれない、という話の信憑性が増す。
ツバキ先輩と皇女殿下の関係性を確認するなら今しかない!
「あの、つかぬことをお聞きしますが、皇女殿下ってどんなお方なんですか?」
「そうですね……。お顔立ちは皇太后陛下に似ていらっしゃいます。話をしたことはなく、人となりは私も分かりません」
「……話をしたことがない?」
「ええ。皇太后陛下は魔法使いがお嫌いなので、魔法使いと対等に暮らす春花侯爵家をあまりよく思っていないようでして。皇女殿下もそれを察して、春花侯爵家には見向きもしません」
「そうなんですか……?」
皇太后陛下が、魔法使い嫌い?
皇女殿下まで春花侯爵家に接触がないなんて。
となると、ヒョウガ君の予想は外れ?
いや、皇太后陛下に阻まれて、皇女殿下が接触したくてもできなかった可能性もあるかも?
いろいろと考えていたときだ。
バラバラバラ、と小豆を撒いたような音がして肩が跳ねた。
音のした方を振り向くと、窓に大粒の雨がぶつかり、幾筋もの跡が残っていた。
「なんだか今日の雨、ひどいですね」
いつもの雨天日は目が覚めたときが一番激しくて、徐々に雨足が弱まり、正午ごろには止んでいた。
それなのに、今日の雨は朝の勢いのまま降り続けている。
「そうですね。でも、この季節の雨は『天候制御装置』を以てしても長引くことが多いので、心配しなくても大丈夫かと思います。昼下がりには雲が薄くなってくるでしょう」
窓越しに見える雲は、いつも以上に暗い。
でもツバキ先輩がそう言うのなら、きっと大丈夫なんだろう。
「もしよろしければ、ご一緒に昼食は如何でしょう?」
「いいんですか?」
「もちろん。白陰子爵邸ではご馳走になりましたから」
そうして私は、ツバキ先輩と一緒に来賓室でお食事をいただいた。
一人前のお盆にいくつもの小鉢が整然と並び、それぞれ違う種類の料理が彩りよく盛り付けられている。
野菜もお肉もお魚もご飯も、味付けが一つずつ違っていて、どれもとても美味しかった。
侯爵家の食事なんて滅多に食べられるものではない。
貴重な体験をさせてもらったことに感謝をしつつ、……ツバキ先輩が白陰領にいらっしゃったとき、食事は質素なものしか出せなかったから、申し訳なくも思った。
※ ※ ※
昼食のあと、食後のお茶もゆっくりと味わい、更にはおやつどきに甘味までいただいて、それでもなお、私は春花侯爵家の魔法特区邸に居座っていた。
新しく淹れていただいた温かいお茶を啜りながら、来賓室の窓から空を見上げる。
「雨、止みませんね……」
「こんな時間まで止まないなんて、初めてのことです」
そう、いつまで経っても雨が止まないのだ。
本当に止むの?
不安になるほどの厚い雲が、未だに空を覆っている。
「あまり遅くなっては寮母さんが心配しますし、帰りましょう。馬車を用意させますから――」
ツバキ先輩がそう言ったとき、来賓室の扉を叩く音がした。
「どうぞ」とすかさずツバキ先輩が返事をすると、入ってきたのは、ツバキ先輩によく似た男性だった。
髪の色だけ、ツバキ先輩の濃緑色とは違い、日に照らされて輝く若葉の色をしていた。
春花侯爵にしては若すぎる。
きっとツバキ先輩のお兄様だ。
私は立ち上がった。
ツバキ先輩は後妻の子。
ツバキ先輩のお兄様方は前妻の子だ。
そこにわだかまりがあるかどうかは分からない。
けれど、春花州の魔法使いがツバキ先輩を侯爵に据えようとしていることは、きっとツバキ先輩のお兄様の耳にも届いているはず。
ツバキ先輩自身に襲爵する気はまったくなくとも、ツバキ先輩、ひいては私のことまで敵視していてもおかしくはない。
でもそれは杞憂だった。
「歓談中にすまない。実は緊急招集があって、これから馬車を手配するんだけど、ツバキとご令嬢の分も頼もうか?」
「ありがとうございます、ツワブキ兄様。ちょうど手配しようと思っていたところでした」
「うん、そうか。それじゃあツバキはここで待っておくといい」
ツバキ先輩のお兄様の表情が、あまりにツバキ先輩の穏やかな微笑みとそっくりで、私はつい、まじまじと見つめてしまう。
するとツバキ先輩のお兄様が私の視線に気付き、近付いて来た。
私は身構え、背筋を伸ばした。
不躾だったから苦言を呈しに来たのかも、と思ったけれど、ツバキ先輩のお兄様は気分を害したような様子はなく、ツバキ先輩と同じ穏やかな眼差しをしていた。
「初めまして。慌ただしくて申し訳ない。ツバキの兄のツワブキと申します」
「こちらこそ、お初にお目にかかります。白陰子爵家長女のシヅと申します」
「話は聞いている。これからもツバキと仲良くしてあげてほしい」
それだけ言って、ツバキ先輩のお兄様――ツワブキ様は踵を返して来賓室を後にした。
どんな話を聞いているやら、と心配に思うものの、ツワブキ様が私に向ける表情は終始明るかったから、きっと悪いようには映っていないはず。
「ツバキ先輩、ツワブキ様はご長男ですよね?」
「ええ、その通りです」
「似てますね……」
「兄弟ですから」
ツバキ先輩は笑った。
可笑しそうに、でも、とても嬉しそうにも感じた。
「ツバキ先輩は、ツワブキ様のこと、お好きなんですね」
「ええ、非の打ちどころのない、自慢の兄です」
ツバキ先輩は誇らしげにそう言った。
ツバキ先輩がそう言い切るってことは、ツワブキ様もとてもいい方なんだろうな。
「私のことで兄の足を引っ張らないようにしたいのですが」
ツバキ先輩はそう呟いて苦笑した。
心配しているのは、やっぱり跡目争いのことだろう。
ツバキ先輩はそれを避けるために結婚もしないと仰っていたけれど――もし、皇女殿下から婚約の打診がきたら、受諾するのかな。
ツバキ先輩が皇族になるのなら春花侯爵家を継ぐことはないし、それに皇室とのつながりができるのは春花州にとって大きな利点だろう。
自身の評判を落とすことなく『偽装婚約』を解消できるのだから、ツバキ先輩にとっても悪い話ではない。
……もちろん、まだ憶測の段階でそんなこと言わないけれど。
次話投稿は 2026/9/14 21:00 です。




