50.魔法使いと黒の森(2/3)
男性は無言のまま、迷いなく『黒の森』を進む。
私を振り返ることもない。
私はそんな男性の背中を夢中で追った。
『黒の森』はとても静かだ。
聞こえるのは、私たちが草むらをかき分けて進む音だけ。
意外だった。
『黒の森』にはうじゃうじゃと魔物がいて、常に魔物同士が諍いあっていると思っていた。
でも、魔物の声が聞こえたのは、遠くの遠吠えが一度きり。
しばらく鬱蒼とした森の中を歩いていたら、突然視界が開けた。
「ここだ」と男性が短く言った。
白陰子爵邸より大きなお屋敷が、本当に、こんなところにあるなんて。
たくさんの蔦に覆われ、見た目は廃屋のよう。
ちょっと怖い。
私がお屋敷を眺めていると、男性が扉を開けた。
「入りなさい」
男性の低い声に導かれるようにして、私はお屋敷のなかに入り――目を見張った。
玄関の天井でシャンデリアがキラキラと輝き、私を温かく迎えてくれた。
足を踏み入れると毛足の短い絨毯があって、滑らかな生地は疲れた足を労わってくれるよう。
壁際に立つ魔物の彫刻は本物そっくりで、今にも動き出しそうな迫力がある。
なんて素敵なお屋敷なんだろう。
男性に案内されたのは、応接室にしては格式張らない、居間のような部屋だった。
……まあ、ここは『黒の森』なんだから、お客さんなんて来るわけないか。
「掛けて待っていなさい」
「は、はい……」
男性は私を置いて行ってしまった。
私は二人掛けの大きなソファに掛けた。
座面は固く、身体が沈みこむことはないけれど、とても座り心地がいい。
天井近くには宙吊りの飾り棚があって、陶芸品のお皿や茶碗、茶器が所狭しと並んでいる。
煌びやかなものから、私が普段の生活で使うような装飾のない簡素なものまで様々だ。
まるで上級貴族のお屋敷みたい。
テーブルは年季が入って色が黒く変わっていて、ところどころに傷とか落書きのあとが残っている。
後ろの大きな柱には身長を刻んだような傷があった。
途端に生活感を覚えて、微笑ましくなる。
あちこち興味を惹かれるうちに、男性が茶器を抱えて戻ってきて――息を呑む。
びっくりするくらい整った顔立ちをしていた。
彫刻のよう、なんて喩えがあるけれど、まさにその言葉がぴったり。
彫りが深く、均衡のとれた目鼻立ち、堂々とした佇まいは美術品そのものだ。
ただ彫刻と異なるのは、その色。
肌は日焼けしたように浅黒く、腰まである総髪は濡れたような漆黒、目は吸い込まれそうな闇の色。
不思議な魅力を感じて、男性から目が離せない。
男性は私の隣に腰掛け、慣れた手つきでお茶を注ぎ分けていく。
「気を付けて飲みなさい」
そう言って、男性は茶杯を一つ私の前に置いた。
「ありがとうございます」
ほかほかと湯気が立っている茶杯に手を伸ばす。
手のひらで包むように持つと、指先にじんじんと痺れるような感覚があって、こんなにも指が冷え切っていたんだな、と気が付いた。
お茶を一口啜る。
優しい甘みが、温かさと一緒に身体の中に浸透していく。
気付けばホッと一息吐いていた。
「美味しいです」
言葉と笑顔が自然に出ていた。
「そうか」
男性は満足したように目を細めると、茶杯に口付けた。
横目に男性を窺うと……横顔もやっぱり美術品みたい。
正直、私の周りは美男ばかりで、特に兄やシロウ様を見慣れているものだから、私は目が肥えているほうだと思う。
けれど、上には上がいるんだなあ、と感心するほどの美貌だ。
私は平常心を装ってお茶を飲み干し、茶杯をテーブルに戻した。
そのときには、指先は温かさを取り戻していた。
「ありがとうございます。助けていただいたうえ、お茶までいただいてしまって」
私がお礼の言葉と共に頭を下げると、男性はつややかな唇を綻ばせた。
かっこいい人が笑うって、それだけでなんかこう、強いな……! とよく分からない感想が芽生える。
「礼には及ばない。身体で返してもらう」
私は固まった。
すごく物騒な言葉が聞こえた気がするけれど、聞き間違いかな?
ああ、肉体労働でってことかな、お屋敷の掃除とか?
いや、絶対違う。
逃げないと!
でも、どこへ?
焦りと諦め、相反する考えが同時に頭に浮かび、身体が動かない。
男性の手が伸びてきた。
さっきの物騒な言葉が嘘のように、柔らかな手つきで私の手を取る。
『大人しくしていなさい』
男性の言葉が頭の中に響き渡る。
――その瞬間、自分の中の価値観みたいなものが音を立てて崩れた。
男性の言葉に従うことが、今は最も重要で、最も幸せなことのように感じる。
事実、今はただ大人しくしているというだけで、胸の内が多幸感でいっぱいになっている。
……今の私、なんだかおかしい。
そう思っても、大人しくすること以外、何もしたくなかった。
私の手のひらが男性の頬に添えられる。
男性の唇が私の手首に触れた。
自身が口付けた部分を慈しむように見つめる男性に、なんだか、いけないものを見てしまったように感じて、私は目を閉じて俯いた。
もう、なんでもいいから早く終わってほしい……!
そう思った刹那、手首を何かが掠め、鋭い痛みが走る。
「っ……!」
痛い! 熱い!
なのに、声が出ない。
大人しくしていなければならないからだ。
目を開けると、ぱっくりと割れた手首から血が噴き出し、男性がそれを舐めとろうと舌を伸ばしていた。
今度こそ逃げないと!
……でも、そう考えただけで吐き気がする。
大人しくしないと、と思ってしまう。
男性の舌が、私の手首の傷をなぞるように這った。
ざらざらとしたその感覚に、全身が粟立つ。
一度では終わらなかった。
血が湧き出てくるたび、男性は何度も何度も執拗に舐めとった。
ふと、男性の唇が綻ぶ。
その悍ましさに胃液が逆巻いて、でも、大人しくしていないと、と自分を窘め、喉を締めるようにして吐くのを我慢した。
すると、嬉しくて嬉しくて堪らなくなった。
……だめだ、私、やっぱり変だ。
ひとしきり私の血を舐めとったあと、男性は私の手首の傷を魔法で治癒し、私の前腕に伝った血や、自身の手指に付着した血まで、綺麗に、名残惜しそうにすべて舐めとり、そうしてやっと、私の手が解放された。
男性に掴まれていた手を見る。
手首の傷は随分深かったのに、もう、そんな痕跡なんて微塵も残っていない。
痛みもない。
完璧な治癒魔法を施されたのだ。
そして、さっきまでの『大人しくしなければ』という使命感も、いつの間にか消えていた。
解放されたのに、頭の中がぐちゃぐちゃで動けない。
なんだったの……?
でも、とにかく悍ましいことをされたのだけは理解できると、だんだんと胸が苦しくなり、呼吸が荒くなっていく。
全身から汗が噴き出て、震えが止まらない。
せっかく温まった指先が、またかじかむように冷たくなっている。
バタン、と大きな音がして、肩が跳ねる。
慌ただしい足音が近付き、扉が勢いよく開け放たれた。
次話投稿は 2026/6/25 21:00 です。




