44.魔法使いと騰蛇(2/4)
騰蛇城に来た翌日から、私は家事を手伝っていた。
今はお手伝いさんたちと協力して、洗濯物を干し終えたところだ。
家事なんて魔法でどうにかなるかなあって思ったのだけれど、洗濯物は種類ごとに洗い方も干し方も微妙に調整が必要で、あまり活用できなかった。
細かく魔法を切り替えるには、まだまだ練習が必要だなあ。
うーん、と伸びをしたそのとき、居館に光が差し込んできた。
騰蛇城の城壁から、正午近くになってやっとお日さまが顔を出したのだ。
改めて居館を見上げる。
居館はとてもおしゃれ。
真っ白な土壁と、真っ黒な焼き板のコントラストが美しい。
紅瓦と、紅瓦を彩る金縁が絶妙に溶け込み、これぞ豪華絢爛といった建物だ。
それに対し、騰蛇城は無骨だ。
居館を覆い隠す城壁は、砂色の煉瓦がうず高く積まれていて、何度見ても圧倒される。
『シヅさん、こんにちは』
「シロウ様?」
通信魔法のくぐもった声が聞こえ、私は周囲を見回す。
ふと居館を見上げると、シロウ様は自室から窓越しに私を見ていた。
仮眠明けなのか、少し髪が乱れている。
今朝よりは元気そうだけれど、まだ疲れが抜けきってはいないように見える。
『魔物制御装置』が故障した影響は、私の想像以上に厳しいものなんだろうな。
『実はシヅさんにお願いしたい仕事があってね。頼まれてくれるかな?』
「はい! もちろんです!」
身支度を終えたシロウ様と騰蛇城の正門で落ち合った。
今日のシロウ様は、随分ラフな格好だ。
薄手の外套には、シロウ様の個人紋である四つ葉のクローバーみたいな紋様が捺染されている。
いつもは夏炎侯爵家の家紋なので、個人紋は久しぶりに見た気がする。
「仕事の前に、執務室に寄らせてね」と言ったシロウ様のあとを追って、私は騰蛇城を下っていく。
――騰蛇城の本体は城壁ではない。
地下だ。
騰蛇城は崖をくり抜いて作った断崖城塞なのだ。
廊下も階段も部屋も、天井や壁は岩肌がむき出しになっている。
執務室も例外ではない。
岩肌で囲まれた飾り気のない区画に、執務デスクや本棚、簡素な応接セットと、布一枚で仕切られた仮眠スペースがあるだけの、殺風景な部屋。
懐かしさが込み上げてくる。
私が小さいころ、何度かここに来たことがあった。
かくれんぼをしたけれど、狭すぎて、どこに隠れてもすぐに見つかったなあ。
でも私はこの執務室が好きだった。
大きな窓から『黒の森』が見下ろせるから。
「わあ……!」
窓から外を眺め、私は思わずうっとりした。
幼いころから、ここから見る『黒の森』が好きだった。
手前には穏やかな若草色が、視界に納まり切らないほどに広がっている。
でも、奥に行くほどに木々が深緑、紫と変化し、果ては真っ黒に染まっていく。
それを挟み込む海と空の青さが、より一層『黒の森』の異様さを際立たせる。
海も森も、終わりは見えない。
地平線の先まで続いているのだ。
飲み込まれそうな禍々しさは子ども心に恐ろしく、そして、どこか神秘的な魅力を感じて、ずっと眺めていても飽きなかった。
「シヅさんは、『黒の森』は怖くない?」
お茶の準備をしながらシロウ様が言った。
「うーん、そうですね。ちょっと怖いです。でも、綺麗だと思います」
「そうか。うん、そうだね」
魔物の棲み処を綺麗だなんて、なんて不謹慎だろう。
けれど、シロウ様はまったく気にする様子はなく、それどころか、シロウ様もそう思っているみたいに私の気持ちを受け止めてくれた。
「さあ、こちらにおいで」
私は勧められるがまま応接用のソファに掛け、お茶を一口いただいた。
甘い香りに気持ちを落ち着けてから、――私は頭を下げた。
「『偽装婚約』していただいているのに、ツバキ先輩とも『偽装婚約』することになって、……すみません」
正直、怒られると思っていた。
『多重偽装婚約』なんて不誠実だ、って。
でも、シロウ様は目を丸くしていた。
「私はそのほうが都合がいいんだけど……」
私も目を丸くしてしまった。
「だって、シヅさんがツバキ君と『偽装婚約』してくれたおかげで、誰も私のことを疑わないからねえ」
それはそう。
これまで学校生活を送っていて、シロウ様の『シ』の字も出たことがない。
「シロウ様は、私がツバキ先輩と『偽装婚約』しても、なんとも思ってない……ですか?」
シロウ様はきょとんとしている。
「言ったでしょう? 『私はいつでも、婚約破棄されるのを待っている』って。ツバキ君との婚約に絞ってもいいんじゃない?」
そう言うと、シロウ様は茶杯を持ち上げ、優雅にお茶を飲み始めた。
私は、言葉に詰まってしまった。
私はもう、シロウ様との『偽装婚約』を破棄しても、いいの……?
事実、私への縁談はほぼなくなった、と父は言っていた。
目的は達成できたのだ。
「シヅさんは、ツバキ君に対して、不安や不満がある?」
「そんなのないです!」
本心だった。
ツバキ先輩は穏やかで、物知りで、魔法もお上手で、何よりお強いし!
「……いつもとても気を遣っていただいて、ツバキ先輩には感謝しても、し足りないくらいです」
本当にありがたいと思っている。
だからこそ、私はツバキ先輩に協力したいのだ。
『生涯結婚するつもりはない』という意思を尊重したい。
そんなツバキ先輩が私と『偽装婚約』してくれたのは、私が正式に婚約していると思っているから。
それなのに、いつの間にか私が婚約を解消していたと知ったら、ツバキ先輩はどう思うだろう?
最悪、『乗り換えた』と思われるかも。
少なくとも、裏切られた気持ちにはなると思う。
私はツバキ先輩を失望させたくない。
「私は、シロウ様ともツバキ先輩とも、今まで通りの関係で――『偽装婚約』でいたい、です」
シロウ様は静かに茶杯を置いて、苦笑した。
「まあ、シヅさんがそれでいいなら、いいけどね」
その言葉に、私はホッとした。
いろいろと理屈をこねたけれど……、要するに私は、もう少し、シロウ様とつながっていたいのだ。
『偽装婚約』でもしていなければ、シロウ様は私の相手なんかしてくれないだろうから。
「でも、忘れないで。私はいつでも、婚約破棄されるのを待ってるよ」
「はい!」
「まともな男でないと認めないけどね?」
「は、はい……」
澄ました笑顔に妙な迫力がある。
相変わらず、見えないはずの魔力がめらめらと燃え上がっているみたい……。
シロウ様の視線を遮るように、茶杯をぐいっと呷ったそのとき。
カンカンカン、と急き立てるような鐘の音が響いて、私は引き戻された。
警報――魔物襲来の合図だ。
「魔物……!」
私がそう言うあいだに、シロウ様は執務室の大きな窓へ足を運んだ。
「シヅさんもおいで」
手招きをされて、私も急ぎ窓に張り付く。
騰蛇城と『黒の森』の狭間――草がぼうぼうに伸びた原っぱに、爛々と光る何かがある。
魔物の目玉だ。
それはまるで私を睨んでいるかのように感じて、思わず身震いした。
次話投稿は 2026/6/11 21:00 です。




