42.魔法使いと白陰領(4/4)
ツバキ先輩が一晩泊まることになったので、私はツバキ先輩に白陰領内を案内した。
公衆浴場に水汲み場、それから洗濯場も。
「お洗濯しましょうか?」と聞くと、ツバキ先輩は首を横に振った。
「寮でも私自身でやっていますから」
確かに。
なんとなく、今日のツバキ先輩は侯爵令息然としていたから、高貴な方に家事をさせるなんて畏れ多い気がしたけれど、いらぬ気遣いだった。
そんなふうに会話をしていたときだ。
「おや、シヅお嬢様!」
「まあ、お帰りなさい!」
畑仕事をしていたご夫婦に声をかけられた。
「おじさま、おばさま、ただいま!」
久しぶりの再会だというのに、ご夫婦の視線は私の隣に注がれていた。
「隣の彼が、噂の?」
「え、ええ、まあ、はい……」
しまった。
暗くならないうちに、とは思ったものの、まだ人の多いこの時間はまずかったかも……。
でもツバキ先輩はそんなことまるで気にしてないみたいに、ふんわりと微笑んで頭を下げた。
「お初にお目にかかります。春花侯爵家三男のツバキと申します。以後お見知りおきください」
慇懃すぎるほどの挨拶に、おじさまとおばさまは目を丸くして顔を見合わせる。
「あらまあ、おとぎ話の王子様みたいねえ」
おばさまの声に誘われて、ほかのみんなも寄ってくる。
「あらシヅお嬢様! お元気そうでなにより」
「お隣の方が噂の婚約者様ですって」
「揃いの簪なんて憎いねえ」
賑やかな陽気はさらに別の人たちを引き寄せて、気付けば周りを取り囲まれていた。
「あの親バカがよく許可したもんだと思ってたけど」
「やっぱり高貴な方は佇まいからして違うのねえ」
「そうかあ? 腕っぷしも魔力も、俺のほうが太っといけどなあ」
「そうすぐに張り合うところがダメなんだろ」
みんな、思い思いに感想を言い合う。
客人なんて滅多に訪れない辺境だ。
物珍しげな視線は仕方がない。
とはいえ、あまり気分のいいものではないだろう。
ツバキ先輩もお疲れだし、そろそろ止めないと。
ちらりとツバキ先輩を窺う。
すると、ツバキ先輩と目が合い、にっこりと微笑まれた。
「大丈夫ですよ」
私にそう囁くと、ツバキ先輩は自ら領民の輪の中に入り、その後も積極的に交流を続けた。
気を悪くしているどころか、むしろ楽しそうに見えて、私は拍子抜けしてしまった。
そのとき、ハリのある手が私の頬に触れた。
おばさまの手だ。
「本当によかったわねえ、シヅお嬢様」
おばさまはその手で、今度はツバキ先輩の手を取った。
「シヅお嬢様を、幸せにしてあげてくださいませね」
おばさまの声はわずかに震え、目にはじんわり涙が浮かんでいる。
ツバキ先輩はおばさまを真っ直ぐに捉えて頷いた。
「はい、もちろんです」
一欠片の嘘もないように、堂々と。
――という夕方の出来事を、私は何度も心の中で反芻していた。
お風呂のときも、みんなで晩ご飯を食べているときも、食後のお茶を飲みながら談笑しているときも。
そして今、自室のベッドでも悶々としていた。
みんながあんなに祝福してくれたのに、全部が嘘だなんて。
『偽装婚約』を解消するいつかのことを考えるとひどく胸が痛む。
寝付けなくて窓を開け、夜空を見上げる。
吸い込まれそうな夜闇に、天の川が煌めいていた。
小さくても無数の力があれば、あんなに綺麗に夜空を彩る。
以前は励まされていたこの光景が、今はなんだか怖い。
一つの嘘は小さくても、嘘が嘘を呼んで、大きな流れになっていくようで。
……そもそも『偽装婚約』なんて特大のウソ、大事になるのも当然のこと。
行き着く先はどこなんだろう?
いつかバチが当たるのかな?
そう考えて、私はふるふると首を横に振った。
……悪いほうに考えるのはやめよう。
嘘をついているんだから、信頼を失うのは仕方がないこと。
今さら後悔したって遅い。
私が視線を落としたそのとき、ツバキ先輩の部屋の灯りが消えた。
カーテンが揺れ、向こうの窓からツバキ先輩が顔を出してきた。
ばっちりと目が合う。
次の瞬間には、ツバキ先輩は穏やかな笑みを浮かべた。
『今日はありがとうございました』
ツバキ先輩の声が耳元で聞こえる。
通信魔法だ。
「そんな、お礼を言うのは私の方です! 馬車の手配から領民との交流まで、ありがとうございました!」
『当然のことをしたまでです』
「いえ、でも、お疲れだったのに領民がいつまでも……」
『それは、皆様がシヅさんを想ってのことでしょう? 私は安心しました。シヅさんが領民の皆様に愛されていることが伝わってきましたから』
ツバキ先輩は、私のことも領民のみんなのことも、肯定的に捉えてくださる。
暗く沈みかけていた心の中に、ポッと明かりが灯るのを感じた。
『それにしても』とツバキ先輩が感心したように呟く。
『皆様、お強そうでしたね。腕など、私の倍くらいあって。シヅさんの目が肥える理由がよく分かりました』
「はい! みんな、白陰の誇りなんです!」
今日会った人たち、おじさまやおばさまだって、みんな元魔法士官なのだ。
普段は優しくて、軽口だって叩くようなみんなは、魔物の襲撃があれば勇ましく戦い、いつでも私を守ってくれた。
みんなが私の自慢の存在なのだ。
『……その……、もしも婚約を破棄したら、私、命がないのでは?』
「そ、そんなことは……!」
その先の言葉が紡げなかった。
ない、とは断言できない。
『少なくとも、二度と白陰の地を踏めそうにありませんね……』
そう言うツバキ先輩の声は、通信魔法越しでも分かるほど、どこか寂しそうだった。
* * *
次の日、日も昇らない早朝から、私たちは白陰領の外れに集まっていた。
ツバキ先輩が春花州に戻るのだ。
「黙って去るのも失礼かとは思いますが」
「そんなことないです。きっとツバキ先輩の心遣いをみんな分かってますよ」
朝早いのも、人目につかないようにしているのも、領民のみんなに気を遣わせたくないから。
それを悪く言う人なんて、白陰にはいない。
私の言葉に、ツバキ先輩は安心したように微笑んだ。
「この度はご足労感謝する」
父はそう言って手を差し出した。
ツバキ先輩は迷わず握手を交わす。
「こちらこそお時間をいただき、さらに宿泊まで……。大変お世話になりました」
母が一歩前に出て、父の隣に並んだ。
「護衛は白陰の中でも腕利きの者ばかりですからご安心くださいな」
「ありがとうございます。とても心強いです」
ツバキ先輩は母とも握手を交わし、最後に私に向き直る。
「またお迎えに参ります。それまで、シヅさんもごゆっくり」
「ありがとうございます。ツバキ先輩、お気を付けてお帰りくださいね」
私も握手を交わした。
ツバキ先輩の手は大きくて温かくて、安心する。
ツバキ先輩は丁寧に一礼をして馬に跨り、ゆっくりと馬を進めた。
ツバキ先輩は一度も振り向かず、私はその背中が見えなくなるまでずっと見送った。
「さて」
父がつぶやいた。
「俺たちも出掛ける準備をするか」
私は驚いてしまった。
出掛けるなんて、今、初めて聞いた。
せっかく帰省してきたのに、父や母とゆっくり過ごす暇がないなんて。
「どこに行くんですか?」
父と母が顔を見合わせ、二人揃って口にしたその場所は――。
次話投稿は 2026/5/30 21:00 です。




