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死神が下りた戦場で  作者: りん
本編
5/57

小砦の灯


北西の小砦にたどり着いたのは、夜が白み始める頃だった。

谷間を吹き抜ける風は冷たく、泥と血と汗にまみれた兵たちの足を容赦なく凍らせていたが――


「……損耗、ゼロ?」


砦の前に立ち、兵たちが順に中へと入っていくのを見つめながら、セレンは微かに眉をひそめた。


本来、撤退戦における最小損耗を見積もっても、六――いや、七名の犠牲は避けられないはずだった。

夜襲の混乱、地形の制限、味方の疲弊――それを加味して組んだ策だ。


燃えた服の焦げ跡、血と汗にまみれた顔。

傷の一つもない者などいないが――

だが、目の前にいる彼らは、誰一人として欠けていない。

血は流れている。だが、それは致命ではない。

全員が自力で歩き、表情に残るものは「疲労」であり、「絶望」ではなかった。


(……なぜ、ゼロだ?)


計算が狂った――それが、セレンにとって最大の驚きだった。


撤退戦。夜襲。地形制限。視界不良。士気の不安定。

それらすべてを勘案しても、“無傷の撤退”など計算上ありえない。




この状況で報告書など、求めるまでもない。

ゼイルが文を書けるようには見えなかったし、ガロットも恐らく適当に済ませるタイプだ。

だからこそ、セレンは自らの足で砦を回る。


倒れ込む兵たち、手当を受ける兵士たち。

剣を抱えて座り込む者、仲間に水を渡す者。

言葉の端々、身振り、そして表情を、彼女は冷静に観察していた。


「……脚の傷、深いな。だが動脈は外している。的確な脱出だったか」


「背中の切り傷は……盾を使ったか、咄嗟に背を向けて守ったのだろう」


兵たちが驚くほどの観察眼で、セレンは彼らの身に何が起きたかを読み取っていく。

言葉は発さずとも、血の飛び方、汚れの分布、動きの癖――

すべてが戦場の記録だった。


やがて、砦の門に、うろたえたように飛び出してくる人物がいた。


「しっ、将軍閣下!? まさかご自身が……!」


老いた少佐が書類を抱えて頭を下げる。


「整備も補給も追いついておりませぬが、どうか中へ!」


「後でいい。補給と手当を優先させろ」


それだけ言い、セレンは視線を上げた。

その向こう、石壁の片隅に、地面にどさりと座り込んだ二人の男の姿が見えた。


ゼイルとガロットだった。


「……助かった」


ゼイルが、泥まみれの手で水筒を飲み干す。


「こんなに血を見て、死体を見なくて済んだの、久しぶりだな……」


「ま、あんだけ突っ込めば、普通はどっかで骨が折れてるさな」


隣で笑いながら言うガロットも、顔に安堵の色を浮かべていた。


そしてその背後――


「飯だーーっ!」「食いもんきたぞ!!」


歓声が砦に響く。


セレンの部隊が後送した補給部隊が到着し、湯気の立つ鍋や焼きたてのパンが運び込まれたのだ。


「……くっそ、あったかい匂いってだけで泣けてくる……」


「煮込みだ煮込み! ほんとに来てくれたのかよ、レオント将軍って……!」


言葉はまだ信頼の域に届かない。

だが、確かに兵たちは、セレンの采配によって「生き残った」と知っていた。


「……やはり、原因はあの二人か」


セレンは呟いた。

報告より正確なもの――戦場そのものが、彼らの動きを物語っていた。


ゼイルの突破、ガロットの守り、連携、臨機応変な判断。


(あれだけ乱戦になった状況で、命令を貫いた部隊は、彼らの部隊だけだった)


冷徹な将軍が、ほんの少しだけ唇を綻ばせた。


(……なるほど、生き残るわけだ)


言葉は誰にも届かぬまま、彼女は歩き出す。


砦の奥、地図の広げられた部屋へと。


砦の壁に貼り出された、風にあおられた紙。

破線だらけの前線、無数の矢印、陥落した拠点の印。


(……戦線の再構築が必要だ)


この夜をもって、彼女は“撤退”ではなく“反転攻勢”へと舵を切る決意を固めていた。


補給路の確保、拠点の整理、分断された各部隊の統合、そして――


(核は、あの二人でいい)


無意識のうちに、セレンはそう結論づけていた。


軍師として、これ以上の駒はない。


「……地図と戦力配置図を用意しろ。二刻後に作戦会議を開く」


疲れた兵たちの間をすり抜け、彼女は静かに命じた。


そしてその背には、砦の松明が逆光になり、

まるで氷の将が夜明けとともに再び立ち上がるかのように――


静かな覚悟が、そこにあった。


セレンの指先が、魔法陣の中心を軽く叩いた。


魔法陣が淡く光り、軍令文書が光子の帯となって形をとる。


それは“軍令帳”グランド・オーダー”と呼ばれる魔導投影通信。軍団長同士、あるいは元帥級でのみ使われる。


《発信:第三方面軍団長代理 セレン・カリス・レオント

 宛先:第一方面軍団長ヴォルテス・カランドール将軍》


老いた軍団長の姿が半透明に映し出された。

威厳ある銀髪と軍装、そして深い皺の間から光る眼が映る。

元は第一軍にいたセレンにとって、なじみの顔だった。


「……お前か。セレン嬢。命拾いをしたようじゃな。何を望む?」


「物資の補給と、衛生兵を――第三軍を再編します」


いくつかの要請を伝え、通信を閉じる。


補給は整った。士気は回復する。今なら、戦線を動かせる。


(北に残っている残存部隊を吸収、東の山岳を使って敵の補給路を絶つ。……問題は、時間)


次の戦いが、すでに始まっている。


温かな炊き出しの湯気が立ち込める砦の中で、

ただ一人、冷えた目で戦の続きを思考する女がいた。


セレン・カリス・レオント。

「死神将軍」の伝説は、この地から始まった。

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