夜襲の峡谷 ― 退路なき混乱に、氷の声響く
西方前線、第三軍の仮設拠点。
それは、山に挟まれた小さな谷間に築かれた、粗末な陣地だった。
それでも、ゼイルとガロットが守り続けた陣地であることに間違いはなかった。
月のない夜。
闇を裂いたのは、敵の奇襲だった。
無数の火矢が天から降り、外周の防壁を燃やす。
警戒の薄い側面を突かれ、混乱が広がる。
指揮系統はすぐさま崩れ、誰が命令を出しているのかも分からなくなっていた。
「敵が南東から!」「迂回された、囲まれるぞ!」
兵たちはばらばらに叫び、武器を手にして右往左往していた。
そんな混沌の中、ひときわ冷えた声が空気を凍らせる。
「……聞こえないのか、貴様ら。退路は北西の峡道だ。そこに誘導し、敵の包囲を一時突破する」
それは、銀の髪の少女が放った命令だった。
セレン・カリス・レオント。
この地に赴任して三日目――
今、初めて実戦の場に立ち、指揮を取った瞬間だった。
彼女はすでに地図を焼き付け、夜襲が始まる前から動きを読みきっていた。
敵の動線、谷間の構造、拠点の火災による視界制限――
すべてを組み合わせ、撤退戦における最善の道筋を構築していた。
だがその声に、兵たちは従おうとはしなかった。
若すぎるその姿。
軍装はともかく、女の、しかもあどけなさすら残る少女。
不信が、動揺が、戦場の空気を鈍らせる。
「無理だ、そんなの──」「奴らはこっちにも回り込んでるはずだ!」
誰かが叫び、誰かが勝手に持ち場を離れようとしたそのとき。
鋭い靴音が土を蹴った。
「……従え。命が惜しければ、レオント将軍の命令を聞け」
真っ青な瞳が、兵たちを射抜く。
闇を裂いて一歩前に出たのは、ゼイルだった。
剣を手にした彼は、セレンの横に立ち、振り返ることなく言い放つ。
「俺が先に行く。道を拓く。だから見てろ──この作戦が、正しいってことを」
その言葉は、命令ではなかった。だが、確かな“信頼”があった。
一瞬の沈黙のあと、ゼイルは身をひるがえし、夜の闇へと駆け出した。
しばしの静寂。
そして――
「……っ! 爆音だ!」
遠く峡道の方角、暗闇を震わせて爆発音が轟いた。
間を置かず、敵陣から悲鳴と混乱の声。
閃光と煙、土砂の巻き上がる気配。
ゼイルが、単身で敵の分隊を襲撃したのだ。
雷魔法を絡めた剣技で敵の陣形を引き裂き、峡道への道をこじ開けた。
砦の兵たちは息を呑んだ。
そのとき。
「……道が通った。突撃班、移動開始。第二隊、迎撃配置。南側の崖に三射手配置、敵の動線を分断。
混乱した敵を誘導し、峡道に押し込む」
セレンの命令が、凛として響いた。
誰もが息を飲みながら、気づいていた。
――この少女の策は、すべてを見通していたのだと。
「おい、いつまでぼーっとしてる。いくぞ!」
力強く叫んだのはガロットだった。
彼もまた、剣を背に背負い、兵たちの先頭に立つ。
「ゼイルの尻拭いは慣れてんだ。さあ、お前ら、あいつが拓いた道を無駄にするな!」
ガロットの号令に、兵たちはようやく動き出した。
誰かが小さくつぶやく。
「……これが、“指揮官”ってやつか」
地形を読む力。敵の動きを先回りする予測。
そして、それを実行に移すために必要な“信頼”を、彼女は獲得していた。
それはまだ“完全な信頼”ではない。
だが、命令ではなく「生き残るため」に従いたくなる力が、そこにあった。
夜が明けるころ、第三軍はほぼ無傷で峡道を突破していた。
追撃はガロットが率いる後衛部隊が巧みに引き受け、反撃の隙を与えず後退。
ゼイルは前衛で地雷魔法と斬撃を用い、敵の目と手を引きつけた。
そしてセレンは、全体を俯瞰し、声だけで指揮を貫いた。
誰もが、こう思っていた。
――この少女はただの指揮官ではない。
この地を“再生”させる、真の将だと。
誰よりも若く、誰よりも冷徹で、そして誰よりも的確だった。
そして、ゼイルはぼそりとつぶやいた。
「……あれが“セレン・レオント”か。……妙に、納得した」
「俺もだ」と、ガロットが肩をすくめる。
あんな少女を、この地獄の戦線に送ってくるわけだ。
「でもあれ、女の子なんだぜ?」
「黙っとけ」
二人の笑い声が、撤退路にこだました。
それは、敗戦の夜に訪れた、小さな勝利の証だった。




