決戦前夜―セレン
ゼイルの言葉を背中で受けながら、セレンは歩を進めた。
足取りは変わらず、早くも遅くもない。けれど、心臓の鼓動だけが、妙に主張する。
──この戦が終わったら、お前をもらう。
──全力で口説く。振り向きたくさせる。
あまりにも直球すぎるその宣言に、理性の鎧をまとった思考が、一瞬、綻んだ。
(……何を言っている)
口の中で、そう呟いてみる。だが、それは否定ではない。
「馬鹿な」とも、「無理だ」とも言えなかった自分を、セレンは内心で少しだけ持て余した。
自分は軍団長代行で、貴族の出。彼は師団長とはいえ、平民出身の剣士。
かつて敵国の王にすら欲望の目を向けられ、政治の駒として生き延びるしかなかった自分が──まさか、告白されて、動揺するなどと。
(……くだらない)
冷静さを取り戻すように、指先に力を込める。
明日の戦の地図を脳裏で反芻することで、感情を押し戻す。
けれど、その直後。
ふと、ひどくどうでもいいことが浮かんだ。
(……「振り向きたくさせる」……ね)
まるで、恋の戦略でも立てるように。あの男は、躊躇がない。
笑ってしまいそうな一言だったのに、なぜか心の奥が熱を帯びる。
セレンは立ち止まり、夜空を仰いだ。
西方の空には、雲がかかりはじめていた。
(戦いが終わったら、また聞くと──そう言ったな)
あの言葉の意味。
明日、自分が生き残ると、あの男は信じている。自分を信じ、未来まで賭けている。
(…………)
その未来を、否定できないと思っている自分に、気づいた。
すぐさまセレンは表情を引き締め、将の顔に戻った。
夜の帳を抜けて、作戦本部へと歩を進める。
幕舎では、各隊の連絡兵が集まり始めていた。
彼らに淡々と命令を飛ばし、動線を確保する。補給線の最終調整、遊撃隊の再配置、予備兵の配置転換。
手際はいつも通り。声にも表情にも、乱れはなかった。
「第二遊撃隊は南の林を経由して、間道から待機。地図の印は確認済みか? 報告は一時間ごと。食料配布は指示どおり――」
たとえ胸の奥にかすかな熱が灯っていようと、それは将の顔には出ない。
戦いの準備は、冷徹でなければならない。
だが、たったひとつ。
ゼイルの部隊配置に関してだけ、セレンは思考を巡らせた。
最前線に出すには、危険が大きすぎる。
彼ならきっと突破する。だが、彼が死ぬことは……許容できなかった。
(……どう配置すれば、生き延びる確率が最も高く、最大の効果を得られるか)
そんな計算をしている自分に気づいて、セレンは眉をひそめた。
(これが、情というやつか)
嫌悪ではない。
ただ、合理性を保とうとする己が、感情に揺さぶられていることに、少しだけ苦笑する。
――まったく。やっかいな感情だ。
だが、今はそれすらも使う。
「……勝たなければ、話にならない」
誰にともなく、セレンは呟いた。
彼に何を与えるかなど、今考えるべきことではない。
与える前提で、生き延びることを互いに選んだ。
ならば、勝利あるのみだ。
風が幕を揺らす。
決戦の夜は、静かに更けていく。




