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死神が下りた戦場で  作者: りん
本編
32/57

決戦前夜 ― 月下の誓い ―

軍議が終わり、重苦しい緊張が張り詰めたままの作戦室を後にして、セレンは地図と帳簿を抱えた副官に指示を飛ばしながら、外へ出ようとしていた。

この夜が明ければ、全面決戦。

第三軍と、合流した第二・第五軍。三つの軍が一つとなって動く大規模な作戦だ。敵の王子が率いる主力本陣を、撃ち砕く。


「……セレン」


背後からかかった声に、彼女の足が止まった。


静かな声だったが、張り詰めた夜気の中で鋭く響いた。

この声にだけは、彼女はすぐに反応する。

ゼイル・エステン。第三軍師団長、雷の剣士。死神の右手と呼ばれる男。


「何か用か、ゼイル」


「少しだけ、時間をくれ」


焚き火の灯る中庭の隅。

誰もいない、人気のない木陰まで彼女を誘い、ゼイルはじっとその金の瞳を見据えた。

闇の中でもなお冴え渡るその眼差しは、軍服の襟元で揺れる階級章よりもずっと、重みと威圧を帯びている。


「南西の丘の時、覚えてるか」


「南西……ああ、あれか」


セレンの表情は相変わらず淡く、けれどほんの一瞬、視線が泳いだ。


「大きな軍功だった。……だから、報酬に欲しいものがあるなら言えと、私が言った」


「覚えてるんだな」


「言ったことは忘れん」


ゼイルは深く頷き、火の揺らぎの中で、静かに言った。


「欲しいものがある」


一拍、空気が止まった。

セレンの目が細くなる。まるで何かを見極めるように。


「……なんだ?」


真っ直ぐにそう訊いたセレンに、ゼイルは一歩踏み出した。

そして、背筋を伸ばし、どこか儀礼的ですらある態度で──けれど、まっすぐに感情を込めて、言った。


「この戦が終わったら、お前をもらう」


沈黙が落ちた。

風が、遠くで旗をはためかせる音だけが響く。


セレンはその言葉を反芻したように、ほんのわずかに瞬いた。

けれど、すぐにその銀のまつげの奥の瞳が揺れるのを、ゼイルは見逃さなかった。


「冗談を言っているのか?」


「本気だ」


即答。

その響きに、セレンの胸にさざ波が走る。

これまで幾度となく聞いてきた戦略会議でも、戦場でも、ゼイルは真剣だった。

だが、今のそれは──もっと根の深い、個の声だった。


「私が、王族に連なる家系の娘だと知っていてか?」


「知ってる」


「貴族たちが、血筋や格でしか婚姻を語らないことも?」


「それも、知ってる」


「私が人の情に疎く、感情に鈍いと?」


「関係ない」


ゼイルの声には、揺るぎがなかった。

ただ、まっすぐで、硬く、そして熱い。


「俺はお前がほしい。戦いで示した忠誠も、功も……全部それを言うために重ねてきたようなもんだ。勝って、奪うんじゃない。勝って、願うんだ」


セレンの喉が、微かに動く。

まるで飲み込んだ言葉が苦いとでも言うように。


「……私は、人の心を読むのが不得手だ。恋愛などというものは、なおさら。わからん。……お前がそう言ったとして、私に何ができる」


「それでもいい」


「無理に振り向かせようとする気か?」


「いや。全力で口説く。振り向きたくさせる……俺は、お前の隣に立ちたいんだ。選ぶのはお前だ。俺の気持ちは、もう言った」


再び、風が吹いた。


セレンは、答えなかった。

ただ、彼の瞳を見たまま、長い沈黙を守る。


やがて──ほんのわずかに、彼女の肩が緩んだ。


「……この戦が、終わったらだ」


「ん?」


「この戦が終わったら、そのとき、もう一度、聞け。……それまで、お前が生きているならな」


そう言って、セレンはふいと視線を外し、踵を返した。

けれどその頬が、焚き火に照らされるより少しだけ赤いように見えたのは──きっと、風のせいではない。


残されたゼイルは、その背を見送りながら、静かに、しかし力強く呟いた。


「……大丈夫だ。あとは、勝つだけだな」


戦が、いよいよ始まる。

勝てば、すべてが動く。

そう信じて、ゼイルは手に握った剣の柄を確かめた。


焚き火は、まだ消えていなかった。



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