決戦前夜 ― 月下の誓い ―
軍議が終わり、重苦しい緊張が張り詰めたままの作戦室を後にして、セレンは地図と帳簿を抱えた副官に指示を飛ばしながら、外へ出ようとしていた。
この夜が明ければ、全面決戦。
第三軍と、合流した第二・第五軍。三つの軍が一つとなって動く大規模な作戦だ。敵の王子が率いる主力本陣を、撃ち砕く。
「……セレン」
背後からかかった声に、彼女の足が止まった。
静かな声だったが、張り詰めた夜気の中で鋭く響いた。
この声にだけは、彼女はすぐに反応する。
ゼイル・エステン。第三軍師団長、雷の剣士。死神の右手と呼ばれる男。
「何か用か、ゼイル」
「少しだけ、時間をくれ」
焚き火の灯る中庭の隅。
誰もいない、人気のない木陰まで彼女を誘い、ゼイルはじっとその金の瞳を見据えた。
闇の中でもなお冴え渡るその眼差しは、軍服の襟元で揺れる階級章よりもずっと、重みと威圧を帯びている。
「南西の丘の時、覚えてるか」
「南西……ああ、あれか」
セレンの表情は相変わらず淡く、けれどほんの一瞬、視線が泳いだ。
「大きな軍功だった。……だから、報酬に欲しいものがあるなら言えと、私が言った」
「覚えてるんだな」
「言ったことは忘れん」
ゼイルは深く頷き、火の揺らぎの中で、静かに言った。
「欲しいものがある」
一拍、空気が止まった。
セレンの目が細くなる。まるで何かを見極めるように。
「……なんだ?」
真っ直ぐにそう訊いたセレンに、ゼイルは一歩踏み出した。
そして、背筋を伸ばし、どこか儀礼的ですらある態度で──けれど、まっすぐに感情を込めて、言った。
「この戦が終わったら、お前をもらう」
沈黙が落ちた。
風が、遠くで旗をはためかせる音だけが響く。
セレンはその言葉を反芻したように、ほんのわずかに瞬いた。
けれど、すぐにその銀のまつげの奥の瞳が揺れるのを、ゼイルは見逃さなかった。
「冗談を言っているのか?」
「本気だ」
即答。
その響きに、セレンの胸にさざ波が走る。
これまで幾度となく聞いてきた戦略会議でも、戦場でも、ゼイルは真剣だった。
だが、今のそれは──もっと根の深い、個の声だった。
「私が、王族に連なる家系の娘だと知っていてか?」
「知ってる」
「貴族たちが、血筋や格でしか婚姻を語らないことも?」
「それも、知ってる」
「私が人の情に疎く、感情に鈍いと?」
「関係ない」
ゼイルの声には、揺るぎがなかった。
ただ、まっすぐで、硬く、そして熱い。
「俺はお前がほしい。戦いで示した忠誠も、功も……全部それを言うために重ねてきたようなもんだ。勝って、奪うんじゃない。勝って、願うんだ」
セレンの喉が、微かに動く。
まるで飲み込んだ言葉が苦いとでも言うように。
「……私は、人の心を読むのが不得手だ。恋愛などというものは、なおさら。わからん。……お前がそう言ったとして、私に何ができる」
「それでもいい」
「無理に振り向かせようとする気か?」
「いや。全力で口説く。振り向きたくさせる……俺は、お前の隣に立ちたいんだ。選ぶのはお前だ。俺の気持ちは、もう言った」
再び、風が吹いた。
セレンは、答えなかった。
ただ、彼の瞳を見たまま、長い沈黙を守る。
やがて──ほんのわずかに、彼女の肩が緩んだ。
「……この戦が、終わったらだ」
「ん?」
「この戦が終わったら、そのとき、もう一度、聞け。……それまで、お前が生きているならな」
そう言って、セレンはふいと視線を外し、踵を返した。
けれどその頬が、焚き火に照らされるより少しだけ赤いように見えたのは──きっと、風のせいではない。
残されたゼイルは、その背を見送りながら、静かに、しかし力強く呟いた。
「……大丈夫だ。あとは、勝つだけだな」
戦が、いよいよ始まる。
勝てば、すべてが動く。
そう信じて、ゼイルは手に握った剣の柄を確かめた。
焚き火は、まだ消えていなかった。




