静かなる攻防線
旧来の国境線を奪還してから、戦いは次の段階に移っていた。
敵の主力は撃破したとはいえ、西方の地にはまだ多くの拠点と敵兵が散在している。
戦局の主導権を握った王国軍――だが、セレンの顔から気の緩みは一切消えなかった。
「……ここからが本番だ」
広げた地図を前に、セレンは冷静に呟いた。
その目はすでに、目の前の拠点ではなく、戦線全体の最終形を見据えている。
第三方面軍の主力が駐屯する〈ファール砦〉は、周囲を天然の尾根と谷に囲まれた地形にある。
地の利はあれど、それにあぐらをかけば包囲の危険がある。
だからこそセレンは、ただ守るのではなく――守りながら攻める布陣を整え始めていた。
砦の周囲には、広域にわたる前哨地が築かれ、数段階の防衛ラインが引かれた。
補給路には護衛と備蓄を重点的に配置し、物資の到着と消費に誤差が出ないよう算出。
さらに、敵の再侵攻を見越して、各部隊の移動距離と時間まで、セレンの脳内ではすべて予測済みだった。
彼女の采配の中心にあるのは、ただ一つ――「準備」の徹底だった。
「……次に敵が動いたとき、こちらが半歩先に動いている状態を作る」
ゼイルとガロットに説明したとき、二人は顔を見合わせて「らしいな」と笑ったが、
その背後で副官たちが震えるほど精密な戦術展開図が積み上がっていた。
「この布陣、半年は持ちこたえるぞ」
ガロットがうなるように言ったのも当然だった。
「というか、逆に攻めやすい気がしてくる。回廊状に誘導するような配置じゃねえか?」
セレンは淡々と返した。
「誘導用だ。必要なら、ここから逆襲に移れる」
「やっぱりか」
ゼイルが笑う。
「お前、守る戦いってのがどうにも性に合わねぇな」
「合わなくても必要だ。戦術とは、そういうものだ」
相変わらずの冷静な返答に、二人は肩をすくめるしかなかった。
同時に、セレンは判断していた。
――この戦線の完全な奪還には、今の兵力では足りない。
第三方面軍は再建されたとはいえ、もともとの兵の半数ほどで編成されている。
それを維持しながら戦うには、地形を活かし、戦術で敵を上回り続けるしかない。
だが、拠点ごとの掃討戦、そして奪還後の維持には、それ相応の「人手」が必要だった。
「……やはりここからは、正規の軍団規模が要る」
魔導通信陣に手を伸ばし、セレンは中央への援軍要請を打電した。
第一軍――王都直属の中央軍、かつて彼女が在籍していた本営の中枢。
そして第五軍――魔法兵と斥候、衛生兵をまとめる、いわば特殊戦力の中核。
どちらも西方の地に駐屯していないが、敵が壊滅寸前の今、叩き潰すには彼らの力が必要だった。
「……最終的に敵を包囲し、膠着させる。それにはもっと大規模な布陣が必要だ」
セレンは独りごちた。計算は済んでいる。残りは、時間と調整――そして意志の力だけだ。
援軍の到着には、数日かかる。
そのあいだに、セレンは連携を想定した細かな準備を始めていた。
到着する部隊の動き方、位置、指揮権の配分、連絡の頻度と符丁――
一つ一つが緻密に設計され、各指揮官に伝えられた。
「よくやるわ、あの人」
砦の事務室で、若い将校がぼそりと呟いた。
「砦の修繕、戦術の調整、物資の補充……全部、先手を打ってる」
「でもまあ、だから助かってるよな」
「うん。なんか、動いてるだけで“勝てそう”って気がしてくるもん」
それは、軍という生き物の底に根差す直感だった。
“戦える”と、兵が信じられる軍――それは、強い。
その夜、セレンはひとり、野営地の外れに立っていた。
夜空に魔力の痕跡が光る。東から、魔導騎馬が接近している証だった。
「……早いな。第五軍か」
援軍は確かに来つつある。
そしてこの戦線も、確かに再起しつつある。
「あと少しだ。あと少しで――完全に奪還できる」
その声は、火のように静かで、だが確かな意志を含んでいた。




