戦の後、国境へ
新生第3軍の勝利から、わずか一夜。
凱歌を上げる暇もなく、セレンは静かに地図へと視線を落としていた。
冷たい指が、戦況図の境界線をなぞる。今いる丘の位置から、かつての国境線まで、距離にして四十リーグ弱。
そのすべてが、いまだ敵に奪われたままだ。
「やる気だな」
地図の向こう側から、ガロットが唸るように言った。
「丘を落とした今、敵の補給線は首の皮一枚でつながってる。なら、一気に切るんだ」
「……同意だ」
ゼイルも短く頷く。表情に疲労の色はあるが、その瞳は戦火のなかでも決して揺れていない。
「後退する敵を叩いて、揺らぐ前線を崩す。数日中に追い払わなければ、今度はこちらが消耗させられる」
セレンは頷き、地図に赤い線を引いた。
「この五つの拠点を三日で叩く。敵は再編が間に合わない。連携が崩れている今が好機だ。進軍しながら拠点を掃除していく」
淡々と告げる声には焦りも激情もない。ただ、戦術家としての冷徹な計算があるのみだった。
だが――
「……やるなら一気にだ。攻め切るまでは休むな」
その言葉の下に潜む切実な意思を、ゼイルとガロットは見逃さなかった。
セレンは、この戦いの中で、ようやく“自分の軍”を手に入れた。
すでに散り散りだった部隊は再編され、命令は確実に伝達され、兵たちも彼女の声に反応するようになった。
ここで止まれば、また崩れる。だから進むしかない――そう、彼女はわかっていた。
防衛線の再構築は、敵地に食い込む形で始まった。
奪還した拠点を一つずつ修復し、簡易の陣を築き、衛生と補給の導線を整える。
第5軍団から得た資材が役に立った。野戦病院も仮設ながら随所に配置された。
それでも、地の利を持つ敵は各所で散発的に襲撃を仕掛けてきた。
セレンの策により、各部隊にはあらかじめ迎撃のパターンが配備されており、動揺は最小限だった。
ゼイルの部隊は南側の谷を駆け、奇襲の機先を制し、ガロットは中央の丘陵で持ちこたえる兵を鼓舞し続けた。
「……これが、本来の“前線”か」
夜営の火を見つめながら、ゼイルがぽつりとつぶやいた。
「かもな。以前は後手後手だったが、今はこっちから動いてる」
ガロットが飯盒のふたを開けながら返す。
「妙な話だな……セレンが軍団長代理になってからの方が、戦が順調だ」
「――それを聞いたら本人は『当然』とか言うんだろうな」
ゼイルは火をかきながら、ほんの少しだけ笑った。
そして、六日後。
かつて王国と西国を隔てていた天然の断崖、〈ノヴァの稜線〉まで、王国軍は防衛線を押し戻していた。
吹きすさぶ風の中、王国の旗が高々と掲げられた瞬間、部隊全体から歓声が上がる。
「戻ったぞ!」「ここが、国境だ!」
誰もが声を上げ、抱き合い、拳を突き上げた。
そのなかで、セレンは静かに旗を見つめていた。
その瞳には歓喜よりも、確かに“安堵”が宿っていた。
「……これでようやく、守れる」
「セレン」
ゼイルが声をかける。風に髪をなびかせながら、彼女の隣に立った。
「お前の策で、俺たちはここまで来た」
「……私の策に従ったのは、お前たちだ」
「どっちでもいいさ」
ガロットが笑って加わる。
「だが、お前がこの軍の“核”なのは間違いない。だから……本当に、よくやったな」
セレンは、小さく息を吐いた。
そして、わずかに――ほんのわずかに、唇の端を持ち上げた。
「……ふたりとも、よくやった」
夜、断崖を背にした野営地では、焚き火の炎が柔らかく揺れていた。
その火を囲みながら、兵士たちも、指揮官たちも、少しだけ息をついていた。
戦は終わっていない。だが、“帰る場所”を取り戻したことは、何よりの勝利だった。
その夜、セレンの胸の中にあったのは、一つの静かな確信だった。
――この軍ならば、もっと先へ行ける。




