三章 三 夢魔
ネブカドネザル二世は椅子の上で膝を組み、顎に手をやりながら俺達を見下ろす。
「そういえば賢者殿の名を聞いておらんかった。名をなんと申すか」
「ユイゾノでございます」
王はやや考えるそぶりを見せる。
「ユイ=ゾノ。変わった名だな。まぁよい。儂は確かに先ほど其方が語った赤黒い空の、果てしない荒野の夢を見た。常に嗚咽や泣き声、悲鳴に包まれ、そこをまるで無限の時間をも彷徨ったのだ」
俺は恭しく頷く。
「次の夢も言い当てましょうか?」
俺がそう言うと王は玉座から腰を浮かせた。このネブカドネザル二世が何回目の夢まで見ているのかハッキリとはわからないが、三回までは孟婆の夢は固定なので内容はわかる。四回目以降も古城戸から聞いたダニエル書の内容に沿ったものだろう。
「わかるのか? 次の夢はそのダニエルですらわからなんだのだ」
王は玉座の側に控えるダニエルと呼ばれた男を振える指で示す。
「もちろんでございます。 その夢で王は・・・」
俺は次の夢を語り始めた。これも孟婆が見せる悪夢だ。
「頭髪が抜け落ち、やがて歯も、爪も・・・まるで御身が急激に老け、溶けるような悪夢でございましょう。王はその夢でも十日程、繰り返し苦しまれたでしょう」
俺がそう語ると王は目を見開いた。
「……なぜ、それを」
ネブカドネザル二世の声は、もはや威厳を失い、ただの恐怖に怯える男のそれだった。彼は無意識に自らの髪や歯に触れ、夢の感触を確かめるように身震いしている。玉座の間にいる大臣たちも、ダニエルでさえも解き明かせなかった王の苦悩の根源を、東方の異邦人がいとも容易く言い当てたことに、畏怖と困惑の表情を浮かべていた。
「王よ。その夢こそが、全ての元凶。あなたの魂に直接巣食い、その生命力を蝕む呪いそのものでございます」
俺は畳み掛ける。ここで主導権を完全に握る。この反応を見る限り、王は二回目まで夢を見ているようだ。
「呪い……だと? 神に愛されたこの儂が、呪われていると申すか」
「神に愛されているからこそ、です。偉大なる王の光が強ければ強いほど、それを妬む闇もまた、深く濃くなるもの。その闇が、人の形をしておらぬ異界の存在――我らの国では『夢魔』と呼びますが――を引き寄せ、王の魂に寄生したのです」
俺は「孟婆」という直接的な単語を避け、「夢魔」という言葉で王に説明する。これは、この世界の理屈に合わせた、最も受け入れられやすい表現のはずだ。
俺たちは神使である「始祖夢魔」とは知り合いだが、この件には絡んでいないだろう。
「夢魔……」
「はい。最初の荒野の夢は、王の心を孤独にさせ、衰弱させるためのもの。そして、二つ目の肉体が朽ちる夢は、王の魂と肉体の繋がりを断ち切り、その魂を乗っ取るための呪いの儀式。このままでは、三つ目の夢で、王の魂は完全に喰らい尽くされてしまうでしょう」
俺の言葉に、王は完全に顔面蒼白となった。彼は玉座から転がり落ちるように降り、俺の足元にすがりつかんばかりの勢いで叫んだ。
「賢者ユイゾノよ! 救ってくれるのだろう! この儂を、呪いから、三度目の悪夢から救う手立てがあるのだろう!」
「――もちろんでございます」
俺は、跪く王を賢者らしく見下ろしながら、厳かに告げた。
「ただし、そのためには儀式が必要です。王の魂の奥深くに巣食う『夢魔』を祓うには、王の魂の最も近く……すなわち、この空中庭園の中心、王の寝所にて、我らだけで祈りを捧げる必要があります」
これが俺たちの本当の狙いだ。大臣や兵士たちを遠ざけ、無防備な王と、俺たち四人だけの状況を作り出す。
「寝所だと……?」
「はい。邪魔が入れば、儀式は失敗し、暴走した『夢魔』が何を為すかわかりません。王の命すら危うくなるでしょう。故に、今宵、日が変わる刻限より、王の寝所には我ら四人のみを入室させ、夜明けまで何人たりとも近づけぬよう、固く命じていただきたいのです」
王は一瞬、ためらった。いくら信頼したとはいえ、素性の知れぬ異邦人を、無防備な寝所に招き入れるのは、王としてあまりに危険な行為だ。
その逡巡を見透かしたように、隣に控えていたダニエルが進み出て、王に静かに言った。
「王よ。この者たちの言葉に偽りはないかと。彼らの瞳には、邪な光は見えませぬ。今は、彼らの知恵に賭けてみるべきかと存じます」
側近中の側近であるダニエルの言葉が、最後の後押しとなった。
「……わかった。賢者ユイゾノよ。全てをそなたに託す。今宵、我が寝所にて、その儀式を行うことを許可しよう。誰も近づけさせぬよう、兵にも固く命じておく」
「ははっ。王の御英断に感謝いたします」
俺は深く頭を下げた。その顔を、誰にも見られないようにしながら。
神を欺き、その懐に飛び込むための、全ての準備は整った。
夜の帳が下り、空中庭園は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。自ら光を放つ植物たちが、星空の下で幻想的な光景を作り出している。俺たちは神官に案内され、庭園の中心にある王の寝所へと通された。
寝所は、天蓋付きの巨大な寝台が置かれた、広大で豪奢な部屋だった。壁には金の刺繍が施されたタペストリーがかかり、床には厚い絨毯が敷き詰められている。窓の外には、眼下に広がるバビロンの街の灯りが、まるで宝石箱のようにきらめいていた。
ネブカドネザル二世は、儀式用の簡素な衣に着替え、緊張した面持ちで寝台に腰掛けていた。部屋には俺たち四人と王だけ。扉の外には、王の命令で屈強な兵士たちが控え、誰も近づけないようにしているはずだ。
「賢者ユイゾノよ。……本当に、儂は救われるのか」
王の声には、一国の支配者とは思えぬほどの弱々しさが滲んでいた。
「もちろんです、王よ。我らが魂の限りを尽くし、あなた様をお守りいたします」
冬美が、落ち着いた声で通訳する。その声には、不思議と人を安心させる力があった。
「では、儀式を始めます。王は、ただ寝台に横になり、心を無にしてお眠りください。決して、我々の声や物音に惑わされぬよう」
俺が厳かに告げると、王はこくりと頷き、ゆっくりと寝台に横になった。やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。神とはいえ、この肉体はただの人間。眠りからは逃れられない。
俺たちは、寝台を囲むように四方に立つ。俺、冬美、石橋、そして神子戸さん。全員の表情に、極度の緊張が浮かんでいた。
このままだと、孟婆は三回目の夢を見せるだろう。三回目の夢は全身の穴という穴から昆虫が出てくる夢だ。それが十日も続くという。延行はこの三回目の夢で孟婆に泣いて許しを請うたらしい。
俺だってそんな夢を見たら一生トラウマになる。
だが俺たちの目的は悪夢を見せることではない。天呉を封印することだ。
すなわち、ネブカドネザル二世自身に、「人として生きる」ことを選択させることが再封印に繋がる。




