三章 四 トスローの夢
「これからどうするの?」
冬美は寝台の王を見つめながら問う。
「俺に一つ考えがある。 -孟婆、いるんだろ?」
俺が部屋の隅に向かって声をかけると寝室の大きなクローゼットの陰から小さな人影が現れた。
それは和装の美少女。小学校低学年くらいの大きさで、艶やかな黒髪の中に小さな顔が収まっている。以前会った時はゴシック・ロリータなファッションだったが、あれは研究員である湊口の趣味で、本来はこのような服装なのだろう。
孟婆はもともと口数が少ないので、黙って俺達の前に立つ。
「久しぶりだな。今からネブカドネザル二世に三回目の悪夢を見せるんだろう?」
俺がそう確認すると孟婆は頷く。
「このおとこをはっきょうさせる。このままだといずれふういんはやぶれる」
刑天が言ったように封印が解けるのは時間の問題らしい。神使は神の命令なく天呉に直接手を下すことができないため、孟婆のように直接手を下さないやり方で天呉を無力化するつもりなのだ。
史実(といっても神話だが)ではネブカドネザル二世はこの後発狂し、牛のように草を食べることになるはずだ。しかしわざわざ神使が俺達に頼むのだから、おそらくそうはならないのだろう。
冬美は孟婆の前でしゃがんで話す。
「三回目の夢についてだけど、ちょっとお願いがあるの」
「なに?」
孟婆は冬美とは比較的仲がいいのでお願いを聞いてくれるかもしれない。
冬美が手招きしたので俺も孟婆の前で片膝をついて話す。
「俺は天呉に人間に下ってもらうつもりだ。今から話す夢を見させることはできるだろうか?」
そうして俺は孟婆にとある夢を語る。
やがて、話を聞き終えた孟婆は頷いた。
「わかった。そんなゆめでいいの?」
「あの王様に人としての心があるなら、きっとこちら側を選択するさ」
石橋は腕を組む。
「まぁ由井薗のやり方は人情頼みで好みちゃうけど分は悪うない。俺はダニエルが気になるから驕虫に監視させとくわ」
冬美も溜息を落とす。
「由井薗君もよくもまぁ残酷な夢を思いつくものねぇ」
孟婆は王のほうに向きなおると手をかざす。
「じゃあさっそくはじめる」
孟婆が眠る王にそっと手をかざす。その小さな手から、目には見えない因果の流れが王の魂へと注ぎ込まれていく。
王の表情に、苦悶ではない、不思議な困惑の色が浮かんだ。俺が孟婆に依頼した「特別な夢」が、今、始まったのだ。
――ネブカドネザル二世は夢を見ていた。
だが、夢の中の彼は、偉大なるバビロンの王ではなかった。
彼は「トスロー」という名の、日焼けした肌を持つ、ごく普通の農夫だった。場所は、見慣れたバビロンの都ではなく、国境近くの、名もない小さな村。彼はそこで、戦災で親を失った孤児たちを引き取り、小さな畑を耕しながら、細々と暮らしていた。
「パパ、お水持ってきたよ!」
「パパ、見て! こんなに大きなカブがとれた!」
孤児たちは全部で十七人。幼い子供たちは、皆、彼のことを「パパ」と呼び、実の親のように慕っていた。トスローは、子供たち一人ひとりの頭を優しく撫で、その日の収穫を共に喜び、食卓を囲む。王として君臨していた時には感じたことのない、ささやかだが、温かい幸福がそこにはあった。
そんな穏やかな日々に、終わりが訪れる。
ある日、村に「神の軍勢」を名乗る一団が襲撃してきた。彼らは圧倒的な力で村を蹂躙し、略奪の限りを尽くす。畑は踏み荒らされ、家々は焼かれ、村人たちの悲鳴が響き渡った。
トスローは、震える子供たちを背後にかばい、静かに立ち上がった。その瞳には、かつての農夫の穏やかさはない。かつて戦場で「鬼」と呼ばれ、敵に恐れられた兵士の鋭い光が宿っていた。彼は、愛する子供たちとの暮らしの中で、その過去を封印していたのだ。
トスローは、軍勢の前に一人、立ちはだかる。
「お前たちの将は誰だ。その者と戦おう。そして、俺が勝ったら子供たちには手をださず、この村から引き上げるのだ」
その堂々たる態度に、軍勢を率いる将――神の子孫とも呼ばれる偉大な男、カーンが前に進み出た。彼は、トスローを侮蔑するように見下ろし、冷たく言い放つ。
「いいだろう。だが、お前が負けたら、そこにいる子供は全員、皆殺しにする」
カーンは部下に命じる。
「お前たちは手を出すな」
そうして、二人の戦いが始まった。カーンの振るう剣は恐るべき手練れの技で、トスローは瞬く間に追い込まれていく。
「パパ!」
トスローの背後で、子供たちが息をのんで戦いを見守っている。しかし、その小さな瞳には、恐怖の色はない。ただ、ひたむきな信頼の光だけが宿っていた。
カーンは、その子供たちの視線に気づき、わずかに恐怖を覚えた。
(こいつら……トスローが勝つと、本気で信じておるのか?)
トスローは必死に戦うが、実力の差は歴然だった。カーンの剣が彼の肩を、腹を、脚を切り裂き、ついに彼は血の海に倒れ伏した。
「パパ!」
子供たちの悲痛な叫びが、彼の耳に届く。薄れゆく意識の中で、トスローは子供たちの顔を思い浮かべた。ここで自分が負ければ、この子たちの未来は、笑顔は、全て奪われる。
その瞬間、トスローは咆哮をあげ、信じられない力で再び立ち上がった。
「お前たちは……死なせん……! パパが、絶対……守るからな!」
その姿に、子供たちの顔がぱっと輝き、喜びの声を上げる。
「がんばれ、パパ!」
「パパは負けない!」
子供たちの声援が、彼の力となる。
トスローは、何度も、何度もカーンに斬りつけられ、倒された。だが、そのたびに起き上がる。血まみれのボロ雑巾のようになっても、その瞳の光だけは消えない。
「パパが……守ってやるぞ!」
彼は、もはや勝つために戦ってはいなかった。ただ、愛する子供たちを守るという、その一心だけが、彼の壊れかけた身体を突き動かしていた。
その姿は、あまりに愚かで、無様で、そして――あまりにも、尊かった。
「こやつ不死身か!」
カーンは驚きの声を上げると同時にトスローの瞳に宿る力に恐怖する。
その力は神であろうとも適わない力。その力はトスローだけではなく見守る子供十七人全ての瞳に宿る。
カーンは身を翻し、「勝負はついた」と去っていった。
――バビロンの空中庭園に眠るネブカドネザル二世の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼は、夢の中のトスローと完全に同化し、その痛みも、絶望も、そして何よりも、子供たちへの無償の愛を、自らの魂で感じていた。
神の力など、どうでもよかった。ただ、あの子たちを守りたい。その人間としての純粋な願いが、彼の魂を満たしていく。
その瞬間、王の身体から、黒い靄のような『天呉』の神気が、まるで王の人間としての心に居場所をなくしたかのように、静かに分離していく。神の力は、トスローの戦いには不要なものだったからだ。
「神子戸さん、今です!」
冬美が叫ぶ。
分離した神気を、俺たちは見逃さない。神子戸さんが、その黒い靄に向かって静かに手をかざす。
「『天地否』――。汝、還るべき夢に、還れ」
神子戸さんの因果が、持ち主の意志を失った力を優しく包み込み、その存在を再び夢の奥底――決して覚めることのない、三千年の眠りの中へと封じ込めていく。黒い靄は、抵抗することもなく、静かに光の中へと消えていった。
部屋に、静寂が戻る。




