第六話 歓談
轟音で目が覚めた。
まどろみはまだ解けていないが、自分が寝ぼけた状態で半覚醒している自覚がある。
だけど体を動かせない。手足も、声も出ない。体の上に誰かが乗っているような感覚。まるで金縛りにあったようだ。
か細い呼吸で倒れていることだけを理解すると、彼は立ち上がるために懸命に体に命令をし続けた。
動け。立てよ。なんでだよ。
自分の体が動かせない。それがレム睡眠時に中途覚醒したときに起こる金縛り現象であるとは彼は知らない。
動かせず、倒れている自分に嫌気がさし、どうにかしたいという焦りが生まれたとき、彼は初めて自分が置かれた環境に意識が向いた。
目を開けることはできないが、下半身に違和感がある。意識すると臭いも分かる。クソを漏らしてしまったらしい。
倒れている床が痛い。フローリングなので玄関だろう。最後の記憶から推測すると、家に帰ってきてから倒れてしまい、そのまま漏らしてしまったのだろう。
体の節々も痛い。酷い風邪なのだろうか。
そこまで推測すると彼は自身の無力感に打ちひしがれ、情けなさと自分の弱さに腹が立ってきた。
けれどもその思考も腹立たしさも、全てが消し飛んだ。
誰かが歩いてきたのだ。
彼のすぐ近くを。
そいつは靴を脱ぎ履きする様子も見せずに土足で塚本実の家を行き来し始めた。
外に出て、戻ってくると部屋の中のどこかに向かい、そしてまた外に行く。
それが数回繰り返された。
不審者は最後に彼のアパートの玄関の扉を閉めて出ていった。
遠くで車のエンジンがかかる音がした。
誰だ?
そう思いながら彼は眠ってしまった。
最後の気力を振り絞ってできたのは、不審者が立ち去っていくまでの過程を耳で聞き続けることだけだった。
次に目覚めたのは朝だろうか。
寒い空気に震えながら目覚めた。
腕を動かそうとすると動く。目を開いてみれば、土足で歩かれた靴の跡が部屋中にある。
足跡は大きい。男の靴跡に間違いない。
クソ野郎。
そう思いながら立ち上がろうとしたが立ち上がることができない。彼は自分が糞便にまみれていることを理解し、浴室に向かって這いつくばって進み始める。
まさかこんな状態で匍匐前進をやることが人生の中で訪れるなど思いもしなかった。
怒りや悔しさを通り越し、彼は苦笑いしながら浴室まで這い続ける。
どうしようも無い疲労感と倦怠感、頭痛にめまい。
それらを気力だけでねじ伏せ、這いつくばりながら風呂場に入ると彼は起き上がり、なんとかしゃがみ込む。
そして手を伸ばして浴室の給湯器のボタンを押して給湯器の電源を入れようとした。
しかし反応が無い。
何度か押してみても反応が無い。電源が通っていないのだ。
あの野郎。電気壊していったのか。
まさか不審者が家の中の電気系統を故障させて行くとは思わなかった。だが、電源がつかないという事実は揺るぎない。
彼は事実だけを受け止めて覚悟をし、腹をくくって根性で服を脱ぎだす。
分厚い冬用のジャンパーから上着、ズボン、下着まで尿と糞便で汚染されていた。彼は浴槽に掴まりながら上体を起こして汚れた衣類を脱ぎ散らかして裸になると、彼は水道のハンドルを回してシャワーから水を流す。
水は恐ろしいほど冷たかった。まるで修験者の滝の荒行を受けるかのようだった。
それでも冷たいシャワーの水を流し続け、体や手足の糞便を洗い流す。
膝を床につけた姿勢で体を洗い、ある程度の汚れを取り除くと、ジャンパーの中に財布やスマホを入れたままであったことを思い出す。濡れた手でジャンパーのポケットから貴重品を摘みだすと、今以上に濡れないように注意しながら脱衣所に放り投げた。
彼はそのままキンキンの冷水に体をさらしながら石鹸で体と頭を洗い続けた。
唇が紫色になった頃には体はキレイに洗い流され、洗いながらシャワーの水を飲んだ。
彼はシャワーの水を止めた。次に向かいべきは自分の部屋だ。
嫌な予感がする。その予感が的中していないことを切実に願うしかないが、現実的に可能性は高い。
玄関から風呂場までは糞便で汚染されて這った跡が残っている。その上を再び這うわけにもいかず、何よりも自室を確認しなければならない。
彼はそのためにあらん限りの力を振り絞って立ち上がった。まるでリハビリを始めたばかりの患者のように壁に寄りかかり、足はガクガクと震えていたが気にしてなどいられなかった。
彼は裸のまま浴室を出ると、脱衣所に置かれたバスタオルをひったくり、体を拭きながら気合だけで歩き続ける。
普段の肉体労働で鍛えた引き締まった体は、気合と根性だけをエネルギー源にして持ちこたえた。太ももは体を支え、寒さに震えても膝折れなど許さない。全身をフル活用して狭いアパートの中を一歩、また一歩と歩き続ける。
そうしてたどり着いた寝室で彼はとんでもないものを目の当たりにした。
自分の上下二連散弾銃がベッドの上に転がっているのだ。
寒いだの苦しいだのと言ってられなかった。そのまま転ぶような駆け足で寝室のクローゼットの中を覗くとガンロッカーが開いている。
中は空っぽだ。
「俺のレミントンを持って行きやがったのか……」
彼は焦った。盗難事件だ。よりによって自動散弾銃を。
普段ならば元折式、自動式ともに先台を外して別に保管していたのだが、彼はうかつにも猟期を前に自動銃だけ銃の点検と準備をし、射撃に行くために事前に負い紐を外してからそのままガンロッカーに入れてしまった。
自身の失態を悔いながら、彼はベッドの上に放置された元折式上下二連散弾銃を手にした。
ベレッタ社製のトラップ射撃用散弾銃。これは先台を外していたので持っていかれなかったのだろう。
開閉レバーを操作して機関部の薬室を開放すると弾が二発、上下の薬室に装填されている。弾を取り出して確認すると競技用の散弾だった
散弾が装填されている。
彼は銃と弾を発見したままの状態に戻すと、裸のままダイニングキッチンに向かった。玄関のすぐ脇。駆け込んだ台所のシンクの下の棚を勢いよく開け放つ。そして見て愕然とした。
棚の中の装弾ロッカーも開けられ、その中も同じく空っぽだった。
彼は体調不良とは違うめまいに襲われた。
恐る恐る装弾ロッカーの中の弾の消費のノートを確認すると、750発以上の弾が残っていた。
狩猟用のスラッグ弾が50発。
トラップ射撃用とスキート射撃用の弾が合わせて700発以上。
猟期に合わせて買い足していた在庫を全て盗まれている。
血の気が一気に失せた。
とにかく、どうにかしなければならないと考え、彼は裸のままスマホを置いた脱衣所に移動する。
脱衣所には表面が濡れたスマートホンが床に置かれたまま。生活防水の機能が付いた最新型なのでこの程度の水では支障が起きることはない。ところが彼がそれを手にして電源を入れようとすると電源がつかなかった。
おかしい。電源を触ると、バッテリー残量が無いことを示すアイコンが薄っすらと表示された。
そのまま急いで寝室に移動すると充電ゲーブルにスマホを突き刺す。
しかし反応しない。彼はふと思い出した。電気が通っていないということを。
彼は即座にブレーカーのある配電盤まで移動した。風呂場のすぐ近く。ブレーカを確認するとブレーカーは落ちていない。テレビをつけようとしたが電源はつかない。停電している。やはり盗人はアパートの電気設備を壊してから侵入したのだろうか。
彼は頭を抱えた。とにかく警察に連絡しなければならない。アパートの隣人に電話を借りる必要がある。そのためにも身なりを整える必要があった。寝室に戻るとクローゼットの中から衣類を取り出して身につける。寒さで鳥肌が立っているがそんなことよりも盗まれた銃の問題が頭からついて離れない。ただ闇雲に必要そうな服を重ね着し、寒さをしのいで隣人の家に行くことのできる格好になることだけを準備した。
手持ちのウール製の衣類で身を包むと汚物の跡を踏まないようにしながら玄関に移動し、玄関のサンダルを履いて表に出た。
隣人は皆顔見知りだし、アパートの住民もほとんど知っている。猟をやるためには近隣住民の調査もされるので、彼は自分から積極的に挨拶回りはするし、自治会などにも参加するようにしていた。
彼は隣の部屋の呼び鈴を鳴らした。しかし反応がない。不在のようだった。
続いて次の家の呼び鈴も鳴らす。しかしここも反応がない。
単身者が住むアパートなど、平日の昼間はだいたい誰でも仕事に行っている。留守で当然なのだ。
そこで彼は上の階の住人で、彼が狩猟をやっていることを理解している住人の部屋に行くことにした。その部屋に住むのは若い夫婦で、奥さんは在宅の仕事をしながら主婦をしている。部屋にいるとしたら彼女しかいない。彼はそう考えてアパートの階段へ向かった。
その途中、駐車場に目を向けると自分の車が無いことに気がついた。どうやら銃だけでなく、車まで奪われたらしい。腸が煮えくり返りそうな怒りが沸き起こり、その怒りをエネルギーに階段を駆け上った。
駆け上った階段だがそれだけで息が切れた。体力はほぼゼロの状態で立っているのもやっとなのに、緊急事態というその状況だけが彼の体をなおも突き動かす原動力として動かし続けた。
そしてやっとの思いで目当ての204号室まで到着すると、彼は呼び鈴を連打した。
「や、山本さん! 助けてください!? いませんか!?」
呼び鈴を押しながら枯れた喉で叫ぶように呼びかけた。しかしやはり反応がない。そもそも呼び鈴が鳴っていないのだから。
彼は極限の焦りを感じ、ドアをドンドンとノックをし続けた。それでも反応は無い。他を当たろうかと考えたその時、なんとなくドアノブに手をかけて回すと、ドアが開いた。鍵はかかっていなかった。
彼はゆっくりとドア開け、部屋の中に呼びかける。
「山本さん!! 山本さん!? 塚本です、留守ですか!?」
反応がない。やはり留守なのだろう。そう思って扉を閉じようとしたその時だ。
部屋の奥で何かが動く音が聞こえた。
「……山本さん?」
もう一度声をかけた。するとこちらに向かって誰かが歩いてくる気配を感じた。
居たのか。彼はホッとした思いで扉を開け放ちながら玄関で待ち構え、部屋の奥に声をかけ続ける。
「山本さん、すいません。電話貸してください。泥棒に入られてヤバいんスよ。マジでヤバい。すぐ返すんでしばらく借りたいんです。いや、てゆーか、証人になって欲しいんで付いてきて欲しいくらいなんスよ……お……お……?」
彼は途中までまくしてて話したが、現れた人影に声をつまらせた。
登場したのは山本夫妻だった。ワイシャツにスラックス姿の男性。スカートとセーターの女性。
二人ともいる。しかしそれは何とも変わり果てた姿でだった。
夫のシャツとスラックスは糞便や血のようなものが乾いてこびり付き、髪はボサボサで目に生気がまるでないみっともない姿。
同様に妻も普段の気さくな人柄など微塵も感じさせない表情。夫と同じように髪はボサボサでいたるところに血がこびり付き、口の周りは吐瀉物などで汚れ、これもまた乾いてガビガビになっていた。そして彼女もまた糞便で下肢が汚染され、なおかつ左肩の周囲を負傷しているようで筋肉がえぐられ、患部からは骨が露出していた。まる齧られた跡のように。
それはまさに映画の中のゾンビのようだった。
「……山本さん? なにそれ? え、コスプレっていうか特殊メイクって奴? なに、ハロウィン終わったろ?」
無言で彼に近づく夫妻。捕まえようとするかのように二人揃って両手を前に突き出し、まるで抱擁を求める子供のように躊躇が無い。
背筋に気持ちの悪い悪寒が走った。彼は後ろに後ずさり、扉を無言で閉めた。
気違いじみてる。
言い表せない恐怖を感じて彼は山本夫妻の部屋から離れ、アパートの屋外通路を歩いて階段へ引き返す。アパートの二階は見晴らしがよく、付近の道路や付近の民家を見渡すことができる。
立ち止まり、屋外通路の二階から見た周囲は、驚くほど静かで、ひとっこひとりいないように見えた。車道には車も走っていないし、離れた道路に見える信号機も消えている。
信号機が消えている。その違和感に彼は驚いた。このアパートだけではない。停電は町の問題だ。
扉が開く音が聞こえた。後ろを振り返ると山本夫妻がぶつかりあい、まるで満員電車の中から抜け出すようにお互いを押しのけあって玄関の扉から出てきた。
まるでお互いが見えていないかのようにして歩き、彼を目指してくる。
ヤバい。そう感じ取った彼は階段を駆け足で降りた。部屋に戻って態勢を立て直そうと考え、駆け下りた階段から角を曲がり、自室の103号室を目指した。
だが障害が生まれていた。誰かがいる。
それが誰なのかは見て分かった。先程訪ねた自宅の部屋の隣人たちだ。彼らもまた部屋に訪れた訪問者のノックと物音で覚醒し、訪問者が去った後になってから獲物を探し求めて外に出てアパートの前を徘徊し始めてしまった。
その数は二人。自室の前を二人の男性が徘徊し、彼を見つけた途端に生気の無い目でぎょろりと彼を睨む。さらに階段の上から山本夫妻が転びそうな足取りで階段を下ってくる。全員が同じ行動をしている。彼を捕まえ、抱きしめようとするかのように両手を前に突き出し、補足するとまっすぐに向かってくるのだ。
「も、もしかして、ゾンビってやつ?」
ありえない。そう思った次の瞬間だった。自分が立っているすぐ側のアパートの101号室の扉が開いた。
そこの住人は夏目さんという女性であることを彼は記憶していた。部屋でウサギを飼っていて、ポポちゃんという名前で可愛がっている。何度か見せてもらったこともある。
夏目はペットのウサギを彼に見せる度に、狩猟をしているという彼に対して残酷な遊びをしていると指摘してきた。こんなに可愛いのに銃で撃って食べちゃうなんて。とからかってくるのだ。彼もまたその度にウサギは狩っていないと弁明し、ポポちゃんの頭を撫でては近所付き合いを円滑に進めてきた。
その夏目がウサギのポポちゃんを口に咥えて登場した。
口に咥えてである。
ボサボサの茶髪で血と糞便で汚れた姿のまま、大きなグレーの愛玩動物のウサギの首元を口に咥えているのだ。
まるで野獣が獲物を仕留めて口に咥えて運ぶように、夏目は口にポポちゃんの喉元に食らいつきながら扉を開けた。
彼と夏目の目と目が合った。夏目の瞳に生気はまるで無い。
夏目は立ち止まると、口に咥えたポポちゃんの胴体を両手で掴み、ブチブチと首の肉を引きちぎった。血はタプタプと流れ、夏目の手とコンクリートの地面を赤く染めていく。けれども夏目は気にせずそのままポポちゃんを生のまま、毛皮も気にせずムシャムシャと齧り、食べ始めてしまった。
言葉が出なかった。
顔を正面に向けるとアパートの前から歩み寄ってくる二人の襲撃者。
後ろを向くと階段を降りてきた元・山本夫妻だったはずの二人の襲撃者。
そして左横にはポポちゃんをムシャムシャと食べている夏目らしき人物。それは新たな襲撃者となるだろう。
彼は走った。彼らを避けるために迂回して車道に出ると、彼を追って四人の襲撃者が付いてくる。夏目はまだポポちゃんに夢中で動かない。
彼は車道で立ち止まり、四人の襲撃者の様子を観察した。
サッカーでボールを保持した自分に相手プレイヤーがボールを奪いに襲いかかってくるときに似ている。違いがあるとすれば相手の動きが散漫で遅いこと。今のところは走ってくる様子はない。
さらなる明確な違いは相手の標的がボールではなく、彼自身にあること。ラフプレーが前提のゲーム。
相手の様子を左右に動きながら彼は観察し続けた。右に動けば右に集まり、左によれば左に集まってくる。それを何度か繰り返し、彼は動きたい方向への真逆のフェイントを仕掛けてみた。
それは見事なまでに簡単に引っかかった。彼はその隙を見逃さず、103号室の自室に駆け抜け、扉を開けると勢いよく中に入り、扉を叩きつけるように閉めて鍵をかける。
騙された襲撃者たちは気にする様子もなく彼の後追いかけ、閉ざされた103号室の扉に向かう。
扉の前に集まった襲撃者たちは閉ざされた扉を殴打する。その行為と行動に理屈など無い。
最後の襲撃者はその間にもポポちゃんをムシャムシャと食べ続けていた。




