第2話 閉めたはずの部屋・後
「昨日の案件、終わってない」
高梨がそう言うと、水城は手にしていた書類から顔を上げた。
「……森田さん、戻ったんですか?」
「分からん。小宮山さんから、また音がしたって連絡があった」
「同じ音です?」
「そこから確認する」
高梨は昨日閉じたばかりの案件ファイルを開いた。
コーポ青葉三〇三号室。
隣の三〇二号室では、半年前に森田清一という高齢男性が亡くなっていた。
昨日の調査で霊体を確認。
了玄による対話と供養。
霊体反応消失。
手順上は、何もおかしくない。
「場所が違うらしい」
「場所?」
「昨日まで隣から聞こえてると思ってた。でも昨夜は反対側だったって」
水城が眉を寄せた。
「北側ですよね」
「ああ」
「外壁ですけど」
「だから行く」
◇
午前十時過ぎ。
再び訪れたコーポ青葉三〇三号室で、小宮山葵は昨日よりも明らかに疲れていた。
「すみません。何度も」
「こっちの仕事なんで、気にしないでください」
高梨は室内へ入りながら答えた。
水城が後ろから続く。
今日は了玄にも再度同行を頼んでいた。
まず確認すべきことは一つだった。
「昨日の人、戻ってます?」
高梨が聞く。
了玄は三〇二号室へ入る。
数分後、戻ってきた。
「いません」
「間違いなく?」
「ええ」
水城も測定結果を確認する。
「霊体反応なし。昨日の残留だけです」
「じゃあ成仏は成功してる」
「そうなります」
高梨は三〇三号室へ戻った。
小宮山に向き直る。
「昨日聞こえた音、もう一度最初から教えてもらえます?」
「はい」
「何時頃?」
「十一時五十分くらいだったと思います」
「最初の音は?」
「何かを置く音です。コップとか、小皿とか……硬いものを机に置くみたいな」
「咳は?」
「してません」
「足音」
「少しだけ。でも昨日までのとは違う気がします」
「どう違う?」
小宮山は考えた。
「昨日までのは……もっと重かったです。おじいさんが歩くみたいな感じで」
「昨夜は?」
「軽いというか、小さいというか」
水城が記録する。
「椅子を引く音は?」
「昨夜は聞いてません」
「引き出しみたいな音は?」
「それはしました」
高梨が顔を上げた。
「それ、昨日以前も?」
「はい」
「どっち側から聞こえてました?」
「……分かりません」
「思い出せる範囲でいいです」
小宮山は部屋を見回した。
西側。
三〇二号室。
それから北側。
「最初は全部、隣だと思ってたので」
「そうですよね」
「でも今思うと、引き出しの音とか、食器みたいなのは……こっちだったかもしれません」
北側を指した。
高梨が水城を見る。
「音、分かれてた可能性あるな」
「森田さんの音と、別の何か」
「まだ決めるな」
「はい」
高梨は北側の六畳間へ入った。
窓が一つ。
壁。
押し入れ。
特に変わったところはない。
「この先って完全に外ですよね」
水城が管理会社から借りた図面を表示する。
「外壁です。隣接建物も距離があります」
「配管は」
「ここには太いのは通ってません」
「換気口」
「反対側です」
高梨は壁へ耳を当てた。
何も聞こえない。
「一応、建物側から潰そう」
◇
午前中いっぱいを使って、通常原因を洗った。
配管。
換気設備。
外壁。
屋根。
雨樋。
周囲の住宅。
道路。
音の反響。
動物。
水城が外から音を出し、室内でどう聞こえるかも確認した。
どれも違った。
「これ、録音あります?」
高梨が聞くと、小宮山はスマートフォンを出した。
「昨夜、途中から録りました」
再生する。
雑音。
エアコンの低い稼働音。
その向こう。
――コト。
小さな音。
数秒後。
――カラ、カラ。
何かを引き出すような音。
水城が無言で音量を上げる。
「入ってますね」
「ああ」
高梨は一度だけ小宮山を見る。
少なくとも、本人にしか聞こえない音ではない。
「この時、一人でした?」
「はい」
「扉は?」
「扉?」
「部屋の。全部」
小宮山は少し迷ってから答えた。
「北の部屋は閉めてました」
「いつも?」
「寝る時は閉めます」
「理由は?」
「エアコンの効きが悪くなるので」
高梨はそこで止まった。
「水城」
「はい」
「昨日までの記録、持ってるな」
「あります」
「音がした日と、しなかった日。小宮山さんが一人だったか。扉を閉めてたか。分かるだけ拾おう」
「今からです?」
「今から」
◇
条件を並べ始めた。
時間。
曜日。
天候。
室温。
照明。
テレビ。
窓。
帰宅時刻。
飲酒。
睡眠。
人の出入り。
扉。
最初は規則性がないように見えた。
「先週の金曜は?」
「妹が泊まりに来てました」
「音は」
「しませんでした」
「土曜」
「一人でした」
「音あり」
「北の部屋の扉は?」
「閉めてました」
水城が表へ入力する。
「その前の水曜」
「友達が来てました。夜九時くらいまで」
「音は?」
「その日はなかったと思います」
「友達が帰った後は」
「……寝るまで扉開けてました。洗濯物置いてたので」
高梨と水城が同時に顔を上げた。
「月曜」
「一人」
「扉」
「閉めてました」
「音」
「ありました」
数件重ねる。
完全な記録ではない。
それでも、偏りは見え始めた。
水城が画面を高梨へ向ける。
「主任」
「ああ」
「今分かる範囲だと、音がした日は全部、一人です」
「二人いた日はゼロ」
「はい。それと、北側の扉を開けていた日は発生してない可能性があります」
「逆は?」
「閉めてても発生してない日が一日あります」
「その日の滞在時間は」
「帰宅が遅いですね。閉めてすぐ寝たって」
「何分くらい?」
小宮山が首を傾げる。
「五分もなかったと思います」
高梨は壁を見る。
「時間も条件か」
◇
午後二時。
県庁へ中間報告を入れた。
『つまり、霊障ではない可能性があると』
電話の向こうで、課の榊原が言った。
「現状では」
『呪いは』
「反応なし。了玄さんも主体は感じないそうです」
『実験は最小限にしてください』
「分かってます」
『小宮山さんを何度も一人にして試すのは禁止』
「はい」
『高梨さんも、一人で無制限に試さないこと』
「そこまで無茶しませんよ」
『あなたが言うと信用が薄いんですが』
「ひどいな」
『最大二回。それで条件が確定しなければ一度持ち帰る。いいですね』
「了解」
通話を切る。
水城が笑いを堪えていた。
「何だよ」
「信用ないですね」
「お前も一緒だからな」
◇
試す条件は単純だった。
三〇三号室に人間一人。
北側六畳間の扉を完全に閉じる。
それだけ。
高梨が室内へ残る。
水城と了玄、小宮山は外へ。
管理会社の担当者も廊下で待機。
水城は複数の測定機器を作動させた。
「主任、聞こえます?」
イヤホン越しの声。
「聞こえてる」
「異常あったらすぐ中断してください」
「分かってる」
「本当に」
「分かってるって」
高梨は北側六畳間へ入った。
何もない。
昨日と同じ。
壁も。
窓も。
床も。
普通。
部屋を出る。
扉を閉める。
カチ。
ラッチが掛かった。
「開始」
『十四時二十七分、条件成立』
水城の声。
高梨はダイニングの椅子に座った。
一分。
二分。
何もない。
三分。
四分。
高梨は時計を見る。
五分。
静かだった。
『反応なしです』
「こっちもなし」
七分。
八分。
九分。
その時。
――コト。
高梨は動かなかった。
『主任?』
「した」
『何が』
「食器みたいな音」
『計測側、変化なし』
高梨は北を見る。
――カラ。
引き出し。
間違いない。
壁の向こう。
「水城」
『はい』
「録音」
『入ってます』
「霊体」
『ゼロです』
「呪詛」
『変化なし』
高梨は了玄に替わるよう言った。
少しして、イヤホンから声がした。
『高梨さん』
「聞こえてます?」
『外でも微かに』
「何かいる?」
間。
『いません』
「でも音してるぞ」
『ええ』
――コト。
また。
「じゃあ、あれ何です?」
『分かりません』
高梨は口を閉じた。
了玄が分からないと言ったから怖い、という話ではない。
その言葉が意味しているのは、少なくとも彼の知る「誰か」ではないということだった。
「水城。入って」
『はい』
数秒後、玄関の鍵が開く。
水城が室内へ入ってくる。
北側六畳間の扉は閉じたまま。
「入りました」
「ああ」
二人で黙って耳を澄ます。
一分。
二分。
音はしない。
「止まったな」
「はい」
「扉は閉じたまま」
「記録しました」
一度、北側の扉を開ける。
数分置いてから、水城と入れ替わるように、再び高梨だけが室内へ残った。
「二回目」
『十五時〇三分、条件成立』
扉を閉める。
カチ。
今度は八分ほどだった。
――コト。
「再発」
『録音確認』
続けて、
――カラ。
同じ音。
高梨は立ち上がり、北側六畳間の扉へ近づいた。
開ける。
ぴたりと音が止んだ。
「停止」
『こちらでも確認しました』
高梨は開いた扉を見た。
「これで二つともだな」
◇
「今のところ、条件は二つ」
夕方。
三〇三号室のダイニング。
水城が整理した結果を読み上げる。
「この部屋に人間が一人だけいること」
指を一つ。
「北側六畳間の扉を完全に閉じた状態を、数分以上維持すること」
二つ。
「どちらかが崩れると現象は停止」
高梨が補足する。
「扉を開けるか、二人目が入る」
小宮山が不安そうに北側を見る。
「じゃあ……あそこに誰かいるんですか」
「今のところ、そういう反応は出てません」
「でも、音は」
「します」
「じゃあ何なんですか」
高梨は答えなかった。
答えられない。
了玄が口を開く。
「少なくとも、死者ではないと思います」
「妖怪とか?」
「それも確認できません」
「じゃあ……」
小宮山の視線が高梨へ戻る。
高梨は少し考えた。
「現象として扱います」
「現象?」
「誰かが何かをしてる、という前提を一旦捨てます」
「そんなことできるんですか」
「できるかどうかじゃなくて、今ある情報だとそれが一番近いです」
水城が言う。
「怪異現象として、暫定登録することになると思います」
小宮山は理解できないという顔をした。
当然だ。
高梨だって、初めてそういう説明を受けた時は同じ顔をしたと思う。
「危ないんですか」
「現時点では、音以外の被害は確認できてません」
「これから何か起きる可能性は」
「ゼロとは言えません」
誤魔化さない。
「ただ、条件はかなり絞れました」
高梨は北側の扉を指した。
「閉めなければ起きない」
「……それだけ?」
「今分かってる範囲では」
◇
管理会社と協議した結果、北側六畳間の扉は撤去されることになった。
賃貸住宅なので通常なら簡単な話ではない。
だが管理会社側も、原因不明の生活音について既に複数回対応している。
県からも、
「現象発生条件の除去として有効性が確認されている」
という説明を行った。
扉が必要なら、代わりにカーテンや簡易間仕切りを設置する。
怪異を祓ったわけではない。
封印したわけでもない。
ただ、
条件を成立させない。
それだけだった。
◇
二週間後。
「再発なし」
水城が言った。
「小宮山さんから?」
「昨日確認しました。音は一度もしてないそうです」
高梨は報告書を開く。
案件分類。
怪異現象。
暫定危険度は低。
主体確認不能。
人的被害なし。
伝播性確認なし。
発生条件。
一名のみ在室。
特定室内扉の完全閉鎖。
一定時間経過。
終了条件。
開扉。
二人目の入室。
対処。
発生条件となる室内扉の撤去。
水城が隣から画面を覗く。
「これ、解決って書くんですか?」
「書かない」
「じゃあ未解決?」
「それも違う」
高梨は少し考えてから入力した。
発生条件除去により現象停止。
「根本原因は」
「不明」
「主体」
「確認できず」
「このまま終わりです?」
高梨は保存ボタンを押した。
「生活できるようになったなら、行政としては一回終わりだ」
「怪異としては?」
「終わってない」
水城は報告書を見る。
「じゃあ、何なんですかね。あの音」
「知らん」
「気になりません?」
「気になる」
「調べないんですか」
「調べる理由がない」
水城が目を瞬く。
「今はな」
高梨は椅子にもたれた。
「人的被害なし。条件も分かった。回避できる。ここから先に人間を入れてまで調べる理由がない」
「でも、壁の向こうに」
「部屋はない」
「ですよね」
「だからって、あることにして壁壊すのか?」
「……しません」
「仕事ならそこで止める」
高梨は案件を終了処理へ回した。
分からない。
だから調べる。
以前なら、それでよかった。
だが仕事では、分からないものすべてに手を伸ばせるわけではない。
その必要もない。
人が暮らせる。
被害が止まる。
なら一度閉じる。
そういう案件もある。
◇
その夜。
小宮山葵は、三〇三号室の北側六畳間で洗濯物を畳んでいた。
扉はもうない。
入口には薄いカーテンが掛かっている。
テレビの音がダイニングから聞こえていた。
静かだった。
咳もしない。
足音もしない。
食器を置く音もしない。
引き出しを開ける音もしない。
小宮山は北側の壁を見る。
何もない。
その向こうは外だ。
それでいい。
原因が何だったのか。
壁の向こうに何があったのか。
そもそも本当に「何か」があったのか。
分からない。
けれど、もう音はしない。
小宮山は洗濯物を抱えて部屋を出る。
カーテンが、わずかに揺れた。
それだけだった。
◇
県庁の記録システムに、一件の案件が保存された。
分類。
怪異現象。
件名。
閉めたはずの部屋。
主体。
確認できず。
原因。
不明。
対処。
発生条件の物理的除去。
備考。
経過観察終了。
その記録が、再び開かれるのは。
まだ、ずっと先の話だった。




