第3話 返ってくる傘
「傘?」
高梨慎吾が聞き返すと、水城透は頷いた。
「傘です」
「それは読めば分かる」
「じゃあ何で聞いたんですか」
「怪異対策課に回ってくる相談として納得したくなかった」
午前十時。
宗務・怪異対策課、現地調査係。
高梨の机には、一枚の相談票と写真が置かれていた。
写っているのは、どこにでもありそうな紺色の長傘だった。
少しくたびれている。
持ち手は木製。
透明なビニール傘よりは高そうだが、それでも特別なものには見えない。
「相談者は大橋美沙さん、三十四歳。市内在住。三週間前、駅前の飲食店で傘を取り違えた」
「盗った?」
「本人は間違えたと言っています」
「そこ大事だぞ」
「本人もそう言ってます」
高梨は相談票へ視線を戻した。
「翌日、店へ返した」
「はい」
「なのに家にあった」
「はい」
「もう一度返した」
「はい」
「また戻ってきた」
「はい」
「警察には?」
「相談済みです。店舗の防犯カメラも確認しています」
「結果」
「二回目以降、大橋さんが傘を店へ置いていく様子は映っています。ただ、誰かが持ち出す映像はないそうです」
「店員が戻したとか」
「否定」
「家族」
「夫と二人暮らし。夫も否定」
高梨は写真をつまみ上げた。
「それだけなら、変な悪戯で終わるけど」
「続きがあります」
水城が一枚めくる。
「三回目に傘を捨てました」
「どこへ」
「粗大ごみではなく、普通のごみ集積所です。ルール違反ですね」
「そこは別件で怒られろ」
「翌朝、玄関前に戻っていました」
「なるほど」
「四回目、夫が車で隣県まで運んで、河川敷のごみ処理施設へ直接持ち込みました」
「それ合法?」
「そこは確認済みです。施設側に引き渡しています」
「で?」
「翌朝、玄関の傘立てにありました」
高梨は写真を机へ戻した。
「行くか」
「ですよね」
◇
大橋家は、ごく普通の戸建てだった。
相談者の大橋美沙と夫の健太が玄関で待っていた。
問題の傘は、玄関の隅に置かれていた。
「触らない方がいいですか?」
美沙が聞く。
「まずはそのままで」
高梨が答える。
水城が測定器を起動した。
「霊体反応……なし」
「残留は?」
「あります。ただ、かなり薄いですね」
「呪詛反応」
水城が別の術式札を取り出した。
細長い白紙の札。
傘の周囲へ三枚置く。
指で簡単な印を切った。
札の中央に、薄く墨のような染みが浮かぶ。
「出ました」
「強い?」
「弱いです。でも明確です」
高梨は少し安心した。
安心、という表現が正しいのかは微妙だった。
ただ少なくとも、反応する。
何もないのに現象だけが起きるわけではない。
それだけで、先日のコーポ青葉よりずっと話がしやすい。
「呪いの可能性が高いですね」
美沙の顔が強張った。
「呪いって……誰かに?」
「まだ分かりません」
高梨はすぐ訂正する。
「呪いだからといって、誰かが意図的に作ったとは限らないです」
「そうなんですか」
「はい。強い感情や、同じ行為の繰り返しで成立することもあります」
健太が傘を見る。
「じゃあ、この傘に何かいるわけじゃない?」
「今のところ、霊は確認できません」
「じゃあ何で戻ってくるんです」
「それを調べます」
◇
まず、傘の来歴を追った。
美沙が取り違えた店。
駅前の小さな居酒屋。
店主によれば、問題の傘は以前から店の傘立てにあったという。
「いつから?」
「さあ……半年くらいですかね」
「持ち主は?」
「分からないです」
「忘れ物として保管?」
「最初はそうです。でも誰も取りに来なくて」
「それを入口に置いたまま?」
「雨の日に、傘忘れたお客さんに貸したことはあります」
高梨が顔を上げた。
「何人くらい」
「結構いますよ」
「返ってきました?」
「だいたい」
「だいたい?」
「返ってこない時もあります」
水城が記録していた手を止める。
「その場合は?」
「いつの間にか戻ってるんですよ」
高梨と水城が同時に店主を見る。
「それ、いつから気づいてました?」
「いや、似た傘なんていっぱいあるでしょう」
「この持ち手、傷がありますよね」
水城が写真を見せる。
木製の持ち手。
根元に、小さな三本線の傷。
店主の顔色が変わった。
「ああ……これか」
「覚えてます?」
「何回か見ました」
「返ってきたんじゃなくて?」
「……勝手にあった、ってことですか」
「その可能性があります」
◇
過去の利用者を完全に洗い出すのは不可能だった。
店が記録を取っているわけでもない。
ただ、常連客へ聞き取りをすると妙な話がいくつか出た。
店から傘を借りた。
返し忘れた。
気づいた時には、また店の傘立てにあった。
別の客は、借りた傘をそのまま自宅に置いていたところ、捨てても捨てても戻ってきたという。
最後には気味が悪くなって、店の前へ置いて帰った。
その後、その客のところには戻らなかったらしい。
「店が戻る先なんですかね」
県庁へ戻る車内で、水城が言った。
「まだ分からん」
「でも、借りた人の話だと」
「大橋さんは二回店へ戻して、それでも家に来てる」
「ああ」
「それに、さっきの客も店へ置いた後で止まったとは限らない」
「誰か別の人が持っていった?」
「可能性はある」
高梨は助手席の資料を見る。
「何に反応してるのか、そこからだな」
◇
翌日。
協力を依頼したのは、了玄ではなかった。
今回は霊ではない。
県登録協力者の中から呼ばれたのは、賀茂井修司。
三十代後半。
陰陽道系の術者だった。
細身のスーツ姿で県庁へ現れ、問題の傘を見るなり、
「分かりやすいですね」
と言った。
高梨は眉を上げる。
「分かります?」
「構造だけなら」
「原因も?」
「それは別です」
賀茂井は机へ札を四枚並べた。
中央に傘を置く。
「これは所有に反応してます」
「所有?」
「法律上の所有権ではありません。持った本人が『自分のものだ』と認識しているかどうかです」
水城が身を乗り出す。
「取得した時の認識?」
「そうです。それと、放棄」
賀茂井は札の一枚を指で動かした。
「この傘を自分のものとして持ち帰った人間へ接続する。その人間が手放そうとすると戻る」
「店から借りただけなら?」
「弱いでしょう。借り物だと分かっているなら、所有認識が成立しにくい」
「返し忘れた場合は?」
「長く持って、自分の傘みたいに扱い始めれば成立する可能性はあります」
「盗った場合は?」
「かなり強いでしょうね」
高梨は美沙の相談記録を見る。
「取り違えも?」
「本人が自分の傘だと思って持ち帰ったなら、条件には合います」
「じゃあ一回接続されたら終わり?」
「いえ」
賀茂井は傘の持ち手を見る。
「次の人間がこれを自分のものとして取得すれば、接続先が移る構造です」
「だから店の前へ置いた客のところには戻らなかった?」
「その後、別の誰かが持っていったなら説明はつきます」
水城が言う。
「じゃあ誰かに押し付ければ」
「駄目だろ」
高梨が即答した。
「ですよね」
賀茂井も頷く。
「呪いの移送になります。行政として採る方法ではありません」
「解除は?」
「構造をもう少し見ます」
◇
調査を続けると、条件が見えてきた。
傘を単に触るだけでは何も起こらない。
借り物だと認識しているだけなら反応は弱い。
重要なのは、
『自分のものとして取得した』と本人が認識すること。
そして、その後に自分の意思で手放すこと。
この二つだった。
取得者が傘を持っている間は何も起きない。
しかし、
捨てる。
返す。
売る。
置き去りにする。
誰かへ押し付ける。
そうした行為をすると、一定時間後に取得者の生活圏へ戻る。
別の人間が自分のものとして取得すれば、接続先そのものが移るらしい。
「妙な呪いですね」
水城が言う。
「害があるわけじゃない」
「ないとは限らない」
高梨は答える。
「捨てても戻るものが家にあるだけで、普通は十分嫌だろ」
「まあ……」
賀茂井は傘の持ち手を見ていた。
「しかも、これ多分かなり古いですよ」
「傘自体は新しく見えますけど」
「傘じゃありません」
持ち手。
三本の傷。
「ここです」
◇
持ち手を調べると、中に古い金属片が埋め込まれていた。
木製の芯へ、細い銅片が打ち込まれている。
そこに文字が刻まれていた。
かなり摩耗している。
賀茂井が読み取った。
「返せ」
高梨が聞き返す。
「それだけ?」
「それだけです」
さらに調べると、傘そのものは何度も修理されているらしいことが分かった。
布が替わり。
骨が替わり。
持ち手にも交換された痕跡がある。
それでも銅片だけは、新しい部品へ移されながら残ってきた。
「誰がそんなことを」
「分かりません」
賀茂井は言った。
「でも、呪いの核はこれですね」
誰かが何かを返してほしいと願った。
強く。
何度も。
それを意図的に術式へしたのか。
あるいは、長く積み重なった感情が偶然この形になったのか。
そこまでは分からない。
確かなのは、
銅片に刻まれた「返せ」という命令と、
取得した人間へ媒体を結びつける構造が残っていることだけだった。
「元の持ち主は?」
高梨が聞く。
賀茂井は札の反応を確かめた。
「人物までは分かりません」
「生きてるかどうかも?」
「そこまでは。ただ」
「ただ?」
「元の所有者への接続が、もう残っていません」
水城が首を傾げる。
「じゃあ、誰に返せって言ってるんです?」
「そこが問題です」
賀茂井は銅片を見る。
「返却先を参照できないのに、『返せ』という命令だけが残ってる」
「それで取得した人間から離れない?」
「おそらく」
「解除できます?」
「できます」
賀茂井はあっさり言った。
◇
解除は、拍子抜けするほど静かだった。
傘を壊す必要もない。
焼く必要もない。
賀茂井が銅片を取り出し、紙の上へ置く。
その周囲へ五枚の札を配置する。
五行に従って術式を組む。
「所有者と物品の接続を切ります」
水城が測定器を見る。
「反応、上がりました」
「正常です」
「何するんです?」
「この呪いは、『取ったなら返せ』という命令です」
賀茂井は淡々と言った。
「でも、術式上の返却先がもうありません」
「だから?」
「返却不能を確定させます」
高梨は少し考える。
「命令そのものを成立不能にする?」
「そうです」
「壊すんじゃなく」
「終わらせるんです」
賀茂井は銅片へ手を置いた。
札の文字が薄く変色する。
水城の測定器の数値が下がった。
一枚。
二枚。
三枚。
そしてゼロ。
「消えました」
水城が言った。
賀茂井は銅片を持ち上げる。
「終わりです」
「そんな簡単に?」
「構造が単純ですから」
「昨日のアパートより話が早いですね」
水城が言う。
高梨は答えなかった。
比べるものではない。
こっちには、
構造があった。
核があった。
作用条件があった。
解除すべき場所があった。
だから、終わらせられる。
◇
一週間後。
大橋家。
問題の傘は、県庁の確認後に美沙へ返された。
「これ、普通に捨てていいんですか?」
「大丈夫です」
高梨は答えた。
「念のため、行政側で処分してもいいですが」
「……お願いします」
「分かりました」
美沙は苦笑した。
「呪いがなくなったって言われても、もう使う気にはならないです」
「普通そうだと思います」
健太が横から聞く。
「本当にもう戻ってこない?」
「確認します」
◇
傘は県の契約業者を通じて廃棄された。
三日。
一週間。
二週間。
大橋家へ戻らなかった。
県庁にも現れない。
元の居酒屋にも戻らない。
現象終了。
高梨は報告書へ入力する。
分類。
呪い。
危険度。
第一種。
媒体。
傘内部の銅片。
発動条件。
所有認識成立後の放棄行為。
効果。
対象者生活圏への媒体回帰。
対処。
術式構造解除。
結果。
完全解除。
「今回は解決って書けるんですね」
隣で水城が言った。
「書ける」
「原因もだいたい分かった」
「構造はな」
「元の持ち主は分かりませんけど」
「そこまで分からなくても解除には関係ない」
水城は少し考えた。
「呪いって、怪異現象と似てません?」
「条件で動くところはな」
「でも違う」
「違う」
「何が一番違うんです?」
高梨は報告書を見る。
媒体。
条件。
接続。
命令。
解除。
「こっちは、壊す場所がある」
水城は画面を見る。
「……なるほど」
「仕組みが分かったら、そこへ手を入れられる」
「前の部屋は」
「扉を外しただけだ」
「条件を潰した」
「そういうこと」
高梨は案件を終了処理へ回した。
「今回は、ちゃんと終わりだ」
水城が頷く。
ファイルが閉じられる。
その後、傘が戻ってきたという報告はなかった。
呪いは解けた。
完全に。




