第1話 閉めたはずの部屋・前
県庁に、幽霊の相談窓口がある。
そう言うと、大抵の人間は笑う。
高梨慎吾も、昔はそちら側だった。
「――空室の隣から、夜中に生活音がする」
午前九時過ぎ。
宗務・怪異対策課、現地調査係。
自席で紙コップのコーヒーを飲みながら、高梨は机の上に置かれた相談票を読み上げた。
「はい」
向かいの席から、水城透が答える。
二十六歳。配属三年目。
机の上には、相談票の写しとタブレット、それから宗教法人関係の分厚いファイルが積まれていた。
「相談者は小宮山葵さん、二十八歳。コーポ青葉三〇三号室。三週間ほど前から夜間に隣室から咳、足音、家具を動かすような音が聞こえる、と」
「隣は?」
「三〇二号室。現在空室です」
「いつから空いてる」
「半年前からです」
高梨はコーヒーを置いた。
「理由は」
水城が一枚めくる。
「前の入居者が亡くなっています」
「ああ」
それだけで、話としては随分分かりやすくなった。
「七十二歳男性。一人暮らし。室内で急病。発見は翌日。事件性なし」
「管理会社経由?」
「最初はそうです。相談者が管理会社に連絡して、管理会社から地域窓口へ。昨日、こちらに回ってきました」
「なるほど」
高梨は相談票をもう一度眺める。
死者の出た空室。
隣人が聞く生活音。
咳。
足音。
家具を動かす音。
典型的だった。
典型的だからといって、即座に幽霊と決めつけていいわけではない。
「設備確認は?」
「管理会社が一度。給排水と換気設備には異常なし。上階はありません。二階の住人から同様の申告もありません」
「ネズミ」
「痕跡なし」
「近隣住宅」
「建物の東西は駐車場と道路です。音が問題になっているのは三〇二側らしいので、西側ですね」
「睡眠薬とか、精神科通院歴とか」
「相談時の聞き取りでは特記事項なしです」
水城が少し眉を寄せる。
「そこ、最初から聞くんですね」
「聞くだろ」
「聞き方に気をつけないと怒られますよ」
「俺が本人に『幻聴じゃないですか』って言うと思うか?」
「言わないですけど」
「じゃあいいだろ」
高梨は相談票を閉じた。
「現地行くぞ」
「今日ですか?」
「空いてるだろ」
「午後、宗教法人の変更届が」
「それ俺じゃない」
「僕です」
「じゃあ午前で終わらせろ」
「終わりますかね」
「普通ならな」
高梨は立ち上がった。
◇
コーポ青葉は、県庁から車で四十分ほどの住宅街にあった。
三階建て。
築年数相応に外壁はくすんでいるが、管理が悪いわけではない。
入口には小さな植木鉢が並び、自転車置き場には子ども用の自転車もある。
いわゆる事故物件らしい陰気さなど、どこにもなかった。
「普通ですね」
駐車場で車を降りながら、水城が言った。
「普通じゃない集合住宅ってなんだよ」
「もっとこう……」
「蔦?」
「そういうのではないです」
「じゃあ言うな」
管理会社の担当者と合流し、三階へ上がる。
三〇三号室のインターホンを押すと、すぐに若い女性が顔を出した。
「県庁の高梨です。こちら水城」
「あ、はい。どうぞ」
小宮山葵。
事前資料の写真より、少し疲れて見えた。
室内は整っている。
玄関を入って短い廊下。
右手に水回り。
奥にダイニング。
そこから二室に分かれている。
「それで、音がするのはどちら側ですか」
高梨が尋ねる。
「こっちです」
小宮山はダイニングの西側の壁を指した。
「最初はずっと、隣だと思ってて」
「三〇二号室ですね」
「はい」
「具体的には、どんな音を?」
「咳です。あと、歩いてる音とか。椅子を引くみたいな音も」
「時間帯は?」
「だいたい夜です。十一時過ぎとか。一時とか」
「毎日?」
「いえ。毎日じゃないです」
「曜日に偏りは」
「分からないです」
「音がした時、部屋にほかの人がいたことは?」
小宮山が少し考える。
「最近は誰も」
「音が始まった三週間前より前に、何か変わったことはありましたか。家具を替えた、工事があった、仕事の時間が変わった」
「特には……」
「隣が空室だと知ったのは?」
「音が気になって、管理会社に電話した時です」
「その時に、前の住人が亡くなっていたことも?」
「……はい」
そこで、小宮山の表情が明らかに固くなった。
「それを聞いてから、怖くなって」
「そうでしょうね」
高梨は否定も肯定もしなかった。
「確認しますけど、音がするようになったのは、その話を聞く前なんですよね」
「はい。それは間違いないです」
「分かりました」
高梨が水城を見る。
水城は既に小型の測定器を取り出していた。
外見だけなら、少し厚いスマートフォンに近い。
霊的反応を数値化する機器だが、それだけで幽霊が見つかるわけではない。
「ここは?」
「特に反応ないです」
「三〇二行くか」
◇
三〇二号室は、空室特有の乾いた匂いがした。
家具はない。
カーテンもない。
日差しだけが床に四角く落ちている。
「死亡場所は?」
高梨が管理会社の担当者に聞く。
「奥の洋室だそうです」
三人で奥へ進む。
水城が入口で止まった。
「主任」
「出た?」
「はい」
測定器の画面に反応が出ていた。
高梨も首から下げていた護符に触れる。
微かな冷たさ。
錯覚と言われればそれまでだが、研修以降、この感覚を外したことはあまりない。
「いるな」
「たぶん」
「強さは」
「低いです。ただ、結構はっきりしています」
高梨は部屋を見渡した。
何も見えない。
高梨自身には、霊を視覚的にはっきり見る能力はない。
専門術者なら別だが、彼は行政職だ。
「反応位置は固定?」
「今のところ」
「残留じゃなく?」
「動いてます」
水城が言った。
「……立ち上がりました」
「どこ」
「窓際」
高梨には見えない。
「こっち来る?」
「いえ。少し動いて……」
水城が画面を追う。
「また座りました」
高梨は管理会社の担当者を見る。
「前の住人、普段この部屋で過ごしてたか分かります?」
「そこまでは」
「遺品整理の記録残ってます?」
「確認します」
高梨は頷いた。
「一旦、専門家呼びます」
その場で県庁へ連絡を入れる。
こういう時に無理をしない。
低級霊らしい。
悪意も今のところ感じない。
だが、行政研修で覚えた簡易祓除を試す必要もない。
対応できる人間を呼べるなら、呼ぶ。
それが仕事だった。
◇
了玄が来たのは、一時間ほど後だった。
黒い作務衣に薄手の羽織。
見た目だけなら、どこにでもいそうな穏やかな僧侶だった。
「お待たせしました」
「すみません、急に」
「近くにいましたから」
了玄は三〇二号室に入る。
奥の洋室まで来ると、一度だけ目を細めた。
「いますね」
あっさり言った。
「やっぱり?」
「ええ」
「誰か分かります?」
「少し待ってください」
了玄は部屋の中央に座った。
数珠を手に持つ。
何か派手な儀式を始めるわけではない。
ただ静かに目を閉じる。
一分ほど。
それから、
「男性です。高齢。ここに住んでいた人でしょう」
水城が記録を取る。
「敵意は?」
「ほぼありません」
「本人、死んだの分かってます?」
「そこが曖昧ですね」
了玄はゆっくり立ち上がった。
「生活しているつもりなんだと思います」
「生活?」
「起きる。歩く。座る。咳をする。それを繰り返している」
高梨と水城が顔を見合わせる。
小宮山の証言と一致する。
「じゃあ、音の原因は」
「少なくとも一部は、この人でしょうね」
「一部?」
高梨が聞き返す。
了玄は首を傾げた。
「いえ。言い方の問題です。今確認できるのは、この方だけですから」
高梨は少しだけ引っかかったが、その時は深く考えなかった。
「対話できます?」
「できます」
「お願いします」
◇
森田清一。
七十二歳。
三〇二号室で一人暮らし。
娘が一人。
妻とは十年以上前に死別していた。
管理会社と戸籍情報、緊急連絡先から確認できたことはその程度だった。
娘とは疎遠。
ただし、完全に縁が切れていたわけではない。
県から連絡すると、娘は電話口で長く黙った後、
『父が、まだそこにいるんですか』
と聞いた。
高梨は、
「その可能性があります」
とだけ答えた。
幽霊です、とは言わない。
行政として、そこまで断定する必要はない。
娘が簡単な供養を行うことに同意した。
生前使っていた腕時計も手元に残っているという。
了玄は、それで十分だと言った。
娘は、供養に使うならと腕時計を管理会社へ預けてくれた。
その日の夕方。
三〇二号室。
高梨、水城、了玄。
そして管理会社の担当者。
小さな机の上に、森田が使っていた腕時計を置く。
了玄が静かに語りかける。
自分が死んだこと。
娘がその死を知っていること。
もうここで生活を続ける必要がないこと。
何か劇的なことが起こるわけではなかった。
窓が割れるでもない。
叫び声が響くでもない。
水城が測定器を見ていた。
「反応、弱くなってます」
数分。
さらに数分。
やがて、
「……消えました」
水城が言った。
了玄も頷く。
「もういません」
高梨は息を吐いた。
「終わり?」
「この方については」
「了解」
高梨は記録票へ書き込む。
霊体反応消失。
残留反応のみ。
人的被害なし。
成仏確認。
よくある、と言ってしまえば語弊がある。
だが、宗務・怪異対策課の仕事としては、決して珍しい案件ではなかった。
◇
「本当に、いなくなったんですか」
三〇三号室へ戻ると、小宮山が聞いた。
「少なくとも、三〇二号室で確認されていた反応は消えました」
高梨は答えた。
「じゃあ、もう大丈夫ですか」
「数日は様子を見てください」
期待させすぎない。
ただ、不安を煽る必要もない。
「咳とか足音がまた聞こえたら、時間と場所だけ記録してください。すぐこちらに連絡を」
「分かりました」
小宮山は明らかに安心していた。
高梨たちは建物を出た。
駐車場で水城が伸びをする。
「思ったより早く終わりましたね」
「普通だったな」
「森田さん、悪い人じゃなかったですね」
「幽霊になったから悪人になるわけじゃない」
「それはそうですけど」
「戻ったら変更届やれよ」
「覚えてたんですか」
「仕事だからな」
二人は県庁へ戻った。
高梨も、その日はそれで終わったと思っていた。
◇
午後十一時四十分。
三〇三号室。
小宮山葵は、寝る前にダイニングの照明を落とした。
今日は静かだった。
咳もしない。
足音もしない。
それだけで、部屋が少し広く感じる。
「……よかった」
小さく呟く。
寝室へ入る前に、北側の六畳間を見る。
普段ほとんど使っていない部屋だった。
洗濯物を畳んだり、荷物を置いたりする程度。
照明を消す。
扉を閉める。
カチ、とラッチが鳴った。
寝室へ移動する。
五分ほど。
何も起きない。
十分。
静かだった。
やっぱり、終わったのだ。
そう思った。
その時。
――コト。
小宮山の手が止まった。
音。
小さな音だった。
硬いものを机に置いたような。
耳を澄ます。
何もない。
気のせいか。
そう思った直後。
――カラ。
何かを引き出すような音。
小宮山はゆっくり顔を上げた。
音の方向を見る。
西ではない。
三〇二号室ではない。
北。
さっき閉めた六畳間の、その向こう。
外壁側。
もう一度。
――コト。
食器を置くような音。
その壁の向こうに、
部屋はない。
◇
翌朝。
始業直後。
高梨の業務用携帯が鳴った。
「高梨です」
『あの、昨日来ていただいた小宮山です』
「はい。どうしました」
少し間があった。
『昨日の音なんですけど』
「はい」
『まだ、します』
高梨の手が止まった。
「……どっちの壁です?」
『え?』
「音がした方向です」
電話の向こうで、小宮山が息を吸う。
『隣じゃ、なかったです』
高梨は机の上の案件ファイルを引き寄せた。
『反対側です』
コーポ青葉三〇三号室。
北側。
図面上、その先には何もない。
高梨は無言で立ち上がった。
「水城」
「はい?」
「昨日の案件、終わってない」




