2.ルナリアの婚約 【エリアス】
父の書斎に移動し、王城での出来事を報告する。
「グレンは……あいつは、ルナリアと一緒にいたはずです。蛍涼祭は、婚約者か、婚約者が居ないものは、親戚と参加するのがマナーです。常識なんですよ。ですがそれを……!グレンは、王女殿下といた。この意味がわかりますか、父上……!?」
挨拶や、食事、ダンスなどでパートナーや同伴者と離れてしまうのは仕方ない。
だけど、夜会の主役である【蛍涼祭】は話が別だ。
夜闇に蛍を放ち、それを目で見て楽しむ蛍涼祭は、パートナーやエスコート役と一緒に楽しむものだ。
それが、どんなに仲が悪い間柄だろうと、たとえ、喧嘩をしていようと、それは変わらない。
それなのに、なぜ、グレンはルナリアのそばにいなかった?
襲撃が起きたのは蛍涼祭の真っ只中。
どこかで、グレンがルナリアから自主的に離れない限り、ルナリアがひとりになることはなかった。
できるだけ、感情的にならないように。
冷静になれ、と何度唱えても、声に感情が乗ってしまう。
落ち着いて話すことはまだ難しい。
まだ、覚えている。
あれはきっと、一生忘れられない。
血で汚れたドレス。
「とびきり可愛くお願いね」とはにかんで、ルナリアは侍女にお願いしていた。
そのヘアセットは崩れ、乱れていた。
髪飾りはどこかにいってしまったのだろう。
髪を留めていたピンも外れ、髪はほつれていた。
ぼさぼさの、ぐちゃぐちゃだった。
腕にはあざもあった。
それに何より、ルナリアは泣いていた。
泣き腫らした顔をしていて、目元も赤い。
目は充血し、既に泣いた後だというのが見て取れた。
僕を見つけた後、ルナリアはさらに激しく泣いた。
怖かったのだろう。
恐ろしかったのだろう。
不安、だったに違いない。
あの会場で、襲撃を受けた時、ルナリアはたったひとり。
ひとりぼっちで……いたのだから。
ドレスの裾には血溜まりができていた。
ルナリアの血だ。妹の血を、目にする日が来るとは思わなかった。思いたくなかった。
(あの男にも、見せたくはなかったのに……)
グレンになど、見せたくなかった。
あれを見たのだ。
グレンだって、驚いただろう。
もしかしたら、自責の念に駆られたかもしれない。
だけど、今更なんだ?
そうだ、お前が見捨てたせいで、ルナリアは怪我をした。貴族令嬢として有り得ない傷を負うことになった。
だから、もう関わってくれるな。
それが、僕も父上も、母上だって望んでいることだ、
頼むから、もうこれ以上ルナリアを、傷つけてくれるな。
「父上。僕は……あいつが、グレンが、許せません……!たとえ謝罪されたとしても、許すことは出来ない。許せないんです…………!!」
許されるのなら、この手で切り捨ててしまいたかった。
父上はしばらく沈黙していたが、やがて話し出した。
「…………これは、我がローウェル公爵家の手落ちでもある」
苦しげな言葉。
それに、僕は噛み付いた。
「なぜですか!」
「ルナリアに護衛をつけるべきだった。グレンは、近衛騎士だ。職務を全うしたと言われてしまえば、その通りだ。……最初から、期待などしなければ良かったのだ。職務に忠実な王家の犬。実に良いじゃないか。他人事なら、素晴らしいことだと言っていただろうね」
珍しく、父上は饒舌だった。
いつもはそこまで心の内を明かさないのに。
……そうか。
父上を見て、納得した。
怒り、悲しんでいるのは何も僕だけではない。
父上も、母上も、知ればきっとエイリクだって。
怒っているし、悲しんでいる。
父上の目元は赤くなっていた。
恐らくは、強い感情によって。
父上の目は、今にも泣きそうに見えた。
泣きそうなのを、堪えているように。
声だけは落ち着いて聞こえるのは、父の経験の賜物なのだろう。
僕にはまだ、それができそうにない。
父上の声は落ち着いていたが、それだけに様々な感情を抑え込んでいるようにも聞こえる。
「騎士との婚約なぞ、許すのではなかったな……………!!」
父は唸るように言った。
それが、嘘偽りない本心だったのだろう。
「ルナリアとの婚約は、どうされます?」
「まずは、婚約解消を申し出る。ルナリアは……娘は、酷い怪我を負った。……医者にも聞いた。完全な完治は、難しいそうだ。恐らく、後遺症が残る。そう申し出て、先方との婚約は解消する」
「解消!?破棄はできない……のですか……」
勢いのまま言って、それは無理なのだろうと自分でもわかった。
なぜなら、グレンは職務を全うしただけなのだ。
近衛騎士として、有事の際王女の元に侍った。ただ、それだけ。
その結果、ルナリアが怪我をしたのだとしても──そこに、彼の責任は見い出せられない。
この、ミレヴァールの法では、彼に責任追及することは難しい。
公人として、僕も、父上も。
本来は水に流すべきことだと理解している。
僕でさえ理解してるのだから、父上はもっとそうだろう。
公爵家当主としてか、ひとりの娘の父親としてか。
板挟みになった末、迷わず父上は後者を取った。
それに、父上は最初から、ルナリアに政略結婚など求めていなかったんだ。
ルナリアの相手が平民なら、こんなことにはなっていなかっただろう。
身分も、金も要らなかった。
ただ、ルナリアを一番に考え、想ってくれるなら。
それだけで、良かったのに。
「…………婚約など、させるのではなかった」
もう一度、父上が言う。
抑圧された声は苦しそうで、冷静に見えるけど、父上も辛いのだと分かった。
目をきつく瞑る。
ルナリアが、目を覚ましたら。
まずは何をすべきだろう?
その時、僕は思い出した。
ルナリアが、一刻も早く城から離れたがっていたことを。
馬車に乗って、治癒の使える魔術師を呼ぼうと話した時、ルナリアは首を横に振った。
城から早く離れたいのだと、言われなくてもわかった。
ルナリアは無意識なのか、僕のシャツの裾をきゅっと握っていた。
不安、だったのだろう。
「…………ルナリアを、療養に出しませんか?」
僕の提案に、父上は眉を寄せる。
「ルナリアを?……どこにだ?」
「とにかく、王都ではないところです。西……いや、南の海岸にローウェル公爵家が所有する別荘がありましたよね。そこで、療養させるのはいかがです?しばらく王都はゴタゴタするでしょうし、ここにいてはルナリアの気も休まらない」
僕がそう言うと、父上は一理あると思ったのだろう。考えた末に、頷いた。
「分かった。手配しておこう。だけど決めるのはルナリアだ。あの子がここに残りたいと言うなら、その提案はなしだ。いいな?」
もちろん、僕に反論などあるはずがなかった。
☆
扉を控えめにノックすると、侍女が取り次いだ。
母上は変わらずルナリアについている。
だけど、顔色が悪い。もう夜中の三時だ。
「母上。僕がみますよ」
声をかけるも、母上は首を横に振る。
「そばにいたいの……。この子が目を覚ました時に、近くにいてあげたいのよ」
「では、温かいハーブティーを持ってこさせましょう。……顔色が悪いですよ」
付け加えると、母上はようやく自覚したようだった。困ったように、苦笑した。
動揺のせいもあるのだろう。
母上は、この一晩でずいぶんやつれたように見えた。
「……ねえ、エリアス。私はね、どうしてもグレンを……ウィンザー公爵家の息子を、許せないのよ」
母上はぽつりぽつりと話した。
その手はゆっくりと何度も何度もルナリアの額を撫でている。
ルナリアの表情は幾分か和らいでいたものの、頬が赤い。熱が出ているのだろう。
髪は汗で濡れてしまっているようで、サイドテーブルには、水を張った桶が置かれていた。
母上は何も言わずに手巾を桶の水で冷やして絞ると、それでルナリアの首筋を拭く。
本来は侍女がやることだが、母上は手ずからやりたかったのだろう。
いてもたってもいられない。そんな様子だった。
僕は、母上の隣に座る。
父上は、今頃ルナリアの療養の手配と、婚約解消の書類作成で忙しいだろう。
きっと、父上もルナリアの様子が気になっている。後で、従僕に報告を持っていかせよう。
ルナリアの寝息は、変わらず苦しげだった。
時々魘されては、その度に呻いている。
そうなると、母上は落ち着かせるようにルナリアの胸元をぽんぽん、と優しく撫でた。
「どうして、こんなことになってしまったのかしらね……」
しみじみと、母上が言う。
その声には、深い悲しみや、やりきれなさ。
現実への絶望が色濃く滲んでいた。
「……好きなひとができたと、嬉しそうに笑っていたわ」
「…………そうですね」
「金木犀は特別だと言って……香水を作らせて。黄色のドレスや、宝石を好むようになった。秋は特別で……金木犀を見ると、喜ぶのよ。庭で、金木犀の木を探して回るの。庭に、イチョウの木を植えたいって、何度も強請られたわ。聞かなくてもわかった。秋も、イチョウの葉も……金木犀も。きっと、大切な思い出だったのね」
秋になると、ルナリアは毎年グレンと出かけていた。
イチョウの葉っぱを、頭に乗せて帰ってくるんだ。
「ただひたすら、ひたむきに……愛していた。それなのに……どうして、こんな……」
優しい母上の声が、震えた。
声に涙が交じる。
泣き出してしまった母上の肩を、そっと抱く。
母上はしばらく身体を震わせて、声もなく泣いていたが、やがて首を横に振った。
もう大丈夫、ということだろう。
手を離すと、母上はすん、と鼻を鳴らした。
それに、侍女がすぐにハンカチを持ってくる。ハンカチを受け取り、母上は微笑んだ。
もう、いつもの母上だった。少なくとも、表面上は。濡れた眦にハンカチを押し当てる母上に、侍女が尋ねた。
「奥様……ハーブティーはどうなさいますか?」
「そうね……。いただこうかしら。エリアス、あなたも飲みましょう。少しは、落ち着くはずよ」
母上に誘われて、僕は全く気が進まなかったが、頷いた。母上の心遣いだと分かったからだ。
すぐにハーブティー──ラベンダーティーが運ばれてくる。
互いに、味がしないハーブティーを口にした。きっと、柔らかくて落ち着いた味がするのだろう。花の香りが、するのだと思う。
だけど、全く分からない。
それどころではないと、脳が言っていた。
母上はその日、何度も何度もルナリアの頭を撫でていた。
僕はルナリアの手を握り、彼女の回復を祈る。これしかできない自分が、歯がゆくて、もどかしい。
早く、早く。少しでも良くなって欲しい。
そしてまた──笑って欲しい。
お兄様、と。笑いかけて欲しい。
ただ、それだけなのに。




