6.波乱の夜
お兄様の声は震えていた。
とても、怒ってる。
私のせいで、お兄様は悲しんでいるし、怒っている。それが悲しかった。
怒らないで欲しい。
私のために、悲しまないで欲しい。
優しい兄を、傷つけたくなかった。
お兄様の手は震えていた。
それを、抱き上げられている私だけが気付いていた。
「貴殿ができることはない。持ち場に戻るといい」
「待ってくれ!!ルナリアは……怪我をしている……!早く医者に見せないと!!」
「あなたに言われるまでもない。これ以上、妹の負担になるのはやめてくれ。今件の貴殿の行動、父上に報告させていただく。騎士として、とてもご立派なことだ。陛下は貴殿をさらに取り立てられるかもしれないな」
それは、お兄様らしからない、嫌味の応酬だった。冷たげで、憎々しげで、それなのに感情が一切こもっていない。
それだけに、お兄様の憎悪を、確かに感じた。
「だが私は、ひとりの兄として、ルナリアの家族として、貴殿を許すことができない。よくも、私の最愛の妹を見捨ててくれたな」
吐き捨てるようにお兄様が言う。
びくっと、また肩が跳ねた。
見捨てられた。
……そう、私、見捨てられたの。
グレンに。
(そっか……。そう、なのね)
天秤にかけられて、傾いたのは王女殿下の方。
分かっていたじゃない。
分かっていたことじゃない。
それなのにどうして、苦しくなるの?
傷ついてしまうの?
もう、何もかもが嫌だった。
苦しいのも、傷つくのも、足が、痛いのも。
貴族令嬢としての価値を貶めてしまった。
怪我を負ってしまった私は、もはや傷物だ。
分かるの。この怪我はきっと、完全には治らない。
跡が残る。だって、魔法銃で撃たれたもの。
撃たれたのよ、私。
「なっ……そういう、わけでは」
グレンの声にはやはり、罪悪感とか気まずさとか、そういうものはなかった。ただ、困惑が色濃く滲んでいる。
彼は自分の行動が正しいと思っているから、糾弾されたことに困惑している。
「それなら結構。二度と、ルナリアと話せると思うな……!」
お兄様は一語一句、言い聞かせるようにグレンに言った。
そのまま、グレンの返事を待つことなく、お兄様は歩き出す。
私は最後まで、グレンの顔を見なかった。
近くに、王女殿下の姿もあったのだろうか。
それなら見なくて、良かった。
魔法銃に撃たれて、血まみれの私。
ドレスは裾がほつれ、レースが破れ、血が滲んでいる。髪もぐちゃぐちゃだ。
王女殿下は、きっと綺麗なままだろう。
髪は乱れてなくて、ドレスにも汚れはなくて。
そんな彼女が、グレンの隣にいるかもしれない。
その姿を見るのは、今の私には辛かった。
「待ってくれ、エリアス!!確かに俺は、ルナリアよりアルセリアを優先した。だけどそれは……」
グレンが何か言いかけるけど、お兄様はもう、足を止めなかった。
お兄様は、私を揺らさないよう殊更気をつけているようで、その足取りはゆっくりだ。
だけど、歩幅が大きい。
これも、いつものお兄様らしからぬ行動だった。
途中でジェニファーと会った。
彼女は私に気を遣って、自分の馬車で帰ると申し出た。
「ルナリア。また今度会いにいくわ。その時は流行りのお菓子を持参するから!」
明るく言う兄の婚約者の、その優しさが有難かった。
お兄様は公爵家の嫡男だから、私とは違って政略結婚する必要があった。
だから、ジェニファーとは政略的な婚約だ。
だけどふたりは、政略で結ばれた仲とは思えないほど、昔から仲がいい。
私が生まれた時には、ふたりは既に婚約を結んでいた。
ジェニファーは、まだお兄様と結婚していないけど、既に私にとって姉のような存在だった。
「それじゃあ、エリアス。何かあったら連絡をちょうだい」
それにお兄様が答え、ジェニファーは彼女の家の、アルモンド伯爵家の馬車に向かった。
馬車の座面に下ろされて、お兄様が気遣わしげに私を窺う。
とても、心配させてしまっている。
「痛むか?……痛むよね。治癒が使える魔術師を呼んでくる。少しだけ、待っていられる?」
お兄様の言葉に、私は首を横に振る。
一刻も早く、ここから離れたかった。
城から離れたかった。
私が無言で首を横に振ると、お兄様がポンポン、と頭を撫でてくれた。
これも幼少期、よくお兄様にしてもらったこと。
「それじゃあ、痛み止めだけ貰おう。僕もここで一緒に待つ。それなら構わない?」
「…………はい」
声を出すと、それは酷い鼻声だった。
まるで子供時代に戻ってしまったかのよう。
お兄様に甘えている自覚はあった。
お兄様もまた、私をいつも以上に甘やかしてくれる。
私が頷くと、お兄様はホッとしたように微笑む。
心配、かけさせてしまっている。
それまた、苦しくて、辛い。
お兄様は背後を振り返って、従僕に痛み止めと解熱剤の処方を依頼するよう言伝た。
解熱剤は……きっと今晩、私が発熱してしまうからだろう。
患部は熱を持っていて、血を流しすぎていた。
今、自分の体がどうなっているのか分からない。
それも、怖い。
私はこれからどうなってしまうのだろう。
グレンとの、婚約は?
「え?本当に?」
その時、お兄様が驚くような声が聞こえてきた。顔を上げると、お兄様はびっくりしたような顔のまま、振り返る。
それから、私と目が合うと悪戯っぽく笑った。
「ジェニファーが既に薬を手配してくれてた。とりあえず、薬だけ飲んでおこうか。飲めるかい?」
お兄様は、私を気遣って、だろう。
穏やかな声で、先程のトラブルなんてなかったかのように優しく言った。
「……うん?吐き気止めに、胃薬。咳止め、止血剤、包帯……あいつ、手当たり次第に揃えさせたな。何で塩まであるんだ?何をするつもりだったんだ……?」
お兄様が困惑する声が聞こえてくる。
ジェニファーは、私が怪我をしたことは知っていても、それが何による傷かまでは分からなかったのだろう。
でも塩は……塩は、何に使うのかしら。
塩水にして傷口を流す……とか?
ジェニファーも、混乱していたのだろう、きっと。
ジェニファーが手配してくれた鎮痛剤を、お兄様から受け取る。次に、コップも。
まずはコップから水を飲んで、薬を含む。
お兄様にそれを渡して、お兄様が持ってきた従僕にグラスを返した。
足の痛みは、もはや鈍くなっていた。
感覚が麻痺してしまったのか、あまり痛みを感じない。
帰り道。お兄様は私の頭をそっと、自身の肩にもたれかけさせてくれた。
「父上と母上は既に帰宅済みだ。あのひとたちは、蛍にもダンスにも興味がないからね」
「……興味が無いのは、お母様だけじゃない?」
お母様は、華やかな場が苦手だ。
気疲れしてしまうらしい。
だけど、社交がとてもお上手なので、彼女から学ぶことはたくさんある。
『いいこと?コツはね、本心を明かさないことよ。社交場は、敵地と心得なさい』
それがお母様の言葉。
それを思い出して、思わず笑ってしまう。
お兄様の視線を感じて、お母様の言葉を伝える。すると、お兄様も笑ってくれた。
「あはは。母上が言いそうなことだね。……この時間だと、エイリクは寝てるかな。まずはルナリアの傷を診てもらって、それが終わったら、お前はゆっくり寝ること。ひとりで寝られるかい?」
エイリクは、私の弟だ。
今年十四歳で、未成年なので今夜のパーティーには来ていない。その代わり、昼のティーパーティーには参加していたし、夕方からは市井に降りて、祭りを楽しんでいたと聞いている。
私はお兄様の言葉にクスクスと笑った。
「もう。お兄様ったら。私をいくつだと思ってるの?」
私はもう十九歳だ。
添い寝をしてもらうような年齢ではない。
笑いながら答えると、お兄様が私の頭を撫でた。
「僕にとっては、いつまでたっても可愛い妹のままだよ」
こころが、ポカポカする。
先程まで凍りついていたこころが、ゆっくりと温められていく。
まだ、傷を直視するのは怖い。
だから、目を逸らす。
関係の無い話をして、やり過ごすことしか、今はできない。
まだ、事件のことも、グレンのことも、話せそうにない。
あと少しだけ。
あと少しだけでいいから。
今だけは、忘れさせて。
その無言の願いを、お兄様は正しく理解してくれていた。
その時、気がついた。
お兄様が、不自然な手の庇い方をしていることに。
お兄様は私の左に座っていて、左手で私の頭を撫でるのはやりにくいだろう。
それなのに、左手で、無理に手首で返すような形でお兄様は私の頭を撫でていた。
まるで、右手を庇うように。
(そういえば……)
薬を受け取る時も、左手だった。
まさか、と思ってお兄様の右手を取る。
突然腕を掴まれた形のお兄様はびっくりして目を見開いた。
「ルナリア?」
「お兄様……!これ、どうされたの……!?」
私はお兄様の呼びかけには答えず、逆に彼に尋ねた。
お兄様の手のひらには、血が滲んでいた。
中央は鬱血していて色を変えている。
暗くて見えにくいけれど、内出血を起こしているように見えた。
(どうして?)
お兄様は戦闘なんてしていないは、ず──。
まるで鋭いものが、くい込んだような手のひらを見て、私は息を呑んだ。
まさか。
「これ……!」
私の推測に気が付いたように、お兄様が笑う。困ったように。
「気付かれちゃったか。ルナリアには嘘をつけないね」
お兄様は誤魔化さなかった。
これは、爪の跡だ。
強く、強く拳を握ると、こうなるのだろう。
「ごめんなさい。私の、せい、ね……」
そう思わせる、血の滲み方だった。
きっと、お兄様はグレンと話している時、拳を握っていた。
強く──それも、血が滲むほどに。
抑えきれなかった怒りを、逃がすために。
私が謝ると、お兄様は困ったように笑って言った。
「何言ってるの?ルナリア。お前は悪くない。悪いのは……いや。それにこれは、僕が未熟だった証だよ。……しまったな、これを父上に知られたら、叱られてしまう。だから、これは僕とお前だけの秘密。分かった?」
お兄様は悪戯っぽく笑うと、人差し指を口元に当てる。
それに、私はこくんと頷いた。
意図的に、お兄様はグレンの名前を出さないようにしている。
手の傷は、お父様やお母様やエイリクが、怪我をした原因を知ったらより悲しむから、だから隠そうと言うのだろう。
お兄様は、どこまでも優しいひと。
早く邸に帰りたいと思った。
……城にはもう、行きたくない。
グレンに、会いたくなかった。
あんなに好きだった金木犀。
今は夏で、咲いているはずがない。
そもそも馬車の中に花があるはずがない。
それなのに、金木犀の香りがするのは、どうして?
苦しい。
金木犀の香りがする……気がする。
香りから。苦しみから。痛みから。
それらから逃れたくて、私はゆっくりと目を瞑った。
お兄様に体を預けて、車輪の回る音を聞く。
こうして、波乱の夜が終わった。
この日を境に、私の人生は一変することになる。




