5.他のひとを選んだ婚約者
(痛い、痛い、痛い、痛い……!!)
もはや、痛みは熱に変わっていた。
走る度に、涙がこぼれる。
お気に入りの、大好きなドレスは走りにくくて仕方ない。もう、何もかもがぐちゃぐちゃだった。
出口に向かって、一気に駆けだす。
男の仲間と思わしき襲撃者たちは、私に気付いて捕まえようとこちらに向かってくるが、私はそれをテーブルをなぎ倒して椅子を蹴り倒して妨害した。
痛い。怖い。
走れ。逃げないと。
それだけの思いで、足を動かした。
頭がチカチカする。
もう、無我夢中だった。
出入口の両開きの扉は開け放たれていて、その手前で騎士たちが固まって陣形を取り、襲撃者たちに応戦している。
私は彼らの間を縫うようにして、廊下に飛び込んだ。
「はっ……は、は……」
浅い呼吸を吐いて、壁に縋る。
ひとはまばらにいたけど、誰がいるのかまで確認できていなかった。
私が最後の招待客だったようで、私が廊下に飛び込むと同時、扉が閉められた。
背後では、剣戟の音が変わらず響いている。
ズルズルと、その場にへたりこんだ。
「ルナリア!!」
すぐに誰かが私に走りよってきた。
顔をあげなくても、見なくてもわかる。
この声は……。
「おにい、さま……」
声には涙が混ざり、嗚咽に震えた。
顔を上げると、視界はぼやけていた。
ぼやけた視界に、優しい色の髪が映る。
私と同じ、亜麻色の髪。
「っ──」
お兄様が、息を呑んだ音がする。
私の投げ出した足元には血溜まりが出来ていた。ミモザ色のドレスは血に濡れていて、レースは破け、見るも無惨だ。
お兄様はすぐに私を抱きしめてくれた。
「良かった……!本当に、良かった……!!お前が、生きていてくれて……!」
お兄様の手は震えていた。
私を抱きしめる腕の力が強くて、それにようやく実感する。
助かったのだ、と。
目元が熱くなった。
声が震える。
「っ……!!おにいさまっ……お兄様……!!」
しゃくりあげながら、私はお兄様に強く抱きついた。
お兄様もまた、私を強く抱きしめ返してくれる。
「お前が、生きていてくれて、本当に良かった……!」
心の底からそう思っているように言われて、私はまた泣き出してしまった。
(お兄様の、香り)
優しい、シトラスの香水。
汗の匂いがした。
お兄様は、公爵家の嫡男として、優雅な立ち居振る舞いを徹底するよう教育を受けてきた。
その彼の服が、汗で濡れていた。体も熱を持っている。
私を探して、走り回ってくれていたのだ。
お兄様の抱擁は痛いくらいで、でも、その痛みが心地よかった。
助かったのだと、実感できるから。
「おにい、さま……わたし……」
私は何を言おうとしたのだろう。
涙でぼやける視界の中、お兄様が顔を上げる。
お医者様を手配させるのだろう。
「抱き上げるから、少し痛むよ。頑張れるかい?」
尋ねられて、頷いた。
すぐに抱き上げられる。
痛い。
でも、私は何も言わなかった。
ただ、お兄様にしがみつく。
目線が高くなって、ぼやけた視界の中、金色が見えた。
……見つけて、しまった。
どうして、今になって見つけてしまうのだろう。
どうして、気付いてしまうのだろう。
金木犀の色。
秋の、木漏れ日の中見た、イチョウの葉の色。
その金の髪の彼が寄り添うのは──……。
「伏せていて」
お兄様が、私の頭に手を添えて、肩に押し付ける。
きっと、お兄様も見た。
私の婚約者と、王女殿下が、ふたりでいるところを。
分かっていたのに、とても。
……とても、ショックだった。
グレンは、王女殿下のそばにいたのだ。
(私は、襲われたのに……)
襲われて、撃たれて、怪我をした。
その間、グレンは王女殿下のそばにいた。
彼女の騎士だから。
それなら、私は?
私は……。
お兄様の肩に、額を押し付けた。
理由の分からない涙が、次から次に溢れて止まらない。
痛くて泣いているのか、悲しくて泣いてるのか。
お兄様が何度も何度も、頭を撫でてくれる。
その時。
今、もっとも聞きたくないひとの声を聞いた。
「ルナリア!!」
「っ……」
びく、と肩が揺れてしまう。
ひゅっと、息も呑んだかもしれない。
顔を見たくなかった。
話したくもなかった。
私ではなく、ほかの女性を選んだ婚約者。
貴族なら、臣下なら、受け入れなければならない?
(そんなの……嫌)
それが、嘘偽りない本心。
何も答えたくなくて、何も見たくなくてお兄様に縋る。
お兄様が安心させるように、背を撫でてくれた。
幼い頃、眠れない夜によくやってくれたものと同じことを。
「今更何の用だ?よく顔を見せられたものだな」
私は、お兄様のこんなに冷たい声を初めて聞いた。




