7.一歩踏み出す
【親愛なる娘 ルナリアへ。
先日は手紙をありがとう。
リハビリを頑張っていると、使用人からも聞いているよ。
先日は、エイリクと海に行ったのだってね。
ユジュの海はどうだい?とても綺麗だろう?
エリアスがことある事に『エイリクたちは今、ユジュにいるんですね……』と零すんだ。
もしかしたら、そのうちエリアスがそっちに行ってしまうかもしれない。今は難しいだろうけどね。
そうそう。
お前にふたつほど、報告があるんだよ。
まずは、お前の婚約について。
無事、解消されたよ。
そして次に、騎士殿と王女殿下の婚約の発表だ。
ローウェル公爵家としては、先方に非があると明確に宣言しても良かったのだけど、そうするとお前の今後に障りがあるかもしれない、と思ってね】
障り──私が可哀想だ、と嘲笑されて、社交界に復帰できなくなってしまう可能性のことを言っているのだろう。
『お気の毒に』と言いながら、目が笑っているひとがいることを、知っている。
『不憫ですわね』と言いながら、他人の不幸を喜ぶひとがいることを、知っている。
【可哀想】という言葉は、決して、優しくはない。
お手紙からは、お父様がとても言葉を選んでいるのが伝わってきて、目頭が熱くなる。
【だけど、もし、それでも構わないというのなら、その旨を返信して欲しい。
いつでも、準備万端だからね。
ああ、それと、少し気がかりなことがあるんだ。
ユジュの日々は変わりないかい?
使用人から報告は受けているけど、念の為の確認だ。
エイリクは筆まめではないと知ってるけど、いくらなんでも筆無精がすぎる!
時々は返信するように言っておきなさい】
お父様の手紙はまだ続いている。
王家は、今回の私の献身に深く感謝していて、私個人に報奨が与えられたということ。
ローウェル公爵家にも、新たな爵位が与えられた。
お父様は既に複数の爵位を持っているので、それが増える形になる。
私個人に与えられた領地は、小さいが、秋になると葡萄が収穫できるらしい。
ワインの名産地として有名。干しぶどうにして、スイーツにしても美味しいだろうから、落ち着いたら試すのはどうか、と書かれていた。
(献身……。報奨……)
手紙を持つ手に、知らず力が籠った。
紙の端に、皺がよる。
……私の足の怪我に、対価が与えられた。
それは何とも奇妙な気持ちで、これで一段落ついた、と安堵するような。
これで片付けられてしまった、という思いが、寂寥感を連れてくる、ような。
そんな、不思議な感覚だった。
自身の感情から目を逸らし、私は手紙の続きに視線を向ける。
お父様の手紙には、王都周りで小麦の不作が起きていることが書かれていた。
およそ王都周辺の三分の一の小麦が、赤カビ病に罹患してしまったそうだ。
ユジュの日々は変わりないか、と聞かれていたのはこのことだった。
このあたりで不作の話は聞かない。
天候も良好で、特に変わりはない。
最後の一文まで目を通した後、私は深く息を吐いた。
「──……」
知らないうちに、ずいぶん体に力が入っていた。
行儀が悪いけど、椅子の背にもたれ、体の力を抜く。
顔を上げれば、視界に天井が入ってきた。ぼんやりと、考える。
私とグレンの婚約は解消された。
そして。
(グレンと……王女殿下が)
婚約を結ぶ。
『あなたが愛しているのは王女殿下だわ』
あの言葉は、本心だった。
それを言われた時、グレンはとても驚いた顔をしていたけど──。
今、彼は何を思っているのだろう。
私は、といえば。
夜会の襲撃も、グレンと話したことも。
もう随分と昔のように感じられた。
だけど実際には、まだあの事件から二ヶ月も経っていない。
ユジュに着いてから一ヶ月。
この間、グレンを思い出すことはなかった。
リハビリに必死だったし、王都から離れたから、かしら……?
エイリクと話す時間は穏やかで、グレンのことを思い返すことはなかった。
私より、ふたつ年上の騎士。
出会いは秋。
ティーパーティーで、私と彼は出会った。
会場の奥。
目的地が明確にあったわけではないけれど、何となく気が向いて、私は奥に向かっていた。
そして、銀杏並木に出た。
一面、金色の世界。
音も、ひとも、何もかもが遠くて、呆気にとられた。黄色の世界に、魅了された。
やることもなかったので、私は風に吹かれて、ハラハラと落ちてくるイチョウの葉をじっと見つめていた。
その時だった。
『きみが、ルナリア・エヴァ・ローウェル?』
背後からいきなり話しかけられて、驚いた。
びっくりする私に、グレンが困ったように苦笑する。
この時、私は十三歳。
グレンは、十五歳だった。
『頭に、葉っぱがついてるよ』
じっとその場に佇んでいたから。
私の頭にはイチョウの葉が乗っていた。
それをグレンが取ってくれて、自然と私と彼は話すようになった。
『ここで何をしてるの?』
『紅葉が……とても綺麗だったから』
私は、幼い時は特に人見知りをする質で、たどたどしく答えた。知らないひとと話すことに慣れていなくて、なかなか言葉が出てこなかったり、詰まったりしたけど、グレンは決して急かすことも、嫌な顔をすることもなかった。
『この先に、もっと綺麗な場所があるんだ。金木犀が、綺麗なんだよ』
──そういえば。
あの会場は、ウィンザー公爵家の庭園だった。
だから、グレンは場所に詳しかったのだろう。
初対面の相手の手を取ることに躊躇していると、目を丸くしたグレンが微笑んで言った。まるで、幼い子供に言って聞かせるように。
『俺はグレン・ソルシエ・ウィンザー。ウィンザー公爵家の嫡男で……ほら、これを見れば信用出来る?』
彼は、胸元のブローチを私に見せた。
それは確かに、ウィンザー公爵家の家紋が描かれていて──。
手を取ると、グレンは楽しそうに笑った。
よく出来ました、というように。
『よし、じゃあ行こうか!』
あの時の記憶は鮮烈で、強烈だった。
家族以外とあまり話すことのなかった私が、初めて話した、外の世界のひと。
私にとってグレンは、優しいお兄さん。
憧れの……眩しいひと。
ゆっくり、過去の気持ちを紐解く。
今更かもしれないけど、今だからこそ、過去の気持ちと向き合う必要がある、と思った。
グレンとのことを、完全に、過去にするために。
そして、気が付いた。
なぜ、初対面のグレンに親近感を抱いたのか。
恐れることなく、彼の手を取れたのか。
ようやく、その理由に思い至った。
初めて会った時のグレンは……お兄様に、少し似ていた。
その立ち居振る舞い。
私を、導いてくれるひとの、手。
このひとについていけば大丈夫だと、思わせるような安心感。
そこに、お兄様との共通点を見出した。
彼に、年の離れた弟がいると教えられたのも、理由のひとつかもしれない。
それに、私はきっと絆された。
(……こんなこと、お兄様には口が裂けても言えないわね)
苦く笑って、私は目まつ毛を伏せた。
妙に納得した。
きっと私は最初──グレンを、恋慕う相手として、惹かれたわけではなかった。
ただ、憧れていた。
想いを告げられて、私もそう思うようになった。
好きと言われて、恋をした。
鮮やかに色付いたのは、あの日。
好きだと言われて、親愛は、恋愛に変わった。
今までのことを思えば、やはりグレンには……。祝福を願えない。
幸せに、とは言えない。
だけど不幸になってほしいのかと聞かれたら、それも返答に困る。
ひとつだけ明確なことは、これからの人生。
彼は、私に関わりのないところで、生きて欲しいと思った。
私は、返信用の便箋を引き出しから取り出した。
万年筆を手に取って、お父様への返信を書き始める。
……後で、エイリクにもお手紙を書くように伝えないと。
翌々日。
九月も終わりの週に入って、ずいぶん過ごしやすい。
ユジュは南にあるから、毎年酷い暑さだと聞いて覚悟していたけど、幸運にも今年はそこまで酷暑にならなかったようだ。
朝、トロテさんに恒例の挨拶をしたあと、彼女がホッとしたように笑っていた。
「今年の夏は、本当に涼しやすいねぇ!うちのひとも喜んでるよ。野菜も果物も豊作だから、今年の夏は、安く果物や野菜が手に入るよ」
トロテさんのご主人は、お店をやっている。毎年の夏の暑さには、頭を悩ませていたそうだ。
私はその後、今日も海辺に行った。
そこで、先客がいることに気が付いた。
(ユジュのひと……?)
その男性は、白に近い金髪に、目の色は伏せているから分からない。
砂浜では歩きにくいだろうに、丈の長いローブを着込んでいる。
彼のその手には、ブーケがあった。
向日葵のブーケだ。何輪束ねられているのか、それはとても大きくて、迫力がある。
男性の邪魔をしないように、私はそのひとから離れた場所に腰を下ろした。
今日も、カティアとローラ。そして、気付かれない位置に、騎士たちが控えている。
ここで、エイリク以外の誰かに出会うのは珍しかった。
男性はずっと、俯いていた。
私のようになにか、考え事をしているのかしら……。
すぐに、私の意識は目の前の波音へと向けられる。
グレンと王女殿下の婚約が発表されたことで、遠かった現実が、戻ってきた。
考えなければならないことを思い出した。
(これから……どうしよう?)
どうなるのだろう?
私は、どうしたいのだろう。
考えて、俯く。
ざぁん……ざぁん……と、ゆっくりとした波音が聞こえてくる。
そっと、目を閉じた。
閉ざされた視界の中、波音だけが聞こえてくる。
いつまでも、過去に囚われているわけにはいかない。
『ルナリア。お前には選択肢があるんだよ。お前には、未来があるんだ』
お兄様の言葉を思い出す。
そっと、目を開けて。
私は足元の砂浜に、意味もなく、線を描く。
何から始めればいいかわからない。
一歩、踏み出すための足をあげても、下ろす場所が分からない。
でも、まずは。
できることから。
(……お兄様に、お願いしてみましょう)
お兄様のお友達と、お手紙のやり取りをしてみよう。
そのひとに抱く思いが、友愛になるのか、恋愛になるのかはまだ分からない。
お兄様もお父様も、私の政略結婚は求めてないから、私は私の意思で、結婚相手を選ばなければならない。
それはとても有難いことで……同時に、選択肢が無数にあるがために、困惑しているのもまた、事実だった。
その時、ふと、波音以外の音が聞こえた。
顔を上げると、男のひとはまだいた。
そのひとは、手に持っていた大きな向日葵の花束を、ゆっくりと海に流した。
今の音は、花束をまとめるラッピングペーパーが擦れた音だったのだ。
「──……」
男のひとは、なにか呟いたようだった。
だけどそれも、波に攫われていく。
やがて、花束が見えなくなると、ようやく、彼は細く息を吐いた。
そして。
ばちり、と目が合ってしまった。
紺色の瞳。彼はわずかに目を見開いた。
ここに、ひとがいると思わなかったのだろう。
ぺこ、と彼は頭を下げると、そのまま去っていった。
「…………」
海に、花束を流す……というよりも、贈っているように見えた。
(ユジュでは……海に花束を流す風習があるのかしら……)
あとで、トロテさんに聞いてみよう。




