6.ただの平民
叔父様への挨拶を終えて、食事を一緒に摂って。
翌日、私とエイリクはユジュの別邸に向かった。
公爵家から連れてきた私兵もいるけど、叔父様が新たにつけてくれた騎士もいて、結構な大所帯となっていた。
『なんだかこういうの、新鮮ですね』とふたりきりの食事でエイリクが珍しそうに言っていた。
夕食は、海の幸をふんだんに使った魚介スープ。ホタテやアワビ、アサリといった貝ものに、エビやウニが乗っている。
一口食べたエイリクが、感動のあまり打ち震えていた。
「僕……!一生ユジュにいます」
「一生は難しいと思うわ。でも……本当に美味しい」
正直、あの事件以来、あまり食欲はなかったのだけど、この魚介のスープはとても美味しい。
いつも以上にいただいてしまっている。
ついついスプーンを持つ手が進んでしまい、メインディッシュであるお魚とアクアパッツァが運ばれてくる頃には、だいぶ満腹になってしまっていた。
「これも美味しいです!」
「ふふ、良かった」
「姉上、これは食べましたか?すごい、美味しいですよ……!」
単語で区切って、エイリクが感嘆するように言った。
エイリクは、すごいわ。
先程から、私の倍以上は食べているだろうに、まだその手は止まらない。デザートもぺろりと平らげて、流石にエイリクは苦しそうに言った。
「食べすぎました……」
「美味しかったわね」
「はい。兄上は来られなくて残念でしたね?」
「今度は、お兄様も一緒に来ましょう?」
誘うと、エイリクは目を輝かせて答えた。
「はいっ!!」
どうやら、よっぽど別邸での食事が気に入ったみたい。
ユジュの別邸に到着してから、一ヶ月。
九月も後半になると、昼間は暑くとも、夕方は過ごしやすくなってきた。並行して、私はリハビリを進めている、のだけど……。
「っ……!」
少しでも、気を弛めると、転倒してしまう。
代足杖無しでは歩くことは叶わずとも、壁に手をついていれば、何とかバランスを保てるようにまではなった。
公爵邸から同行してくれた侍女のカティアと、ローズ。彼女たちは、クラリスの同僚だ。
廊下に倒れ込んでしまった私の元にしゃがみこみ、カティアが励ましてくれる。
「凄いですわ、お嬢様!この前より長く立っておられました!」
「そう……かしら。本当は、もっと……」
もう少し、長く立っていたい。
早く、歩けるようになりたい。
気持ちばかりが逸って、結果が伴わない。
焦る私にローズが笑いかけた。
「ゆっくりでよろしいのです。着実に、少しずつ、お嬢様が立てる時間は長くなっておりますわ。あまり、根を詰めすぎては、かえって良くありません。代足杖をお持ちしましたので、装着しますね」
「……ええ」
「大丈夫ですわ、お嬢様。代足杖を着ければ、少しずつ歩けるではありませんか。何も、焦る必要はありません。坊っちゃまも仰っていたでしょう。バカンスだと思って、楽しもう、と」
カティアの励ましに、私は苦笑した。
ユジュの別邸に到着して数日すると、エイリクの指輪のレッスンが始まった。
エイリクは毎日のようにユジュの鉱山に足を運んでいる。
『もうだめです、姉上~~~~!!僕は指輪に嫌われているのかもしれません』
と、先日エイリクはソファに突っ伏していた。
相当、大変なのだと思う。
そして私は、代足杖が無ければ歩くことは叶わずとも、壁に手をついてなら。何かを掴んで体を支えられる状態なら。
十秒は立つことができるようになっていた。
最初は、三秒も持たなかった。
上手く体重を、足で支えられない。
力が入らなくて、その場に崩れ落ちるように座り込んでしまうのだ。
だけど今は、十秒。
十秒だけ、以前のように、貴族の娘としての立ち姿を保つことが出来る。
「今日も、海辺に向かわれますか?」
カティアに聞かれて、私は頷いて答えた。
代足杖があれば、ゆっくりにはなるけれど、歩くことが出来る。
だけど、それも二、三時間のみしか継続しない。
魔石には潤沢な魔力が込められているのだけど、代足杖の消費魔力が多すぎるのだ。
起動して二、三時間で魔力切れを起こすので、その度に魔石の交換が必要となる。
そういった理由もあって、代足杖はとても高価なものだった。
それに、代足杖を着けていても、歩行した翌日は、患部が熱を持ってしまう。
じわじわと熱のように蝕む痛みは、歯を食いしばっても耐えることが難しくて、ユジュの別邸に着いてすぐの頃は、何度もベッドに籠ることになった。
だけど少しずつ体が慣れて──体を慣らして。
数日に一回の間隔が、やがて、二日に一回に。
その頻度で、私は海辺に繰り出すようになっていた。
リハビリは自分との戦いだった。
もう休みたい、もう無理だ、と力を抜こうとする体を叱咤して、意識して足に力を入れる。体は震えたし、苦しくて汗が吹き出した。
以前は、簡単にできたこと。
今はこんなにも……難しい。
別邸は、街の丘にあって、海に行くには、坂道を下らなければならない。
最初は、おぼつかない足で坂道を歩くのはとても不安があった。
だけどそれも少しずつ慣れてくる。
今日も、カティアとローラを伴って、ゆっくりと坂道を降りる。
途中で、ユジュの住人であるトロテさんと会った。トロテさんは、坂の途中の家に住んでいるひとで、朝は花壇の水やりのために家を出るのだ。
海辺に降りる際、何度か顔を合わせて、最初は挨拶から。やがて、少しだけ立ち話もするようになった。
トロテさんが私に気がついて、笑いかけてくれる。
「おや、丘の上のお嬢様。今日も、海に行くのかい?」
「おはようございます、トロテさん。……はい」
毎日のように、私は海辺に行っている。
それを知られていることが照れくさくて、はにかんで答える。トロテさんは楽しげに笑った。
浜辺に座り、ただ、ひたすら。
海を見つめるのだ。
何をすることなく、何を考えることなく。
波音を聞いて、潮風に煽られる。
海の向こうは、隣国のベルフォール国がある。
この、水平線の先に王国があるのだと思うと、なんだか不思議な気持ちで、それと同じくらい、波音にこころが癒された。
考え事がまとまるような、思考が整理されるような。不思議な感覚だった。
私が答えると、トロテさんが腰のエプロンに手を当てて快活に言った。
「そうかいそうかい!それなら、これを持っていきなさい。今日は、日差しが強いからね」
トロテさんは一度家の中に引っ込んだかと思えば、ふたたび戻ってきた。
その手には、麦わら帽子が握られている。
「これは……?」
「帽子だよ。お嬢様、せっかく綺麗な肌をしているんだ。今日の日差しはちと、きついからね」
そのまま、有無を言わさずトロテさんは私に帽子を被せた。
これは、彼女の愛用品か、あるいは、長く使ってきたものなのだろう。
編み目から、大麦の茎が何本か突き出していてる。それが頭に刺さって少しチクチクするけど、トロテさんの気持ちが嬉しくて私はお礼を言った。
「ありがとうございます。お借りしますね」
本当は、侍女がパラソルを用意しているから、麦わら帽子は必要なかった。
でも、私はトロテさんの麦わら帽子を借りた。
彼女の気持ちが、嬉しかったから。好意に甘えることにしたのだ。
風が強く吹いて、麦わら帽子が飛ばされないようにツバをしっかり抑える。
そのまま、私はゆっくり坂道を降りていった。
ざぁ、と抜ける風は生ぬるくて、まだ、夏の中にあることを私に伝えてきた。
「姉上!」
顔を上げると、エイリクが坂道を駆け下りてきた。
今日、エイリクの指輪のレッスンはお休みだ。
休みの日だから、と、エイリクは二度寝を決め込んでいた。
恐らく、先程起きたのだろう。
まだ少し、後ろ頭の毛が跳ねている。
手ぐしで整えてやると、走ったせいでまだ息が荒いエイリクが「ありがとうございます」と照れたように笑った。
ユジュでの暮らしは、想像以上に穏やかで、落ち着いていた。
共に歩きながら、エイリクがぼやく。
「もう本当、嫌になっちゃいますよ。父上と兄上も、同じ先生から教えを受けたらしいんですけど。あの先生、すっごい感覚派。何ですか、あれ?絶対先生は、あの教えでやれって言われてもできないと思うんですよね。『兄上はこれで出来ましたよ!』とか言われても、僕、兄上じゃないし。『もっと他のやり方ないんですか?』って聞いたら、なんか、もう、すごい怒っちゃって。毎日ディベートの日々ですよ」
本当にお疲れのようで、深いため息を吐きながら、エイリクが日々の愚痴を次から次に口にする。
「お父様とお兄様も、その先生から教えを受けたの?」
「そうそう。あんまりな言いようだから僕も頭きて『じゃあ先生やってみてくださいよ!』って言ったら、余計に怒られて……」
「それは……。先生も困ったのではない?」
「僕はもっと困ってますよ……!」
エイリクは断言するように言った。
苦々しい表情をしているあたり、エイリクも本当に苦心しているのだろう。
私はそっと、中指に填る指輪に触れた。
この指輪は、ローウェル公爵家の直系であることを示すもの。
それ以外の人間が指を通すことはもちろん、この指輪の意味を知った今。それを使うことは許されないと知っている。
売り言葉に買い言葉だったのだろう。エイリクは深いため息を吐いた。
エイリクの教師は確か、七十近かったはず。
女性の講師で、代々ローウェル公爵家に伝わる文献を参考に、教えを説いているらしい。
お名前は……ええと。
「ライアン先生。先日、体調を崩されたって聞いたわ。大丈夫なの?」
「あー……僕があんまりに不出来な生徒だから、倒れちゃったんですよ……。昨日お見舞いに行きましたし、先生も問題ないとは言っていたんですけど……」
気まずそうにエイリクは言った。
それから、真剣な顔をして私を見る。
自分の中指に填る指輪を、反対の指で触れて、私に尋ねてきた。
「本当にこれ、本物なのかなぁ」
「えっ?」
「僕だけ偽物が渡されてるとか、ないですか?」
そして、真剣な顔で突拍子もないことを聞いてくる。エイリクの質問に、私は目を瞬かせた。
それから、ようやく答える。
「そ……れはないんじゃないかしら?だって、煌めいてるもの。これは祝石よ」
エイリクの手を取って、その中指に嵌る指輪を見る。確かにそれは、見間違いかと思うほど僅かだけど──私の持つ祝石と同じような揺れる煌めきがあった。
エイリクも、本心ではないのだろう。肩を落とした。
「じゃあやっぱり、僕が不出来なんですね……」
それから深く、ため息を吐く。
「僕、次男でよかったです…………」
「エイリク?」
「兄上は本当にすごいですよ。僕が兄上の立場なら絶対逃げ出してますから。二番目で良かったぁ…………」
あまりにしみじみ言うので、思わず苦笑する。
「お兄様もきっと、苦労したのではないかしら」
この指輪の練習は、本来、嫡子が四歳を迎えたと同時に始めるものらしい。
お兄様は三歳の時に始めた。
もちろんその時、私もエイリクも生まれていないから、私たちはお兄様がどれほど苦労したのか知らない。
私が言うと、エイリクはまた苦々しげな顔になった。
「うーん。既に逃げ出したいくらい苦手ですし、向いてないと思うんですけど……。とりあえず、もうちょっと精進します……」
「頑張って、エイリク。私も頑張るから」
励ますと、エイリクは私の言葉に思い出したのだろう。
私もまた、祝石の力を使う練習をしていることを。
私は、公爵邸を出る際、お兄様に言われたことがあった。
馬車に乗り込む前、お兄様は言った。
『ルナリア。お前の祝石が狙われていることを、お前も知っているね?もし、次──また、お前が襲われたら。叔父上も、父上も、僕だって、お前を守ろうとするし、守りたいと思う。だけど、それは確実ではない。だからお前にも自衛手段として、これの使い方を学んで欲しいんだ』
お兄様は、私の首からチェーンネックレスを手繰り、祝石を取り出した。
『ゆっくりで構わない。焦らなくていいから。エイリクと一緒に、練習しておいで』
そう言われて、私はユジュの別邸についてから毎日、祝石に意識を集中している。
だけど結果は、あまり芳しくない。
苦笑を浮かべて、私は胸元に触れた。
服越しに祝石を抑えながら、エイリクに言う。
「使えるようにならないと……って思ってるのだけど、難しいの。これについてはあまり文献も残っていないみたいで。どうすればいいのか、さっぱりだわ」
「僕以上に難問、ということですね。僕に、何か出来ることはありますか?」
エイリクが尋ねてきたので、私は微笑んで答えた。
「ありがとう。でももう少し、ひとりで頑張ってみるわ」
そうしているうちに、海辺が見えてきた。
海面を、夏の日差しが照らしている。キラキラと反射して、眩しい。麦わら帽子を抑えると、エイリクが今気付いた、と言わんばかりに私の頭を見る。
「姉上、それは?」
「トロテさんが貸してくれたの」
「へえ。姉上って麦わら帽子、すごく似合いますね」
「そうかしら?……ふふ、嬉しい」
今までも、エイリクにはドレスや小物を褒めてもらったことが何度もある。
だけど、麦わら帽子が似合うと言われたのは……今までのどのドレスや小物を褒められた時より、嬉しかった。
この街の住人は、私がローウェル公爵家の娘だと知らない。
ローウェル公爵家の娘のルナリア・エヴァ・ローウェルは、王都の別邸で寝込んでいることになっているからだ。
私は、叔父様の奥様──ヘレナ叔母様の遠い親戚ということになっていて、療養のため、ここを訪ねている筋書きになっている。
ここでの私は、ただの平民だ。
波打ち際で、水をすくう。すくった水はあっという間に手のひらから零れていき、無くなった。
「姉上、海、冷たいですよ!」
顔を上げれば、既にエイリクは、靴と靴下を脱いで、足を海につけていた。
ここには、私たちを知る人間はいない。
だからか、エイリクはいつも以上に楽しそうだ。パシャパシャと水を蹴って遊んでいる。
「懐かしいです。僕、昔こうやってよく遊んでましたよね?」
エイリクは手頃な石を拾うと、それを海面に放った。
石は、何回かバウンドして、海面に波紋を描いて飛んでいく。見事な腕前だ。
座り込んで見つめていると「ほら姉上も!」と石を渡された。……けれど、私にその手の才能はなかったみたい。
放った石は呆気なく、海の底に沈んでいく。
「む、難しいわ……」
「そんな難しく考えることないですよ!ほら、こうやって……」
エイリクの投げ方を見よう見まねで真似するも、やはり私が投げた石はことごとく沈んでいく。センスがないのかしら……と若干凹んだけど、エイリクが楽しそうに笑っているから、それで良かった。
翌週、お父様からお手紙が届いた。
手紙を読んで、驚きに息を呑む。
なぜならそこには、私とグレンの婚約解消と──グレンと王女殿下の婚約。
そのふたつが同時に発表された旨が、書かれていたから。




