9.確認 【前】
目が覚めて、お医者様の言葉を聞いて。
感じたのは、絶望と後悔だった。
絶望は、もう以前のように歩けないかもしれない、という可能性に。
後悔は、お兄様を、お母様を、お父様を、そしてエイリクを。侍女たちを、こんなにも悲しませてしまったことに。
あの時、私はどうすべきだったのだろう?
答えは出ない。
考えても、考えても。
光の見えない暗闇を彷徨うように、答えは見つけられなかった。
お医者様の診察を受けて、お父様から城での事情を聞かれる。
お父様がとても、とてもこころを砕いてくださったのが分かるから、私もできるだけ、事実を口にしようとした。
私はグレンと一緒にいた。
あの時。爆発が起きた時。
グレンは、周囲を警戒し、職務を果たすために……
「……突然、爆発が起きたの。私がひとりだったのは……グ、レンが」
こころの中で考える分には問題がなかったのに、それを口にした途端、指が震えた。
その震えは、指から手に、腕に、体に、伝わって。
さぁ、と血の気が引くのが自分でもわかった。よく分からない動揺に呑まれて、視界が歪む。
気がつけば、私はお兄様に支えられて、深く息を吐くように言われているところだった。
お医者様がすぐ呼ばれて、診察を受ける。
診断は、過呼吸。
(驚いたわ……)
我ながら、どうしてだろう。他人事のように見てしまう。
こんなにも過剰反応すると思わなかった。
私はまだ、グレンが好きなの?
だから、こんなにも反応をしてしまうの……?
その可能性を考えて、ゾッとした。
身震いする。
(……違う)
私が、グレンの名を口にして、恐怖を覚えるのは。
怖い、と思ってしまうのは──。
あれは、二回目の爆発が起きた時のことだった。
彼の服の裾を、縋るように持っていた。
だけど、爆発が起きて、バランスを崩して、転んでしまったの。
『グ、グレン……きゃあっ!?』
『きみは、兄君のところにいるんだ。いいね?』
『待っ……待って。どこに、行くの?』
『俺は、アルセリアを見てくる。敵の狙いはアルセリアかもしれない。急いでるんだ』
『待って……!!』
私の言葉は、いつだって聞き届けられない。
名前を呼んでも、彼は私を見ない。
振り返ることは、しない。
私が見るのはいつだって、グレンの後ろ姿だった。
アフターヌーンティーでも、パーティーでも。
あの、事件の時だってそう。
名前を呼んでも、応えてもらえないのなら。
呼ぶことに、何の意味があるのだろう?
『待って……!!』
私の声は、いつだって届かない。
その後──その後のことは。
……思い出したくない。
思い出したくない、という強い思いが、きっと、強い拒否反応を呼び起こした。
お父様も、お兄様も、そんな私の反応に、愕然としているようだった。
驚かせてしまっている。悲しませてしまっている。
私は、自分の足が──以前のように動かすことは難しいかもしれない、と聞いて。
それ以上に、それを悲しむ家族を見ることの方が、よっぽど辛かった。
「ごめん、なさい。不甲斐ない妹で、ごめんなさいっ……!!」
この婚約は、私が、自分の意思でお父様にお願いしたものだ。
お父様に、聞かれたのに。
グレンは信頼出来るひとか、って。
それに私は答えたの。
グレンは信頼出来るひとよ、って。
その時は、確かに信じていた。
信じられた。
だけど結果的に、私の答えは誤りになってしまった。
婚約を認めたお父様は、その選択を悔やんでいる。
誰よりもそばで私を見ていたお兄様は、苦しそうだった。
エイリクは、何も知らなかったから。
ただただ、驚かせてしまっている。
これが、エイリクのトラウマになったら……。
そうならないように。
そうは、なりませんように。
もし、そうなったら。
私はどう責任を取ればいいのだろう?
謝っても、謝りきれない。
お母様にも、とても心労をかけてしまった。
お母様の頬の輪郭は、まるで、病人のようにこそげ落ちていた。
クマもできていて、とても、とても心配させてしまったのだと理解した。
ごめんなさい。
私が、私が、至らない娘だったから。
私が……もっと、ちゃんとしていれば。
たとえば……。
私にできることは、何があった?
あの事件が起きた時。
すぐに逃げるべきだった?
お父様にお願いして、護衛をつけてもらうべきだった?
どちらも現実的ではない。
だって、敵の狙いは私だった。
逃げようとしても、きっと見つかっていた。
護衛だって、グレンがいるのにお願いできるはずがない。
それでも、考えてしまう。
私がもっと、賢くて、器量が良くて、気立てのいい娘だったなら。
こんなことにも、なっていなかったのではないか、って。
お兄様は私が謝るのをずっと静かに聞いていた。
その手があまりにも優しくて、労りに満ちていて。また私は泣いてしまった。
「僕は、ルナリアが大好きだ。ルナリアは?」
そんなの、決まっていた。
私だって。私の方が、ずっと。
私はお兄様の服を強く、強く握りしめた。
外の香りがする。きっと、先程外出から帰ったばかりなのだろう。
「私も……私も、お兄様が、好き」
酷い鼻声だった。洟も出て、シャツについてしまったかもしれない。額を押し付けると、お兄様が頭を撫でてくれる。
大好きなお兄様。
優しくて、視野が広くて、思いやりに満ちていて。気位が高いこのひとは、実は、懐に入れたひとに対してのみ、とても情熱的だということを、妹の私は知っている。
「ルナリア。……海に行かないかい?」
ふと、お兄様は突然そんな提案をした。
目を瞬く私に、お兄様が優しく笑う。
「ローウェル公爵家が所有するユジュの別邸。南の方にあるだろう?お前、好きだったじゃないか。海が綺麗で、よく水遊びをしたろう?……昔はよく行ったものだね」
ユジュの別邸。とても、懐かしかった。
幼い頃は、よく行った。幼い私とエイリクを見守るのは、いつだってお兄様だった。
グレンが、邸を訪れているらしい。
それを知った時、驚きに息が詰まった。
「ご歓談中、失礼いたします。……坊っちゃま。ご子息様ですが、本日も」
執事が、私を見ることなくお兄様に報告する。
私のためだろう。それは、さり気なさを装った報告だったけど、分かってしまった。
どうして、こんな時だけ気がついてしまうのだろう。
金木犀の香り。
目が覚めてからは、まだしていない。
だけど──グレンを見たら。会ったら。
また、香りがして、しまうのかもしれない。
手は震えた。
お兄様は、ひとつ頷いただけで、何も言わない。
応対する気はない、ということだろう。
私とグレンの婚約は、解消に向けて話を進めているとお父様が教えてくれた。
このまま、私はグレンとの婚約を解消するのだろう。
そして、きっと、私はグレンではないひとと、婚約し、結婚する。
この足で、ふたたび婚約を望めるかは分からなかった。
だけどそれでも、私はこの傷を背負ったまま、生きていく。
お医者様に言われた通り、患部は夜になると痛みだし、熱を持った。
まだ、傷が塞がりきっていないので、歩く許可は出ていない。
グレンとの、婚約を解消して。
彼を忘れて、生きていく。
それで、いいの?
……何も、話さないままで、いいの?
ちゃんと、私の言いたいこと。言えた?
話したいことが、あるのではない?
そこまで考えた時、私は意識するよりも先に、お兄様に言っていた。
「私……会うわ。彼に」
お兄様は、唖然とした顔をした。
どうして、とその顔には書かれていたし、そのようにお兄様も尋ねてきた。
それに、苦く笑う。
グレンに想いを残しているわけじゃない。
違う。違うの。
最後に、話をすべきだと思ったの。
婚約が、当主間で解消されるのだとしても。
お互いに、一度話した方がいい。
互いに、蟠りを無くして、今後──未来を、見るために。ちゃんと、関係を精算するために。
終わらせる、ために。
(でも……本当は、怖い)
また、以前のように口論になってしまったら。
『何それ?察してほしかったってわけ?』
グレンのその言葉は、鋭く私の胸を穿った。
彼と話していると、何が何だか分からなくなってしまう。
傷つくのに脅えて、本題を見失ってしまう。
だから……だから、お兄様に、そばにいてほしかった。
そうすれば、少しは、勇気を持てるから。
話す勇気。向き合う覚悟。震える手を抑えるように強く拳を握る。
お兄様は、だめだ、とは言わなかった。
お兄様に、応接室に連れて行ってもらって、紅茶が運ばれる。
準備が整ってから、グレンが呼ばれる。
それまで彼は、玄関ホールで待っていたらしい。本来、公爵家の子息相手にそんな無礼はしない。
だけど、お兄様は、待たせても構わないと判断したのだろう。
執事がグレンを呼びに行き、ついにその時になった。
「…………」
はぁ、と吐いた息は震えていた。
胸元を、手で掴む。
心臓が驚くほど音を立てていた。
私ではなく、ほかの女性を選んだ婚約者。
経緯はどうあれ、それは事実だった。
そしてその事実が、私のこころを重たくさせる。
気がつくと、俯いてしまいそうだったので、意識して顔を上げる。
(大丈夫、大丈夫。落ち着いて。ゆっくり、話すのよ)
靴音が響き、足音が近づいてくる。
呼吸の間隔が短くなって、自分でも緊張しているのだと気がついた。
(息を、吐いて。吸って)
お医者様に言われたとおり、お腹の底から息を吸うようなイメージで。
でも、手は震えてしまう。
……怖い。
会いたく、ない。
今更、会って、何を話せば?
だんだん、会うという選択をしたことを悔やんでしまいそうになる。
やっぱり、嫌──そんなの、言えるはずがなかったし、言うつもりもない。
どうしよう。怖い。
会いたくない。
思い出してしまう。
だって、あなたは。
あなたはあの時。王女殿下は。
意味を成さない単語ばかり頭の中を過っていく。
カタカタと手が震えた時、そっと、手にぬくもりを感じた。
ハッとして、見れば、それはお兄様の手だった。
……そうだわ。隣には、お兄様がいるのだった。
前とは、違う。
今は、お兄様がいてくださる。
そして、侍女も。
ここは邸で、私はひとりではない。
それを自覚すると、緊張に強ばったこころが少し、緩む気がした。
ちょうどその時、扉がノックされた。
「お客様をお連れしました」
執事が扉を開けて、入室したのは私の婚約者。
小麦色の髪に、翠の瞳。
彼は部屋を見渡して、私を見るとホッとしたように息を吐いた。
それに──私は、どうしてだろう。
「…………?」
想像よりも、予想よりもずっと、ずっと、落ち着いていた。
緊張と動揺が行き過ぎて、返って落ち着いてしまったのかしら……?
自分でも、困惑した。
グレンが対面の席に座る。
お兄様がすかさず言った。
「ルナリアはまだ本調子ではない。五分で退室して欲しい」
「みっ……短くないか!?それにどうして、きみがいる?俺は」
「黙れ。文句を言うなら、帰って構わない」
お兄様がピシャリと言うと、グレンは黙った。




