7.再来 【エリアス】
父上と、ウィンザー公爵の話し合いがあった翌日。
ようやくルナリアが目を覚ました。
あの事件から、三日が経過していた。
母上は、二日ずっとルナリアについていた。
だからあまり寝ていない。エイリクと父上に、少しでも寝た方がいいと勧めを受けて、母上が寝室に行った。その、直後のことだった。
カーテンから零れる朝の日差しで目を覚ましたのだろう。ルナリアの瞼が震えた。
「ん、んぅ……ん……?」
ゆっくりと、まつ毛が持ち上がる。現れたのは、僕とエイリク、そして母上と同じはちみつ色の瞳。
目が覚めたルナリアは少し、ぼうっとしているようだった。
「姉上……!?」
「ルナリア……!」
すぐに僕とエイリクが呼びかける。
ルナリアは、何度か瞬きを繰り返した。
「エイリク……?お兄、様……?ここは……」
状況が分からず困惑しているようだ。
ルナリアは眉を下げ、視線を巡らせる。
そこで僕と目が合ったので、僕はにこりとルナリアに笑いかけた。
「おはよう、ルナリア」
「おはよう……ございます」
ルナリアは困惑しているようだった。
だから、僕は言葉を紡いだ。
彼女が嫌な記憶を思い出してしまう、前に。
「食欲はある?何か食べられそうかな。食べたいものがあるなら、なんでも言ってごらん?」
「お兄様……。私──」
ルナリアは何か言いかけて、ハッとしたように息を呑んだ。
「……ぁ……」
はちみつ色の瞳が見開かれる。
信じられないものを、見てしまったかのように。
その様子に、僕はルナリアが思い出してしまったことを知った。
王城で起きた出来事について。
夜会で起きた、襲撃事件について。
すぐに、ルナリアの顔は血の気がひいていった。
くちびるが強ばり、震えている。
ここではないどこかを見て、ルナリアは怯えていた。
そんな妹の頭を、撫でた。
ここはローウェル公爵家の邸だ。
王城ではないのだと、教えるように。
ここには、僕だけじゃない。エイリクも、母上も、父上もいる。
汗をかいてしまったために、ルナリアの髪は、少ししっとりしていた。
熱がないなら、まずは湯浴みかな。
「ルナリア。まずは自分の体調のことを考えて。食欲はある?湯浴みはできそうかい?」
湯浴み、というとルナリアは目をぱちぱちと瞬かせた。それから、首を傾げる。
「湯浴み……?お兄様。私は、どれくらい眠っていたの?」
寝起きのために、その声は細い。
だけどそれだけのせいではないだろう。
その瞳も、不安そうに揺れていた。
「まる二日ってところかな。お前は高熱を出して、寝込んでいたんだよ」
「二日も……!?」
ルナリアが目を見開いた。
やはり、この二日。ルナリア本人に意識はなかったらしい。
後は、控えていた侍女にルナリアを託し、エイリクと共に部屋を出た。
「……兄上」
エイリクの声は震えていた。
その肩を、何度か叩く。
気持ちは、同じだった。
「ルナリアが目を覚ました。父上と、母上に報告をしなければね」
そう言った僕の声もまた、少し震えていた。
目が覚めたルナリアは、グレンの話を一度もしなかった。
彼の名が、会話に登ることもまた、なかった。
だけど、今後のことは早めに考えなければならない。
父上は婚約を解消させると言っている。僕もそうすべきだと思っているし、もうルナリアとあいつを会わせる気もなかった。
だけど、ルナリアの意思の確認は必要だ。
もし、ルナリアがまたグレンと会いたいと。
グレンを許すと言ったら、彼女の意志もまた、尊重しなければならないだろう。
婚約を継続するかどうかは、また別として。
グレンを許す。
……それは、僕には絶対にできそうにないことだった。
許せない。
……許せないんだ。
僕は自分を落ち着かせるように、深く息を吐く。
それから、目が赤いエイリクに尋ねた。
「朝食は、ルナリアの部屋に運ばせる予定だけど。お前も一緒に食べるかい?」
エイリクに尋ねると、十一個下の弟は、こくりと力強く頷いた。
☆
医者がすぐに呼ばれ、ルナリアの診察が始まる。
やはり、足の傷は深く、後遺症が残ると言われた。
それに、ルナリアは何も言わなかった。顔色は悪かったが、それはこの話を聞いたからなのか。
あるいは、依然として体調が悪いせいなのか。
ルナリアは起きてからずっと、その顔色が紙のように白い。
それを見る度に、僕は胸が痛くなる。
どうしても、思い出してしまうからだ。
『お兄様。これとこれなら、どっちの方がお肌が白く見えるかしら!?やっぱり、こっち?でもあまり白すぎるのも、怖いわよね……?』
そう言って、薔薇色の頬で幸せそうに笑っていた娘は、もういない。
「まずは、リハビリから始めてみましょう。……恐らく、強い痛みを伴います。こればかりは、ご令嬢がどこまで頑張れるか……」
「頑張ります。どうか、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします」
ルナリアはそれだけ言って、ベッドの上で頭を下げた。
結われていない栗色の髪が、ルナリアの肩を滑る。
だからその時、ルナリアがどんな顔をしていたのか、僕は知らない。
まだ患部は熱を持っていて、ルナリアも完全に体調が回復したわけではない。
昼になると微熱が出てきて、夜になるとそれは高熱に変わった。
母上が水で濡らした手巾を、ルナリアの額に乗せる。
「こうしていると、ルナリアが小さかった頃のことを思い出すわ」
母上は、ルナリアが眠っていた時のような弱さは見せなかった。
泣かなかったし、落ち込む素振りも見せない。
ただ、ルナリアを安心させるように微笑んで、その頭を撫でている。
「昔のあなたはとっても泣き虫だったのよ?覚えてる?」
「お母様ったら。いつの話をしているの?それにもう、私はそんなに弱くないわ」
苦笑してルナリアが抗議する。
弱くはない。
……そうだね。ルナリア。
お前は、事件が起きたあの日の夜、久しぶりに涙を見せたね。
久しぶりに、僕は妹があんなに泣きじゃくる姿を見たんだ。
だけど、ルナリアは目が覚めてから、一度も泣いていない。
もう、以前のように歩くことは難しいかもしれない、と医者に残酷な現実を教えられた時も。
ルナリアは真っ直ぐ医者を見つめていた。
毅然としていたんだ。
きっと、ショックだったろうに。
とても、悲しかっただろうに。
「……お母様。私、頑張るわ」
まつ毛を伏せ、目を閉じながら、ルナリアが母上に言う。
何を、頑張るって言うんだ?
もう散々、ルナリアは頑張ってきたじゃないか。
父上に宣言した通り、グレンとの婚約が決まった後。
彼女は苦手だと言っていた裁縫も、ダンスも、精力的に励むようになった。
それは、教育係が目を見張るほどの変化だったのだ。
何度も、ダンスの練習相手に誘われた。
それは僕が「もう十分なんじゃない?」と苦笑を零すほど。
ルナリアは、頑張っていたんだ。
流行りのドレスに、少しでも自分を可愛く見せる化粧技術。
ああでもない、こうでもないと侍女たちと研究していた。
それに僕やエイリクが巻き込まれることも多かった。
言葉遣いに立ち居振る舞い。
歩き方、立ち方。一挙手一投足に、ルナリアは注意を払うようになった。
それまで以前よりもずっと、レッスンを頑張るようになった。
それは、父上に宣言した手前、というのももちろんあるのだろう。
だけどそれ以上に、グレンの婚約者になったのだという事実が、ルナリアの背を押しておるように見えた。
『グレンの婚約者として、恥ずかしくないようにしたいの』と、ルナリアはにかんでいた。
ルナリアの頭を撫でていた母上が、ルナリアに問う。
「何を頑張るつもりなの?」
「……お医者様に、言われたの。私の足は、もう、以前のように動かすことは難しいかもしれない、って……」
「──」
母上が、息を呑む。
侍女が父上と母上に報告をあげている。既に知っていたことだが、やはり本人の口から言われと、痛々しさが段違いだった。
母上は言葉を失い、それでもルナリアの手前、平静を取り繕っている。
でも、母上の隣に座る僕にはわかる。母上は酷く動揺していた。
今、ここにルナリアがいなければ、泣き出してしまいそうな程には。
心配になって母上を見ると、僕の視線に気がついた母上が、取り繕うように微笑んでみせた。
ルナリアは、そんな僕たちのやり取りに気付くことなく、ゆっくりと言葉を続ける。
こころの内を、整理するように。
「だから、頑張るわ。以前のように……ううん、まずは、ひとりで立てるように」
そこで、ルナリアは顔を上げる。
僕と、母上をそれぞれ見つめて。
「心配を、かけてしまってごめんなさい。お母様、酷い顔色だわ。お兄様も、目が充血してる。エイリクは青ざめていたし、お父様は疲れているようだったわ。みんなが窶れているのは、私のせいでしょう?……ごめんなさい」
ルナリアは、思い悩むように言った。
それに、母上が激しく首を横に振る。
僕が何か言うより早く、母上が答えた。
「あなたが……!あなたが謝ることなんて、ひとつもないのよ……!」
母上の声には、涙が交じる。
それに、ルナリアは困ったように笑った。
「あの時……事件が起きた時。どうすれば良かったのか、答えが出ないの。私は、どうすればよかったのかしら……って。ずっと考えているの。……お母様、お兄様。私はどうすれば良かったの……?」
それに答えられるものはいない。
少なくとも、この寝室には。
その日の午後。
父上は邸を出ていて、執事長のケヴィンが僕に、判断を仰ぎに来た。
「坊っちゃま。至急、ご確認いただきたいことがございます」
「確認?何?」
僕は自室で、招待状の整理を行っていた。
季節は夏。社交シーズンだからたくさんの招待状がローウェル公爵家には届く。
だけど、今回は少し訳が違う。
例年より、ずっと量が多い。
その理由は至極単純だ。
ルナリアとグレンの間で何が起きたか知りたいからだろう。
下心を隠しきれない招待状を破らないように、断りの返事を書くのは、一苦労だった。
僕が尋ねると、ケヴィンが無表情のまま言った。
「ウィンザー公爵家のご嫡男がいらっしゃっています」
「……はぁ!?!?」
僕は椅子を引き倒す勢いで立ち上がった。
「嘘だろう!?父上は釘を刺したと言っていたぞ!?」
「事実です。今、イザークが対応しています。邸には入れておりません。いかがなさいますか」
イザークとは、ケヴィンの息子だ。執事のひとりでもある。
イザークはまだ若い。彼ひとりに対応を任せるのは不安があった。早く、ケヴィンを戻した方がいいだろう。
どうするか?
そんなの、聞かれずとも決まっている。
「追い返せ。約束はしていない。常識外れだ!」
バン、と思わず机を打ち付けてしまう。
せっかく書き上げた断りの文句を乗せたメッセージカードが、何枚か机から落ちる。その中には、まだインクが乾いていないのもあって、字がよれてしまった。書き直しだが、構わない。
そんなことより──
(また来た、だと!?)
どの面下げて──。
今更、何の用だ?
今更こられても、迷惑なだけだ……!!
僕が答えると、ケヴィンは恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。そのようにいたします」
今にも退室しそうなケヴィンを、僕は呼び止めた。
「また、あいつが訪れることがあれば、同じように追い返して構わない……!!僕から父上に、そのように報告しておく!」
語気が荒れてしまうのは、抑えようがなかった。
僕は本来、こんなに乱暴な人間ではない。机を叩いたり、言葉を荒らげたり。そんな真似は、滅多にしない。
そのように教育を受けたというのも大きいが、感情の起伏が元々、そこまで激しくはないのだ。
だけど今は、だめだった。
呼吸を整えようにも、落ち着かない。
はぁ、はぁ、と荒い呼吸を繰り返す自分を、どこか他人事のように感じていた。




