極楽寺
教室の空気が止まっていた。
蓮夜様は静流様の身体を押してどかし、私の身体を支えてくれた。四年前、台場の観覧車で手を繋いだ時と同じ温かさだった。私は何か言わなきゃと思ったけど、言葉が出てこない。頬が痛い。視界が滲む。なのに、蓮夜様の顔を見た瞬間、胸の奥に閉じ込めていたものが一気に溢れそうになった。
「ああ、スミレ。待たせた。……迎えに来た」
「蓮夜様……」
「もう大丈夫だ。立てるか?」
「……はい」
返事はしたけど、足には力が入らなかった。蓮夜様は私の手を離さず、ゆっくりと身体を支えてくれる。乱暴じゃない。急かすようでもない。ただ、私が倒れないように、そばにいてくれた。
「貴様……何者だ」
静流様の声が低く響いた。怒りと戸惑いが混ざっている。蓮夜様は私を少し後ろに下がらせ、静流様の前に立った。
「極楽寺蓮夜。極楽寺家の現当主だ。七里ヶ浜スミレの婚約者でもある」
その言葉を聞いた瞬間、教室にざわめきが走った。
「極楽寺家……?」
「あの鎌倉の?」
「鬼の極楽寺家って……」
「当主って、もっと年上じゃないの?」
蓮夜様は周りの声を気にしていなかった。静流様だけを静かに見ていた。その目は冷たいわけじゃない。けど、誰も逆らえないような重さがあった。
「西園寺家の方か。事情があるなら、家を通して申し入れろ。今ここで争う気はない」
「争う気はないだと? 貴様、俺の前で勝手に――」
「お前はスミレを二度叩いた」
蓮夜様の声が少しだけ低くなった。
「そのことは覚えておく。だが、今はスミレを連れていく。これ以上、彼女に触れるな」
静流様が手を伸ばそうとした。蓮夜様が、その手首を軽く押さえる。ただそれだけで、静流様は動きを止めた。
「……っ」
「力を入れるな。ここは教室だ。周りに生徒もいる」
静流様の顔が歪む。プライドを傷つけられたのか、私を見て、蓮夜様を見て、花純を見た。花純は青ざめた顔で何も言わない。ロイヤル・ブラッドのみんなも、クラスメイトたちも、ただ息を殺している。
私はその場にいる全員の顔を見られなかった。昨日まで花純として話していた人たち。スミレに戻った途端、私を見なくなった人たち。今は、ただ怖かった。
「行こう、スミレ」
「……はい」
蓮夜様は私の手を引いて、教室を出た。廊下を歩く。足音がやけに大きく聞こえた。私は何度も転びそうになったけど、そのたびに蓮夜様が歩幅を緩めてくれた。
「すみません……」
「謝る必要はない。ゆっくりでいい」
「でも、私……」
「今は話さなくていい。外に出よう」
その言葉に、私は小さく頷いた。
***
学園を出てから、蓮夜様としばらく台場を歩いた。
あの日と同じ街なのに、何もかも違って見えた。デパート、海浜公園、観覧車。四年前、蓮夜様と歩いた場所。楽しかった思い出がある場所。だけど今は、胸の中がぐちゃぐちゃで、どこを見ても泣きそうになってしまう。
蓮夜様は無理に話しかけてこなかった。ただ、私の隣を歩いてくれた。時々、私が遅れると立ち止まってくれる。それだけで十分だった。
夕方になり、スマホに母様から連絡があった。
『七里ヶ浜家に、あなたの帰る場所はありません』
簡潔なメッセージだった。
私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。家が好きだったわけじゃない。帰りたいわけでもない。あの家に居場所なんてなかった。ずっとそうだった。
それでも、帰る家がないと言われるのは、思ったよりも怖かった。
「……西園寺家に逆らったから、でしょうか」
「おそらくな。七里ヶ浜家にとって、西園寺家との関係は重いのだろう」
「私が、悪いんですか?」
自分で聞いておいて、胸が痛くなった。蓮夜様は少しだけ眉を寄せた。
「悪くない」
「でも……」
「叩かれて、黙っていなければならない理由はない。自分を守っただけだ」
その言葉は、私には少し眩しかった。自分を守る。そんなこと、今まで考えたことがなかった。
荷物も何もかも処分されたらしい。私が七里ヶ浜家から持ってきたものは、蓮夜様からもらった時計だけだった。
「スミレ」
「はい」
「本当は、今日は顔合わせだけのつもりだった。だが、このまま一人にはできない。ひとまず、俺の家に来るか」
「え……」
「鎌倉だ。極楽寺家の屋敷がある。必要な話は、そこから七里ヶ浜家に通す」
「でも、ご迷惑では?」
「迷惑ではない。婚約者を路上に置いて帰るほど、俺は薄情ではない」
私は胸元で手を握った。婚約者。母様が勝手に決めた婚約。家の都合で決められたもの。なのに、蓮夜様の口から聞くと、少しだけ違うものに聞こえた。
「ありがとうございます」
「構わん。……ただ、無理はするな。顔色が悪い」
「はい」
蓮夜様の言葉に甘えて、私は極楽寺家の車で鎌倉へと向かうことになった。
***
「……蓮夜様、もう少し慎重に行動をお願いします。七里ヶ浜家は非常に危険な存在です。ああ、失礼。あなたの事ではありませんよ、スミレ様。私は蓮夜様の教育係兼執事の誠士郎と申します。以後お見知りおきを」
「は、はい。はじめまして。私は……スミレです」
運転席にいた男性は執事と言っていたけど、とてもそんな風には見えなかった。蓮夜様に遠慮なく意見をしていて、それを蓮夜様も自然に受け止めている。まるでお兄さんみたいだった。
長髪が美しく、ピシッとしたスーツ姿が綺麗だった。どこかの名家の子息と言われても納得する。
「誠士郎、すまない。予定と違った」
「ええ、本当に。ですが、あの場で何もしない蓮夜様ではないでしょう」
「……見て見ぬふりはできなかった」
誠士郎さんが眼鏡の位置を直した。
「それは理解しています。ですが、ここからが本題です。七里ヶ浜家と西園寺家、それから台場異能学園。いずれも簡単な相手ではありません。……ふぅ、ここから鎌倉まで一時間半ほどかかります。その間に、話せる範囲で説明なさっては?」
「そうだな」
蓮夜様が私の方を見る。私は少し背筋を伸ばした。
「あの……蓮夜様が、極楽寺家の当主様なのですか? 当主様は、もっと年上の方だと聞いていました」
「ああ。前当主は死んだ。今の当主は俺だ」
蓮夜様は静かにそう言った。声は落ち着いていたけど、表情は少しだけ複雑だった。私に隠そうとしているのかもしれないけど、わかってしまう。
「……そう、なのですね」
「詳しい話は、いずれする。今は疲れているだろう。無理に聞かなくていい」
「いえ……。知りたいです。私は蓮夜様のことを、ほとんど知りませんから」
そう言うと、蓮夜様は少しだけ目を見開いた。それから、小さく息を吐く。
「なら、難しい話の前に、俺の好きなものから話そう。昔、お前が台場を案内してくれた時も、そんな話をしたかった」
「はい」
「菓子を作るのが好きだ。あと、海を見るのも嫌いじゃない。鎌倉は台場とは違う海だ。お前にも、見せたいと思っていた」
胸が少しだけ温かくなった。
ここから私たちは、あの時みたいに、少しずつ会話を続けた。
***
「……寝てしまったな」
「ええ、可愛らしい寝顔ですね。ですが、七里ヶ浜家の内情は不明です。用心は必要かと」
「スミレはスパイではない」
「承知しております。ただ、七里ヶ浜麗華は油断できません」
「ああ。それはわかっている」
車窓の外を眺めながら、蓮夜は過去を振り返っていた。たった十七年の人生だったけど、恐ろしく長く感じた。
目を閉じると、あの頃の光景が鮮明に蘇る。
***
俺、極楽寺蓮夜は、どこにでもいる普通の男の子だった。
母さんの事が大好きで、裏山を探索するのが日課で、学校を終えるといつも遊んでいた。
そんな俺が、自分の家が異常だと感じたのは初等部の頃だった。極楽寺家という名家の一つ。この辺りには名家が多いが、極楽寺家はこの一帯の異能名家を束ねている存在だった。
……いや、支配していた。と言っていいだろう。
前当主、極楽寺烈火。この人物よりも最低な男を見たことがない。俺が生まれてすぐ、親父はどこかへ消えていた。だから幼い頃は、親父の事を母さんから聞くくらいしかなかった。
母さんは病気で療養していた。極楽寺家の使用人が俺の世話をし、特に何不自由なく育った。
俺が七歳の頃、親父が帰ってきた。
生活が一変した。周りの人の空気感が明らかに変わった。
独裁、圧政、暴力、支配。
親父は力で全てを支配していた。嫁が数え切れないほどいた。極楽寺家は、天災並の厄介な事態が起こらない限り、触れてはいけない存在として扱われていた。
このままだと、母さんが殺される。俺を育ててくれた使用人たちも壊される。
当主の息子である俺は、どうにかしないといけない。そう強く思っていた。だけど、力が伴わない。それが分かっていた。
だから、俺は力を手に入れるために、『あの日』台場へと向かったんだ。
『龍の力』
伝説とも言われている異能の力。有明の海の中の異界の亀裂の奥底にあると言われている。誰も見たことがないそれを、俺は探しに行った。
そして、それに辿り着く前に、俺はスミレと出会った。
***
目を開けると車の中だった。あの頃の情景が鮮明に思い出せる。
「……俺も少し寝ていたか」
「ええ。高速を下りて、しばらくしたら大船です」
「そうか。何か温かいものを食べて帰ろう。スミレも、何か口に入れた方がいい」
「そうですね。スミレ様、いかがしますか?」
肩を軽く揺すられて、私はぱっと目を開いた。何かに怯えて、警戒している者の起き方だと、自分でもわかった。
「……す、すみません。寝てしまって……」
「謝らなくていい。疲れていたんだろう」
「いえ、その……ご迷惑を」
「迷惑ではない。何か食べられるか?」
「……でも、私、お金が」
「今は気にするな。落ち着いてから考えればいい」
蓮夜様は静かにそう言ってくれた。
私は頷いた。まだ怖い。まだ何もわからない。だけど、この車の中には、私を責める人はいなかった。
夜が更けた頃、車は龍口寺の裏手にある屋敷へと入っていった。
海の匂いがした。
知らない街の匂いがした。
ここが、私の新しい場所になるのだろうか。




