江ノ電
目が覚めたら、知らない天井が見えた。
年季が入った木の天井。木目が凄く綺麗だった。昨日はシャワーを借りて、すぐに寝てしまったけど、この家の場所には驚いた。江ノ電という電車が道路の真ん中を突っ切っている場所に、お寺『龍口寺』があった。そこの裏山に建てられたお屋敷。
七里ヶ浜家の部屋とは全然違う。花純の部屋のように豪華ではないけど、布団はふかふかで、部屋は温かくて、木の香りがした。人が暮らしている家の匂いだと思った。
「あっ……、制服しか服がない……」
布団の上で起き上がり、自分の荷物を探してみたけど、何もない。本当に何も持ってきていなかった。私が七里ヶ浜家から持ってきたのは、時計だけ。生活していく上での物がなさすぎて、どうしようもない。
どうしよう、と考えていたら、襖がすっと開いた。
割烹着を着た綺麗な女性と目が合った。私は慌てて布団の上で正座をする。
「あら、起きたのね。ふふっ、はじめまして、私はエリと申します。旦那様からスミレ様のお世話を頼まれましたので。ささっ、着替えましょう」
「あ、あの、私、自分で……」
「遠慮なさらないでください。昨日は大変だったでしょう? まずは身だしなみを整えましょうね」
エリさんはにこにこしながら、テキパキと動き始めた。私は何度か「自分でできます」と言おうとしたけど、エリさんの手際が良すぎて、言葉を挟む隙がなかった。
綺麗なワンピースを着せてもらい、髪を整えられ、薄い化粧までしてくれた。鏡の中の自分を見て、少しだけ驚いた。
花純として着飾っていた時とは違う。花純のための装いじゃない。
これは、スミレのために整えられた姿なんだ。
「うん、これでバッチリですね。すごく可愛いです。旦那様もきっと驚きますよ」
「旦那様って……蓮夜様ですか?」
「そうです。ふふっ、蓮夜様です。もう聞いてくださいよ、あの方、昨日まですっごく仏頂面だったんですよ。七里ヶ浜家の麗華様に勝手に婚約者を決められて不機嫌になって、わざわざ台場まで行って文句を言おうとして」
エリさんが私の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「でも、婚約者がスミレ様だってわかったら、雰囲気が変わりました。とても嬉しそうで……私は安心しました」
「……嬉しそう、ですか」
「はい。あの方は、自分の気持ちを言葉にするのが苦手ですから」
少しだけ疑問があった。昨日は蓮夜様と誠士郎さんしかいなかったはずなのに、この人は昨日の詳細がわかっているみたいに話す。
でも、聞いていいのかわからなかった。
「スミレ様」
「はい」
「ここを我が家だと思って過ごしてください。何もかもすぐに慣れる必要はありません。けれど、遠慮ばかりしていると、蓮夜様が寂しがります」
「蓮夜様が……」
「ええ。あの方は無愛想に見えますけど、かなり面倒見がいいんです。さあ、もう少ししたら朝食の時間です。もしよかったら、蓮夜様の朝鍛錬を見ていきますか?」
私は鏡の中の自分を見る。
少し怖い。これが母様の罠だったらどうしよう、とも思う。けれど、昨日の蓮夜様の手の温かさを思い出す。
私はもう、ただ怯えているだけの子供ではいたくない。
「……はい。見てみたいです」
「ふふっ、では行きましょう。蓮夜様の勇姿を見て、ぜひ惚れてくださいな」
「そ、そういうのは……」
思わず顔が熱くなった。エリさんは楽しそうに笑っていた。
***
屋敷のすぐ横にある道場。
目の前で剣戟が繰り広げられていた。異能で作られた剣が壊れては瞬時に作られ、またぶつかり合う。いつまでも終わらない戦いのように見えた。
台場の学園でも、仲間たちは鍛錬をしていた。けれど、これは学生レベルを越えている。明らかに実戦を意識した高度な鍛錬。
異能負荷を強くするために、道場内には札によって結界が作られてあった。空気が重い。ここに立っているだけで、肌がぴりぴりする。
そう言えば、スミレに戻ってからは自由に動けなかったから、まともに鍛錬もしていない。
誠士郎さんの動きは明らかに高位異能術師。父様と同じ、いえ、それ以上の体術に見える。これほど強い人は滅多にいない。
その誠士郎さんの猛攻を、蓮夜様は受け流していた。剣術の技術は誠士郎さんが上なのかもしれない。けれど、異能の強さは明らかに蓮夜様の方が上だった。
「すごい……」
小さく呟いたつもりだった。けれど、蓮夜様は気がついたみたいだった。
鍛錬が止まる。蓮夜様はタオルで汗を拭き、こちらへ歩いてきた。
「おはよう、スミレ。昨夜は眠れたか?」
「はい。あんなにふかふかなお布団は久しぶりでした。……蓮夜様、とても強いのですね」
「強くなければ、極楽寺家の当主は務まらない」
蓮夜様の声は落ち着いていた。自慢するでもなく、当然のことを言っているだけみたいだった。
「私も……時間があったら、稽古をしてもいいでしょうか」
言ってから、少しだけ怖くなった。ここは私の家じゃない。勝手にお願いをしていい場所じゃない。
けれど、私は力を持っている。あの淡い光も、龍のような力も、何なのかまだわからない。わからないからこそ、目を逸らしたくなかった。
蓮夜様は少しだけ驚いた顔をしたあと、静かに頷いた。
「もちろんだ。無理のない範囲でな。力を知らないままにしておく方が危ない」
「ありがとうございます」
「ただし、今日は休め。昨日の今日だ」
「……はい」
少しだけ残念だった。そう思った自分に驚いた。私は戦うのが嫌いなわけじゃない。花純として過ごしていた頃、私は何度も鍛錬をして、異界の亀裂に入って、みんなと戦っていた。
あの時間を全部嫌いになれない。
それは少しだけ、胸が痛い。
「蓮夜様、失礼ながら」
誠士郎さんが軽く咳払いをした。
「何だ」
「スミレ様をご覧になって、何か言うべきことがあるのでは?」
エリさんも私の隣でにこにこしている。私は意味がわからず、二人を見た。
「言うべきこと?」
「女性が身支度を整えたら褒める。綺麗だと思ったら褒める。いつもと違う変化を感じたら喜ぶ。何度申し上げればよろしいのでしょうか」
「……誠士郎、そういうのは」
「大切なことです」
蓮夜様は少しだけ視線をそらした。
それから、私を見た。すぐにまた視線をそらした。
「……似合っている」
「え?」
「その服も、髪も。よく似合っている。綺麗だと思う」
心臓が跳ねあがった。
花純として褒められたことは何度もある。花純様は美しい、花純様は完璧だ、花純様は七里ヶ浜家の誇りだと。
でも、スミレとして、そんな風に言われたことはほとんどなかった。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
泣きたくなかったから、私は小さく笑う。
「蓮夜様も、剣を振るっている姿が、とても素敵でした」
蓮夜様は黙った。
そして、耳が少しだけ赤くなった。
「……朝食にしよう」
そう言って、蓮夜様は少し早足で道場を出ていった。誠士郎さんとエリさんが後ろで笑っている。
「あんなに嬉しそうな蓮夜様は久しぶりですね」
「ええ、年相応な蓮夜様は素敵ですね」
私も少しだけ笑ってしまった。
***
「今日と明日は、暦の上では休日だ。この二日間で、スミレの買い物や生活の準備を整えようと思っている」
食卓には色とりどりの朝食が並べられてあった。
どれも凄く美味しい。それに、パンケーキもあって、これがひときわ美味しかった。私はなるべく落ち着いて食べようとしたけど、思わず何度も手が伸びてしまった。
食卓を囲むのは、私と蓮夜様、誠士郎さんとエリさんの四人だった。
「あの、買い物というのは、生活必需品でしょうか。最低限で大丈夫です」
「最低限では足りない。制服以外の服、小物、靴、日用品、学園で必要なもの。全部揃える」
「でも……」
「お金の心配はしなくていい。極楽寺家は江ノ島の異界の亀裂を管理している。その収益がある」
私は誠士郎さんとエリさんをちらりと見る。二人は静かに頷いてくれた。
「……ありがとうございます。でも、ただ与えられるだけでは落ち着きません。できることがあれば、私も働きます」
蓮夜様が少し目を細めた。
「そういうところは、変わらないな」
「変わらない、ですか?」
「あの時もそうだった。奢られることに困っていただろう」
四年前のタピオカティーを思い出す。美味しすぎて泣いてしまった私。あれを思い出すと、今でも少し恥ずかしい。
「……あの時は、本当にびっくりしたんです」
「分かっている。なら、こうしよう。スミレがここで暮らすなら、できることから手伝えばいい。学園に慣れてからで構わない」
「はい。頑張ります」
「頑張りすぎるな、と言った方がよさそうだな」
蓮夜様はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と胸が落ち着く。私はまだこの家の人間じゃない。婚約者と言われても、実感はない。けれど、ここには私を道具として見る人がいない。
「ところで、スミレ」
「はい」
「その時計、持っていてくれたんだな」
私は腕に巻いている時計に触れた。
「はい。私にとって、大切なものなので……。蓮夜様も、あの時の時計を今も身につけてくださっているのですね」
「ああ。大切なものだからな」
たったそれだけの会話なのに、胸の奥が温かくなる。楽しかったあの日。二人だけで共有している思い出。
誠士郎さんが少し微笑み、エリさんは嬉しそうにお茶を淹れてくれた。
「出かけながら、この辺りのことを話そう。スミレが通う新しい学園のこともな」
「はい。お願いします」
***
「おはようございます、蓮夜様!」
「おはよう、蓮夜様」
「今日は歩きなのじゃな。ふふ、若者は歩きなさい」
「蓮夜君、隣の人は婚約者さん?」
「蓮夜、暇だったら海行こうぜ!」
龍口寺から江ノ電の駅へと向かう。
道路の真ん中を走っている江ノ電がとても珍しい。なんだろう、凄く懐かしい気分になれる街だ。海風がちょっとだけ肌にべとつくけど、そんなに不快じゃない。
街のみんなは蓮夜様を見かけると、老若男女問わず挨拶をしてくれる。
私はその光景に少し驚いた。台場で聞いていた極楽寺家の噂とは、全然違う。
「蓮夜様は、街の人から慕われているのですね」
「慕われている、というほどではない。前当主の時代が酷かったから、普通に暮らせるようにしただけだ」
「それは、簡単なことではないと思います」
蓮夜様は少しだけ私を見た。
それから、前を向いた。
「……そう言ってもらえるなら、悪くないな」
ここの本屋辺りが藤沢市と鎌倉市の境目だ、と蓮夜様は教えてくれた。一応、屋敷は藤沢市片瀬になるらしい。あそこにある自転車屋は昔からあるとか、隣のケーキ屋はこの街の出身者が東京に出て戻ってきたとか、蓮夜様は道を歩きながら一つ一つ教えてくれた。
私はその説明を聞くのが好きだった。
蓮夜様がこの街で生きてきたことが、言葉の端々から伝わってくるから。
「私が、花純だった時、母様から言われた事があります。極楽寺家の当主だけには関わるなって」
言ってから、しまったと思った。
蓮夜様の足が止まる。
私も足を止めた。
「スミレ」
「……はい」
「私が花純だった時、というのは?」
静かな声だった。責めている声ではない。けれど、誤魔化せる声でもなかった。
私は手首の時計に触れる。
いつか話さなければいけないことだった。蓮夜様には、隠してはいけないと思っていた。
「すみません。まだ、話していないことが沢山あります」
「そうだろうな。昨日は急だった」
「……私は、四年前からしばらく、妹の花純として生きていました」
声が震えそうになる。
でも、逃げたくなかった。
「詳しく話します。全部、話します。蓮夜様には、知っていてほしいです」
蓮夜様はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「分かった。無理に今すぐ全部話さなくていい。だが、隠さなくていい。俺も、極楽寺家の話をする」
「はい」
「婚約者だから、というだけではない。俺はスミレの味方でいたい」
胸の奥が、きゅっとなった。
「……ありがとうございます」
「まずは買い物だ。重い話は、落ち着ける場所で聞く」
「はい」
蓮夜様は歩き出そうとして、少しだけ手を差し出した。
でも、すぐに引っ込めようとした。
私はそれを見て、小さく笑ってしまう。
「あの……転びそうなので、手をお借りしてもいいでしょうか」
蓮夜様が少しだけ驚く。
それから、静かに手を差し出してくれた。
「もちろんだ」
私はその手を取った。
四年前とは違う。あの時より、少しだけ恥ずかしい。でも、温かさは同じだった。
江ノ電が駅に入ってくる音が聞こえる。
私は蓮夜様の隣で、知らない街の中を歩いていく。
怖いことはまだ沢山ある。
話さなければいけないことも、向き合わなければいけないことも沢山ある。
それでも、私は逃げない。
スミレとして、ここで生きてみたい。




