居場所
鎌倉地区に来てから、初めての週末。
私の日用品や必需品を買うために、近隣の繁華街『藤沢』へと向かう事になった。
極楽寺家は、私が洋服を持ってこないとは思わなかったらしく、学園の指定制服しか用意していなかった。というわけで、私は新品の制服を着て、蓮夜様と歩いている。
蓮夜様はバイクに乗れるらしいけど、今日は私に合わせて歩いて行動してくれるみたいだった。
「いつもは車かバイクを使うが、今日は歩こう。スミレには、この辺りの道も見せておきたい」
「はい。私も歩いてみたいです。……それにしても、この江ノ電って、本当にすごい所を通るのですね」
「見慣れているから、俺には普通に見えるな」
腰越という江ノ電の駅から、私たちは乗って藤沢へと向かう。
たった数駅、十分少しの旅路。観光客の姿も見えるけど、地元の人の足として利用されているみたいだ。台場の電車とは違う。近くて、狭くて、生活の匂いがした。
「蓮夜様は、ずっとこちらに住んでいるのですか?」
「ああ。ずっとこの町だ。出たことはほとんどない。……だから、あの時、台場に行ったのが初めてだった」
「そうなのですね。私と一緒です。私は今回が初めてです。こんなに遠くに来たのは」
蓮夜様は少しだけ考え込むように、窓の外を見た。海の光が一瞬だけ車内に差し込んで、蓮夜様の横顔を照らした。
「スミレの好きな事は何だ?」
「好きな事、ですか?」
「ああ。食べ物でも、場所でも、何でもいい」
そういえば、昨日は蓮夜様の好きな事を聞いた。お菓子を作る事。海を見る事。街の人たちの話。蓮夜様には、この町の中に好きなものが沢山あるように見えた。
私は自分の手首の時計に触れる。
私の好きな事って、なんだろう。
「……わからないです」
答えは自然と口から出た。
「そんなの、考えたことがありませんでした。私はずっと、嫌われないように、怒られないように、役に立つように生きてきました。花純だった時も、花純ならどうするか、静流様なら何を望むか、みんなが何を求めているか、ずっと考えていました」
「……そうか」
「だから、自分が何を好きなのか、何をしたいのか、あまりわからないのです。今の口調も、仕草も、考え方も、どこまでが本物の私なのか……時々、わからなくなります」
言ってから、胸が少し苦しくなった。
こんな話をしても困らせるだけだと思った。けれど、蓮夜様は私を急かさなかった。ただ、静かに聞いてくれた。
「わからないなら、探せばいい」
「探す……」
「すぐに見つける必要はない。好きなものも、やりたい事も、これから増やせばいい。鎌倉には店も海も山もある。学園に通い始めたら、部活を見るのもいい」
「部活……」
「料理でも、剣術でも、研究でも、何でもいい。スミレが自分で選べばいい」
自分で選ぶ。
その言葉は、簡単そうで、とても難しい。
でも、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「……はい。少しずつ、探してみます」
「それでいい」
江ノ電は湘南海岸公園を過ぎ、柳小路を過ぎ、藤沢へと到着した。駅に降り立つと、結構都会の雰囲気でびっくりした。
「思っていたより、人が多いですね」
「藤沢はこの辺りでは大きい町だ。買い物もしやすい。まずは服を見て、その後に靴と小物だな。必要なら武器屋も寄る」
「武器屋……? 普通の施設にあるのですか?」
「ああ。異能術師向けの店はいくつもある。スミレも異界の亀裂に入っていたのだろう?」
「はい……。何度も」
それは、私が花純だった頃の話だ。
私は花純として、ロイヤル・ブラッドのみんなと異界の亀裂に挑戦していた。指揮を取り、戦い、誰かを守り、時には傷ついた。
あの時間を、私は全部嫌いにはなれない。
でも、それは花純の名前で過ごした時間だった。
私はスミレ。落ちこぼれだった子。
でも、花純として戦っていた私も、たしかに私だった。
頭が少しこんがらがってくる。
「スミレ?」
「……すみません」
「謝らなくていい。顔色が変わった」
「少し、自分がよくわからなくなっただけです。私はスミレなのに、花純だった時の事も、私の中にあるんです。全部捨てたいわけじゃないのに、全部持っていたら、スミレでいられないような気がして……」
言葉にしてから、私は俯いた。
弱音ばかりだと思った。
でも、これは本音だった。
蓮夜様はしばらく黙っていた。それから、静かに私の前に立つ。
「なら、身体を動かそう」
「え?」
「考えて答えが出ない時は、身体を動かした方がいい。スミレは戦えるのだろう?」
「……はい」
「なら、今の自分の力を見ておくべきだ。買い物の前に、少しだけ付き合ってもらう」
そう言って、蓮夜様は私の手を取った。強引ではないけど、迷いのない手だった。
***
向かった先は、小田急の屋上にある異能鍛錬所だった。
異能学園の制服姿の生徒を数多く見かける。もちろん、普通の異能術師も沢山いた。明らかに、異能術者たちのレベルが台場と違う。
私は台場の異能術師たちが全国で最高レベルと教わったはずだった。でも、違う。ここの人たちは台場よりもずっと実戦に慣れている。
空気が張り詰めているのに、怖いだけじゃない。
誰もが自分の力を知るためにここへ来ている。そんな場所に見えた。
「ここは誰でも使えるのですか?」
「登録していればな。俺がいるから手続きは問題ない。あそこに的がある。まずは一番得意な力を撃ってみろ」
「一番得意な力……」
私の得意な力は何だろう。
水遁でも火遁でもない。七里ヶ浜家の異能でもない。私の中にあるのは、あの淡い光と、龍のような不思議な力。
でも、誰にもちゃんと見せたことがない。
先生に見せても馬鹿にされた。母様に見せたら、きっと別の使い道を考えられた。だから、ずっと隠してきた。
「怖いか?」
「……少し」
「それでいい。怖くない力は危ない。だが、怖いからといって見ないままにしておくと、もっと危ない」
蓮夜様は淡々と言った。
それは私を責める言葉ではなかった。
「もし暴走したら、俺が止める」
「蓮夜様が?」
「ああ」
「……本当に、止められますか?」
思わずそう聞いてしまった。
弱気ではなく、確認だった。私の中の力は、私自身にもよくわからない。無責任に撃って、誰かを傷つけたくなかった。
蓮夜様は私の問いを笑わなかった。
「止める。だから、遠慮せずに撃て」
「わかりました」
私は的の前に立った。
手首の時計に触れる。四年前にもらった大切なもの。これに触れると、あの時の私を思い出せる。
蓮夜様と出会った私。
初めて、誰かにちゃんと見つけてもらえた私。
私は目を閉じた。
心の奥に眠っている力を意識する。淡い光が身体の奥から湧き上がる。怖い。けれど、逃げない。
私は、私の力を知りたい。
「……いきます」
左手を前に出す。
淡い光が指先に集まる。けれど、それはただの光ではなかった。光の奥に、鱗のような模様が浮かぶ。龍の輪郭が揺らめいたように見えた。
次の瞬間、光が的へ向かって放たれた。
音が消えた。
的の前に張られていた防御結界が一枚、二枚、三枚と砕ける。屋上全体が揺れた。周囲にいた術師たちが一斉に振り返る。
「……っ」
私は慌てて力を止めた。
でも、止めきれない。身体の奥から、さらに何かが溢れそうになる。
「スミレ、呼吸を整えろ。力を押さえ込むな。流れを細くしろ」
蓮夜様の声が届く。
私は言われた通りに息を吸って、吐いた。押し込めるのではなく、細く、静かに流す。光は少しずつ収まっていった。
膝から力が抜けそうになる。
蓮夜様がすぐにそばへ来て、私を支えてくれた。
「大丈夫か?」
「はい……。すみません、結界を壊してしまって」
「壊れるための結界だ。気にするな」
「でも……」
「スミレ」
蓮夜様の声が少しだけ強くなった。
私は顔を上げる。
「今の力は、誰かを傷つけるためだけのものではない。守るためにも使える。お前は今、途中で止めようとした。それだけで十分だ」
その言葉に、胸が震えた。
私はずっと、自分の力を怖いものだと思っていた。誰にも見せてはいけない秘密。見せたら馬鹿にされるか、利用されるか、どちらかだと思っていた。
でも、蓮夜様は違った。
怖いものだと認めた上で、私の力を否定しなかった。
「……もう一度、試してもいいですか?」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
蓮夜様は少しだけ目を見開いた。
それから、静かに頷く。
「ああ。ただし、今度は俺が相手をする」
「えっ……」
「的では力の流れがわかりにくい。模擬戦形式にしよう。危なくなったら止める」
「でも、蓮夜様が怪我をしたら……」
「俺はそう簡単には怪我をしない」
蓮夜様は落ち着いていた。
その声を聞いていると、不思議と私も落ち着いてくる。
周囲の術師たちがざわめき始めた。
「蓮夜様が模擬戦をするのか?」
「あの子、誰だ? 見たことない制服だ」
「婚約者って噂の七里ヶ浜の子じゃない?」
「七里ヶ浜? でも、あの力……」
「見ておけ。蓮夜様が相手するなら、ただの子じゃない」
視線が集まる。
昔なら、それだけで震えていたかもしれない。
でも今は、逃げたくなかった。
「お願いします」
私は蓮夜様に向かって頭を下げた。
蓮夜様も一歩下がり、構える。
「では、始めよう。スミレ、遠慮はするな」
「はい」
か弱い少女の殻を脱ぎ捨てる、というほど強くはない。
私はまだ怖い。まだ迷っている。けれど、それでも前に進みたい。
身体の奥に眠っている力を、もう一度解放した。
淡い光が私の周りに広がる。足元に光の輪が生まれ、空気が震える。蓮夜様は異能の剣を生み出し、静かにこちらへ踏み込んできた。
速い。
私は反射的に結界を作った。
透明な鱗のような結界が、蓮夜様の剣を受け止める。鋭い音が響く。手が痺れる。でも、耐えられる。
蓮夜様は続けて二撃、三撃と打ち込んでくる。
どれも正確で、無駄がない。怒りも焦りもない。ただ、私の力を見るための攻撃だった。
「良い結界だ。次は動け」
「はいっ」
私は横へ動いた。花純として学んだ体術が身体に残っている。けれど、これは花純のものじゃない。私が努力して得たものだ。
そう思った瞬間、胸の奥の迷いが少しだけ晴れた。
私の右手に光が集まる。
龍の尾のような鞭が伸び、蓮夜様の剣とぶつかった。
爆ぜる光。
周囲から驚きの声が上がる。
「蓮夜!」
聞き慣れない声がした。
蓮夜様の肩の上に、小さな龍のような存在が現れていた。ぬいぐるみみたいに小さいのに、瞳には知性が宿っている。
「無理をするでない! この娘、儂と同じ匂いがするのじゃ!」
「分かっている。絶華、防御を補助しろ」
「仕方ないのじゃ!」
小さな龍――絶華と呼ばれた子が、蓮夜様の周りに鱗の結界を展開した。
本物の龍。
私は一瞬だけ息を呑む。
その隙を逃さず、蓮夜様が踏み込んできた。
剣が迫る。
私は咄嗟に左手を突き出した。
結界ではなく、光が収束した。撃つつもりはなかった。だけど、身体が勝手に動いた。
閃光が走る。
「っ、蓮夜様!」
撃ってから気づいた。
あんな攻撃をまともに受けたら、蓮夜様が怪我をしてしまう。
煙が立ち込める。
私は何も考えずに駆け出した。
「蓮夜様!」
「……問題ない」
煙の向こうで、蓮夜様が立っていた。
右手の袖が少し裂けている。鱗の結界が砕けて、絶華がむっとした顔で腕を組んでいた。
「蓮夜、無茶をしすぎじゃ。儂がいなければ危なかったのじゃ」
「助かった、絶華」
「もっと感謝するのじゃ」
蓮夜様は小さく笑った。
私は息を切らしながら、蓮夜様の前で立ち止まる。
「すみません……。私、止められなくて……」
「この程度は怪我ではない」
「た、大切な人が傷ついたら、私も嫌です!」
思わず強く言ってしまった。
蓮夜様が少し驚いた顔をする。
私は自分の声に驚きながらも、引かなかった。ここで遠慮して黙るのは違うと思った。
「私の力を見てくださるのは嬉しいです。でも、蓮夜様が怪我をするのは嫌です。次からは、危ない時は必ず避けてください」
蓮夜様は黙って私を見ていた。
それから、少しだけ柔らかく笑う。
「分かった。次からはそうする」
「……本当ですか?」
「ああ。約束する」
その言葉に、少しだけ安心した。
蓮夜様は私の頭を軽く撫でた。
とても優しい手つきだった。
「それにしても、スミレはすごいな」
何気ない一言だった。
でも、その言葉は、私の胸の奥に深く届いた。
すごい。
私が。スミレが。
落ちこぼれでもなく、花純でもなく、七里ヶ浜家の失敗作でもなく。
スミレとして、すごいと言われた。
視界が滲んだ。
「……泣いているのか?」
「違います」
「違うのか?」
「……嬉しいだけです」
昔も同じことを言った気がする。
タピオカティーを飲んだ時、あまりに美味しくて泣いてしまった私に、蓮夜様は困っていた。
蓮夜様もそれを思い出したのか、少しだけ困ったように笑った。
「そうか。なら、いい」
私は涙を拭いながら、少しだけ笑った。
怖いことはまだある。
自分が何者なのかも、まだわからない。
それでも、今の私は少しだけ前に進めた気がした。
私はスミレ。七里ヶ浜スミレ。
そして、これから自分の好きなものを探していく。
その最初の一歩を、蓮夜様とこの藤沢の鍛錬所で踏み出したのだと思った。




