学園
「あら、スミレ様、おはようございます。今日のお着替えはこちらに置いておきますね」
「おはようございます、スミレ様。稽古場では蓮夜様がお待ちです」
「スミレ、昨日の疲れは残っていないか。無理をする必要はないが、身体を動かしたいなら付き合おう」
不思議な感覚だった。
花純として生活していた頃、私には多くの友人や知り合いがいた。でも、スミレとしての日常で、こんな風に挨拶をされたことがない。話しかけられたことがない。気にかけられたことがない。
胸がきゅっとした。
悲しい気持ちじゃない。声をかけられると胸がきゅっとするけど、なんだか温かい気持ちになるんだ。
昨日の藤沢での模擬戦を思い出しても、胸がきゅっとする。
あの鍛錬所で蓮夜様と模擬戦をした後、私たちは屋上にある小さなカフェでお茶をした。買い物はその後にしたけど、蓮夜様は私が疲れていないか、何度も確認してくれた。
そして、落ち着ける場所で、私は自分のことを話した。
私が七里ヶ浜家でどう扱われてきたのか。異能が使えない落ちこぼれだと言われていたこと。花純と間違えられたこと。龍種あやかしを核にした鬼に襲われたこと。花純が眠り、私が花純として生きるよう命じられたこと。ロイヤル・ブラッドのみんなと過ごしたこと。花純が戻り、私がまたスミレに戻されたこと。
人に自分のことを話すのは苦手だった。
私の人生は嘘ばかり。だから、何が真実で、何が偽物かわからなくなっていた。
話している途中で、何度も声が震えた。けれど、蓮夜様は急かさなかった。怒ることも、憐れむこともなかった。ただ、静かに聞いてくれた。
『ここは大丈夫だ。スミレはスミレとしていていい』
蓮夜様はそう言ってくれた。
たったそれだけの言葉なのに、私は泣きそうになった。
でも泣かなかった。泣いてしまったら、止まらなくなりそうだったから。
「……私、ここでちゃんと生きられるでしょうか」
朝の支度をしながら、思わず小さく呟いた。
鏡の中の私は、昨日より少しだけ整って見えた。エリさんが髪を丁寧に結ってくれたからだ。手首には、蓮夜様からもらった時計がある。これだけは、私が七里ヶ浜家から持ってきた、私だけのもの。
「大丈夫ですよ」
エリさんが後ろで微笑んだ。
「スミレ様は、もうちゃんと生きようとなさっています。だから大丈夫です」
「……はい」
私は小さく頷いた。
***
今日から鎌倉異能学園へ通う。
この地域は台場と同じく、異能の名家が治めている特殊地域だ。ただし、極楽寺家は七大名家とは違う。序列の中には入らない。けれど、鎌倉一帯では七大名家よりもずっと古く、強い影響力を持つ守護家。
江ノ島には異界の亀裂がある。異界の亀裂が発生する場所を管理し、探索し、貴重な資源を獲得する。それを異能協会と取引することで、極楽寺家はこの地域を守ってきたらしい。
台場にいた頃の私は、花純としてロイヤル・ブラッドのみんなと異界の亀裂に入っていた。学生ながら異例の攻略をしたこともある。でも、その実績は全て花純のものになった。
私には何も残っていない。
そう思っていた。
でも、蓮夜様は昨日、私の力を見て「すごい」と言ってくれた。
だから、私も少しだけ信じてみたい。何も残っていないわけじゃないって。
朝の準備を終えて、私たちは学園へ向かった。
電車通りを過ぎて、海に突き当たると、海辺の通りを線路に沿って歩く。学園の制服を着た生徒が沢山歩いていた。
みんな蓮夜様を見ると思い思いの挨拶をした。
「おはようございます、蓮夜様!」
「蓮夜様、昨日の江ノ島の結界、ありがとうございました」
「あっ、蓮夜様だ。隣の人、婚約者さん?」
「おはようございます。今日も海が綺麗ですね」
私はそのたびに少し緊張してしまう。台場で聞いていた極楽寺家の噂とは全然違う。ここでは、蓮夜様は恐れられているだけじゃない。頼られている。
「蓮夜様は、本当に皆さんから慕われているのですね」
「慕われているというより、顔を知られているだけだ。前当主の時代が長かったからな。普通のことを普通にするだけで、過剰に感謝される」
「普通のことを普通にするのは、簡単ではないと思います」
蓮夜様は少しだけ私を見て、すぐに前を向いた。
「……そうか」
その横顔が少しだけ照れているように見えた。
丘の上にある鎌倉異能学園へ向かう途中、学園の門の前で一人の男子生徒が待っていた。
整った顔立ちで、制服を少し改造している。立ち姿が妙に華やかだった。見たことがある顔だと思った。たしか、テレビで見たことがある。アイドル活動をしている人だ。
「ねえ、君が蓮夜の婚約者?」
男子生徒は私を上から下まで見て、くるりとその場で軽く回った。
「ふーん。思ったより地味ね。ねえ、蓮夜、この子で本当にいいの?」
「凛々亜、失礼なことを言うな」
「だって気になるじゃない。あの七里ヶ浜家から来たんでしょ? しかも婚約者。これは確認しないと」
凛々亜と呼ばれた人は、私の前に立って、じっと私を見つめる。
「君、蓮夜を利用するつもり?」
私は一瞬、息を止めた。
利用。七里ヶ浜家。母様。そういう言葉が頭の中に浮かんだ。
でも、私は逃げたくなかった。
「……私には、七里ヶ浜家の思惑はわかりません」
「ふうん」
「私がここに来たのは、命令された婚約がきっかけです。けれど、蓮夜様には以前、台場で助けていただきました。昨日も助けていただきました。だから、利用するようなことは絶対にしたくないです」
声は小さかったけど、ちゃんと言えた。
凛々亜さんはしばらく黙って私を見ていた。それから、ふっと表情を緩める。
「……なによ。思ったよりいい子じゃない」
「え?」
「僕は凛々亜。リリーって呼んでいいよ。名家の一つではあるけど、七大名家ほどじゃない。ついでに、蓮夜の幼馴染で、友人で、ライバルで、ファン第一号でもあるわ」
「最後は違うだろう」
蓮夜様が静かに言った。
「違わないわよ。蓮夜、君は自分の人気をもっと自覚した方がいいわ。ねえ、スミレさん、あなたも気をつけてね。蓮夜は無愛想だけど、結構モテるから」
「そ、そうなのですね」
私はどう返していいかわからなくて、困ってしまった。
リリーさんはそんな私を見て、楽しそうに笑った。
「うん、からかいがいがありそう。気に入ったわ」
その時、蓮夜様の足元から小さな声が聞こえた。
「ふむ、スミレは良い匂いがするのじゃ。懐かしい匂いじゃ」
私は下を見る。
そこには小さな男の子がいた。頭から角が生えていて、お尻には尻尾がある。昨日の模擬戦で見た、小さな龍の子だった。
「絶華が人化を見せるのか」
「よいではないか。スミレにはもう見られておる。それに、儂はスミレの力が気になるのじゃ」
絶華君は蓮夜様の足元に隠れながら、ちらちらと私を見る。ちょっと怖がっているみたいだけど、好奇心もあるようだった。
「こんにちは、絶華君。昨日は蓮夜様を守ってくれて、ありがとうございます」
「う、うむ。礼には及ばぬ。蓮夜は無茶をするからのう。スミレも、ちゃんと見張っておくのじゃぞ」
「はい。できるだけ」
「できるだけでは足りぬのじゃ」
絶華君は少し偉そうに言った。でも、蓮夜様の後ろから出てこない。私は少しだけ笑ってしまった。
ここなら、私はスミレとして生きられるのかもしれない。
そんな小さな願いが、胸の奥に灯っていた。




