惨めな後悔
西園寺静流。
龍の鱗のような結界に、俺の術式がぶつかった。
眩しい光が弾け、周囲の生徒たちが悲鳴を上げる。だが、俺の術式はスミレにも極楽寺蓮夜にも届かなかった。
「届かなかった、だと?」
西園寺家の術式だ。序列一位の血を継ぐ俺が、次期当主である俺が放った術式だ。それが、たかが極楽寺家の当主に防がれた。
「西園寺家の術式か。確かに強い」
蓮夜の声は静かだった。
俺を侮辱しているわけでもない。なのに、その落ち着いた声が、俺の怒りを余計に逆撫でする。
「だが、ここは学園の門前だ。周囲には生徒がいる。西園寺家の次期当主が、その意味を理解せずに術を放ったのか」
「黙れ……」
俺はもう一枚、呪符を握りしめた。
手が震えている。怒りのせいだ。そう思いたかった。けれど、本当は違う。焦っていた。俺の術式が通じなかったことに、目の前の男が俺よりもずっと冷静であることに、スミレが俺ではなくそいつの後ろに立っていることに。
全部が、許せなかった。
「貴様がスミレを連れ去った。俺はスミレを救うために――」
「スミレの答えは、もう聞いたはずだ」
蓮夜が俺の言葉を遮った。
「これ以上は、本人の意思を無視した暴力だ。西園寺家の名でそれを行うなら、極楽寺家として正式に抗議する」
その言葉で、周囲の空気が変わった。
今まで恋愛のもつれや、学園内の騒動のように見ていた生徒たちが、一斉に息を呑む。
家同士の問題。
名家同士の争い。
そうなれば、子供の喧嘩では済まない。
「極楽寺家が、西園寺家に抗議だと?」
「そうだ」
「鬼の家が、序列一位の西園寺家に?」
「序列でしか物を見られないなら、話すことはない」
蓮夜は一歩前に出た。
「俺は極楽寺家当主としてここにいる。七里ヶ浜麗華に会う前に、俺の婚約者へ術を向けた者がいる。……それだけの話だ」
婚約者。
その言葉に、俺の頭の中で何かが切れた。
婚約者は俺だったはずだ。花純と婚約した。いや、俺が愛したのは花純ではなくスミレだった。だったら、スミレは俺のものであるはずだ。俺が気づいたのだから、俺が迎えに来たのだから、俺が愛していたのだから。
なのに、スミレは俺を見ていない。
「スミレは、俺の婚約者だ。少なくとも、今ここで守る理由としては十分だ」
蓮夜の声は落ち着いていた。
その落ち着きが、俺には耐えられなかった。
「違う……。違う、違う違う違う! 俺は、俺がスミレを――」
「兄さん、もうやめて」
妹の声だった。
俺は振り返る。西園寺家の妹が、泣きそうな顔で俺を見ていた。
「もうやめてよ。兄さんがそうやって言えば言うほど、スミレさんが苦しそうじゃん。……私たち、もう十分傷つけたよ」
「お前は黙っていろ」
「黙らない!」
妹の声が震えた。
「私、スミレさんを蹴った。悪口も言った。花純さんだと思ってた人が、本当はスミレさんだったなんて知らなかった。でも、知らなかったからって、何してもいいわけじゃなかった。兄さんも同じだよ。今の兄さん、スミレさんを見てない」
何を言っている。
俺がスミレを見ていない?
馬鹿な。俺ほどスミレを想っている人間はいない。俺は真実に気づいたのだ。花純の中にいたスミレに。俺が愛した本当の相手に。
「静流、ほんまにやめとき」
石神が俺の腕を掴んだ。
「これ以上は西園寺家の問題になる。君がどれだけ辛くても、ここで術を撃ったら終わりや」
「放せ、石神」
「放さへん。友達やから止めるんや」
友達。
その言葉が耳障りだった。
俺は友人に止められている。妹にも止められている。周囲の生徒たちは、俺を見ている。憧れの視線ではない。困惑と恐怖と、どこか冷えた視線。
「静流様、スミレさんを叩いたって……」
「さっき、自分で入れ替わりって言ったよね」
「じゃあ、中等部の花純様はスミレ様だったの?」
「静流様、ずっと花純様と婚約してたのに……」
「でも今、スミレ様を取り戻すって……」
声が聞こえる。
やめろ。
そんな風に見るな。
俺は間違っていない。俺は愛に気づいただけだ。俺は、俺は――。
その時、スミレと目が合った。
スミレは泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、静かに俺を見ていた。
その目が、俺を責めるどんな言葉よりも痛かった。
俺は思い出した。
『落ちこぼれの方か』
初等部の教室で、俺はスミレにそう言った。
あの時、スミレの顔が少しだけこわばった。胸を刺されたような顔をしていた。なのに俺は気づかなかった。気づこうとしなかった。
教室でスミレを叩いた時の感触も蘇る。
細い頬。軽い身体。抵抗もせず、ただ受け止めた彼女。
俺は何をした?
俺はスミレを救うと言いながら、最初からずっと傷つけていたのではないか?
花純としてそばにいたスミレを愛した。
だが、スミレとして目の前にいた彼女を、俺は落ちこぼれと呼んだ。叩いた。責めた。妹を傷つけた悪人のように扱った。
俺は真実の愛に気づいたのではない。
自分が失った幸せな日々に、都合のいい名前をつけただけだった。
「……違う」
声が漏れた。
「違うんだ……俺は、スミレを……」
言い訳が続かなかった。
蓮夜が俺の前に立つ。
「まだ術を撃つか」
俺は呪符を握っていた。握っていることさえ忘れていた。
蓮夜は俺の手首を軽く押さえた。ただ、それだけだった。
呪符の光が消えた。
「なっ……」
「術式の起点が甘い。感情で術を強めても、流れが乱れれば簡単に切れる」
蓮夜は俺の手を離した。
「才能はある。だが、今のお前は術を扱えていない。自分の感情に術を使われているだけだ」
膝から力が抜けた。俺はその場に膝をついた。
西園寺家の次期当主である俺が。
序列一位の家の跡取りである俺が。
何もできずに、膝をついた。
「……俺は」
視界が滲む。
泣いているのか。俺が?
そんなはずはないと思った。だが、涙は止まらなかった。悔しさだけではなかった。怒りだけでもなかった。
後悔だった。
どうして気づかなかった。
どうして見なかった。
どうして、スミレがスミレとして立っていた時、俺は彼女を大切にしなかった。
「スミレ……」
名前を呼んだ。
スミレは足を止めた。
でも、こちらへは来なかった。
「すまない……俺は、俺は君を……」
言葉が詰まる。
謝れば許されると思ったわけではない。けれど、謝らなければいけなかった。俺はその程度のことさえ、今までしてこなかった。
スミレは静かに首を横に振った。
「謝罪は、今は受け取れません」
俺は立ち上がれなかった。
涙が止まらなかった。
全部、俺が壊した。
俺の真実の愛は、スミレにとって暴力だった。
その事実だけが、俺の心を食い破るのであった。
***
七里ヶ浜花純。
静流様が泣いていた。
私の婚約者だった人が。
私がずっと好きだった人が、姉様の名前を呼びながら、泣いていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが割れた。
私は本物の花純だ。
七里ヶ浜家の娘。母様に愛された娘。静流様の婚約者になるはずだった娘。ロイヤル・ブラッドの中心に戻るはずだった娘。
なのに、今この場で誰も私を見ていなかった。
静流様は姉様を見ていた。
ロイヤル・ブラッドのみんなは姉様を見ていた。
周囲の生徒たちも、姉様を見ていた。
私だけが……。
「じゃあ、中等部の花純様って、スミレ様だったんだ……」
「やっぱり。今の花純様、なんか違うと思ってた」
「前の花純様は優しかったよね」
「異界の亀裂で助けてくれたのも、スミレ様だったってこと?」
「ロイヤル・ブラッドをまとめていたのも、スミレ様?」
「じゃあ、今の花純様って……本物だけど、あの花純様じゃないんだ」
耳を塞ぎたかった。
本物だけど、あの花純様じゃない。
それが、何よりも残酷だった。
私は偽物じゃない。私は本物なのに。
なのに、みんなが欲しがっていたのは、姉様が演じていた花純だった。
私が眠っている間に、姉様は私の名前を使って友達を作った。静流様の心を掴んだ。ロイヤル・ブラッドをまとめた。学園の尊敬を集めた。
母様は言った。
『全部あなたのものよ』
違った。
返ってきたものは、全部空っぽだった。
でも、中身は全部、姉様についていった。
私はただ、姉様がいなくなった後に残された空っぽの席に座っていただけだった。
「花純ちゃん」
石神さんが私を呼んだ。
私は顔を上げる。
石神さんは苦い顔をしていた。優しい顔ではない。気まずい顔でもない。何かをはっきり区切ろうとしている顔だった。
「うちらが中等部で一緒におった子は、たぶんスミレちゃんや。ごめんな。あんたのこと、うちは何も知らん」
何も知らない。
その言葉が、思っていた以上に痛かった。
「……私が本物です」
「うん。それはそうやと思う」
「なら、私は……」
「でも、うちらが一緒に泣いて笑って戦ったのは、あんたやない。……だから、これからゆっくり友達になろうな」
石神さんの声は静かだった。
柳小路君も私を見た。
「悪いな。俺が背中預けた花純は、お前じゃねえ。……だが、一から始めればいい」
吐き捨てるような言い方ではなかった。
でも、だからこそ逃げ場がなかった。
西園寺さんは泣いていた。泣きながら、姉様の方ばかりを見ていた。
「私、スミレさんに謝らなきゃ……。私、本当に最低だった……」
どうして?
どうしてみんな、私じゃなくて姉様なの?
私は本物なのに。姉様は偽物だったのに。
静流様が、涙を流したまま姉様を見ている。
「スミレ……」
また、その名前。
私はたまらず一歩前に出た。
「静流様」
静流様は私を見た。
本当に一瞬だけ。
その目には、私への愛情なんてなかった。あるのは罪悪感と、気まずさと、どう扱えばいいかわからない戸惑いだけ。
「花純……」
私の名前を呼んだ。
でも、それは愛しい人の名前を呼ぶ声ではなかった。
私はその場で立ち尽くした。
静流様はすぐに、また姉様を見た。
静流様は私を好きだったわけじゃない。私の名前の中にいた姉様を好きだった。
私はずっと、姉様の影に恋をしていた人を追いかけていた。
「……ひどい」
声が漏れた。
ひどいのは誰だろう。
姉様?
静流様?
母様?
それとも、私?
全部だと思った。
私は姉様から奪われたと思っていた。
でも、本当は違う。姉様も奪われていた。私も奪われていた。母様に、七里ヶ浜家に、『花純であれ』という形に。
姉様は蓮夜様の隣に立っていた。
落ちこぼれだったはずの姉様。家から追い出されたはずの姉様。極楽寺家に生贄として送られたはずの姉様。
その姉様が、今は誰よりもまっすぐ立っていた。
私は、膝をついた静流様のそばにも行けなかった。
ロイヤル・ブラッドの輪にも戻れなかった。
どこにも居場所がなかった。
湧き上がる感情――それは……自分が惨めだという気持ちだった。
蓮夜様が姉様の手を取った。
「行こう、スミレ」
「はい」
二人は校舎へ向かって歩き出した。
七里ヶ浜家の術師たちが、道を開ける。
学園の生徒たちは誰も止めない。
ロイヤル・ブラッドも、静流様も、私も、ただ見送ることしかできなかった。




