化物
校舎の中は、ひどく静まり返っていた。
さっきまで学園中を巻き込むような騒ぎだったのに、理事長室へ向かう廊下だけは、不気味なほど音がなかった。
七里ヶ浜家の術師たちが、廊下の端に立っている。黒い装束に、七里ヶ浜家の紋。母様の命令を受けて動く人たち。私をスミレとしては見なかった人たち。
誰も私たちを止めなかった。
蓮夜様が歩くだけで、術師たちは少しずつ後ろへ下がる。私の手を握る蓮夜様の手は温かい。力は強すぎない。けれど、絶対に離さないという意志が伝わってくる。
絶華君は蓮夜様の肩に座っていた。
いつもより少しだけ静かだ。
「絶華君、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫じゃ。儂は龍じゃぞ。ちょっとこの場所が嫌いなだけじゃ」
「スミレこそ、大丈夫なのか」
「……大丈夫、だと思います」
本当は大丈夫じゃない。
この廊下を歩くたびに、私は子供の頃の自分に戻りそうになる。母様に呼ばれる時は、いつも良いことなんてなかった。叱責、命令、訓練、失敗、罰。花純として呼ばれる時だけ、優しい声があった。でも、それは私に向けられたものではない。
私はスミレだった。
だから、母様の声はいつも冷たくて、怖くて、逃げられないものだった。
「手が温かいな」
蓮夜様が静かに言った。
「えっと……」
「スミレの手の温度は、落ち着くんだ。……だから、これからも手を握ってくれ」
「……はい」
私は少しだけ強く握った。
「蓮夜様は、怖くないのですか」
「親父よりはましだ」
蓮夜様はすぐに答えた。
「それでも、七里ヶ浜麗華は油断できる相手ではない。自分の子供を平然と入れ替え、利用する人間だ。強さ以前に、考え方が危険だ」
「……そうです。母様は、そういう方です」
「だが、俺が隣にいる」
その言葉は、私の胸にすっと落ちた。
***
階段を上がる途中、ふと窓の外が見えた。
学園の校門前には、まだ人だかりができている。静流様はもう見えなかった。花純の姿も見えない。
静流様が膝をついて泣いていた姿が、頭に浮かんだ。
私の名前を呼んで、後悔で顔を歪めていた。あの姿を見ても、私は戻りたいとは思わなかった。けれど、何も感じなかったわけではない。
胸は痛かった。
私が花純だった頃、静流様と過ごした時間も、ロイヤル・ブラッドのみんなと笑った時間も、全部嘘だったとは思いたくない。
でも、それは私をここに引き止める理由にはならない。
私はスミレとして、前に進む。
廊下の壁には、台場異能学園の歴代功労者の写真が飾られている。その中に、母様の写真もあった。
七里ヶ浜麗華。
写真の中の母様は微笑んでいた。
その微笑みを見るだけで、背筋が冷たくなる。
蓮夜様は、私の歩幅に合わせて歩いてくれた。
私はずっと黙っていた。
今までも――。
黙っていれば、傷が浅く済むと思っていた。逆らわなければ、何かが終わると思っていた。母様の言うことを聞いていれば、いつか自由になれるかもしれないと思っていた。
でも、違ったんだ。
黙っているうちに、私の名前は奪われた。
私の居場所も、友達も、人生も、壊されていく。
だから、もう黙っていたくない。
理事長室のある階に着くと、空気が変わった。
廊下の奥に、重い木製の扉が見える。そこが理事長室。母様の部屋。何度も呼び出された場所。花純として褒められた場所。スミレとして叱られた場所。
扉の前には、二人の術師が立っていた。
どちらも七里ヶ浜家の最高位術師だ。
一人が私を見た。ほんの一瞬、目を細める。
「……スミレ様」
その呼び方が、少しだけ奇妙だった。
今までこの人たちは、私をそんな風に呼んだことがあっただろうか。
私が返事をする前に、蓮夜様が一歩前に出た。
「極楽寺蓮夜だ。七里ヶ浜麗華理事長に会いに来た」
術師は頭を下げた。
けれど、扉を開けない。
「理事長は、スミレ様お一人で入るようにと」
手の中で、蓮夜様の指がわずかに動いた。
怒ったのだと思う。
でも、声は静かだった。
「断る」
「しかし、理事長のご命令です」
「俺は七里ヶ浜家の者ではない。極楽寺家当主だ。七里ヶ浜麗華の命令を受ける立場にはない」
術師の顔がこわばった。
「また、スミレは俺の婚約者としてここに来ている。一人で入れろというなら、正式に極楽寺家への敵対意思と受け取る」
廊下の空気が重くなった。
蓮夜様は声を荒げていない。威圧もしていない。けれど、言葉の一つ一つが重かった。
「……確認いたします」
術師が小さな札を取り出そうとした。
その時、扉の向こうから声がした。
「必要ありません。入れなさい」
母様の声だった。
それだけで、身体が震えた。
私は唇を噛む。
「大丈夫だ」
小さく、蓮夜様が言った。
大丈夫。そう言われるだけで、私はまだ立っていられる。
術師たちが扉から離れる。
「入ります」
私は扉に手を伸ばした。
指先が触れる直前、もう一度だけ怖くなる。子供の頃の私が、心の奥で震えている。やめて。行かないで。母様に逆らわないで、と泣いている。
でも、今の私はその子に言える。
大丈夫。
あなたはもう一人じゃない。
重い扉が、音を立てて開いていく。
部屋の奥、窓際に母様が立っていた。
七里ヶ浜麗華。
白い着物に、淡い藤色の羽織。長い黒髪は綺麗に結い上げられている。相変わらず美しい人だった。
母様は私を見た。
その微笑みは、花純に向ける優しさでも、スミレに向ける侮蔑でもなかった。
私の中にある力を確認しているようで――
「あら、帰ってきたのね。私のかわいいスミレ」
全身に寒気が走るような、母様の言葉だった。




