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それなら私はこの家を出ます 〜あとは妹に全部任せればいいと思いますね   作者: 野良うさぎ(うさこ)


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20/20

化物




 校舎の中は、ひどく静まり返っていた。


 さっきまで学園中を巻き込むような騒ぎだったのに、理事長室へ向かう廊下だけは、不気味なほど音がなかった。


 七里ヶ浜家の術師たちが、廊下の端に立っている。黒い装束に、七里ヶ浜家の紋。母様の命令を受けて動く人たち。私をスミレとしては見なかった人たち。


 誰も私たちを止めなかった。


 蓮夜様が歩くだけで、術師たちは少しずつ後ろへ下がる。私の手を握る蓮夜様の手は温かい。力は強すぎない。けれど、絶対に離さないという意志が伝わってくる。


 絶華君は蓮夜様の肩に座っていた。

 いつもより少しだけ静かだ。


「絶華君、大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫じゃ。儂は龍じゃぞ。ちょっとこの場所が嫌いなだけじゃ」


「スミレこそ、大丈夫なのか」


「……大丈夫、だと思います」


 本当は大丈夫じゃない。


 この廊下を歩くたびに、私は子供の頃の自分に戻りそうになる。母様に呼ばれる時は、いつも良いことなんてなかった。叱責、命令、訓練、失敗、罰。花純として呼ばれる時だけ、優しい声があった。でも、それは私に向けられたものではない。


 私はスミレだった。

 だから、母様の声はいつも冷たくて、怖くて、逃げられないものだった。


「手が温かいな」


 蓮夜様が静かに言った。


「えっと……」


「スミレの手の温度は、落ち着くんだ。……だから、これからも手を握ってくれ」


「……はい」


 私は少しだけ強く握った。


「蓮夜様は、怖くないのですか」


「親父よりはましだ」


 蓮夜様はすぐに答えた。


「それでも、七里ヶ浜麗華は油断できる相手ではない。自分の子供を平然と入れ替え、利用する人間だ。強さ以前に、考え方が危険だ」


「……そうです。母様は、そういう方です」


「だが、俺が隣にいる」


 その言葉は、私の胸にすっと落ちた。



 ***



 階段を上がる途中、ふと窓の外が見えた。


 学園の校門前には、まだ人だかりができている。静流様はもう見えなかった。花純の姿も見えない。


 静流様が膝をついて泣いていた姿が、頭に浮かんだ。


 私の名前を呼んで、後悔で顔を歪めていた。あの姿を見ても、私は戻りたいとは思わなかった。けれど、何も感じなかったわけではない。


 胸は痛かった。


 私が花純だった頃、静流様と過ごした時間も、ロイヤル・ブラッドのみんなと笑った時間も、全部嘘だったとは思いたくない。


 でも、それは私をここに引き止める理由にはならない。


 私はスミレとして、前に進む。


 廊下の壁には、台場異能学園の歴代功労者の写真が飾られている。その中に、母様の写真もあった。


 七里ヶ浜麗華。


 写真の中の母様は微笑んでいた。

 その微笑みを見るだけで、背筋が冷たくなる。


 蓮夜様は、私の歩幅に合わせて歩いてくれた。


 私はずっと黙っていた。


 今までも――。


 黙っていれば、傷が浅く済むと思っていた。逆らわなければ、何かが終わると思っていた。母様の言うことを聞いていれば、いつか自由になれるかもしれないと思っていた。


 でも、違ったんだ。


 黙っているうちに、私の名前は奪われた。

 私の居場所も、友達も、人生も、壊されていく。


 だから、もう黙っていたくない。


 理事長室のある階に着くと、空気が変わった。


 廊下の奥に、重い木製の扉が見える。そこが理事長室。母様の部屋。何度も呼び出された場所。花純として褒められた場所。スミレとして叱られた場所。


 扉の前には、二人の術師が立っていた。

 どちらも七里ヶ浜家の最高位術師だ。


 一人が私を見た。ほんの一瞬、目を細める。


「……スミレ様」


 その呼び方が、少しだけ奇妙だった。


 今までこの人たちは、私をそんな風に呼んだことがあっただろうか。


 私が返事をする前に、蓮夜様が一歩前に出た。


「極楽寺蓮夜だ。七里ヶ浜麗華理事長に会いに来た」


 術師は頭を下げた。

 けれど、扉を開けない。


「理事長は、スミレ様お一人で入るようにと」


 手の中で、蓮夜様の指がわずかに動いた。

 怒ったのだと思う。


 でも、声は静かだった。


「断る」


「しかし、理事長のご命令です」


「俺は七里ヶ浜家の者ではない。極楽寺家当主だ。七里ヶ浜麗華の命令を受ける立場にはない」


 術師の顔がこわばった。


「また、スミレは俺の婚約者としてここに来ている。一人で入れろというなら、正式に極楽寺家への敵対意思と受け取る」


 廊下の空気が重くなった。


 蓮夜様は声を荒げていない。威圧もしていない。けれど、言葉の一つ一つが重かった。


「……確認いたします」


 術師が小さな札を取り出そうとした。


 その時、扉の向こうから声がした。


「必要ありません。入れなさい」


 母様の声だった。


 それだけで、身体が震えた。

 私は唇を噛む。


「大丈夫だ」


 小さく、蓮夜様が言った。


 大丈夫。そう言われるだけで、私はまだ立っていられる。


 術師たちが扉から離れる。


「入ります」


 私は扉に手を伸ばした。


 指先が触れる直前、もう一度だけ怖くなる。子供の頃の私が、心の奥で震えている。やめて。行かないで。母様に逆らわないで、と泣いている。


 でも、今の私はその子に言える。


 大丈夫。

 あなたはもう一人じゃない。


 重い扉が、音を立てて開いていく。


 部屋の奥、窓際に母様が立っていた。

 七里ヶ浜麗華。


 白い着物に、淡い藤色の羽織。長い黒髪は綺麗に結い上げられている。相変わらず美しい人だった。


 母様は私を見た。


 その微笑みは、花純に向ける優しさでも、スミレに向ける侮蔑でもなかった。


 私の中にある力を確認しているようで――





「あら、帰ってきたのね。私のかわいいスミレ」





 全身に寒気が走るような、母様の言葉だった。


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