私の帰る場所
「姉様……」
花純の声は小さかった。
私は花純を見る。昔のように見下してくる目ではなかった。怒りと嫉妬と不安と、何かよくわからない感情が混ざっている。
花純は私の妹だ。
私を生贄にしようとした妹。
私を落ちこぼれと罵った妹。
でも、母様に愛されるために必死だった妹。
私は花純を許せているわけじゃない。
でも、花純だけが全て悪いわけではないと、今なら少しだけわかる。
「花純、私は母様に呼ばれて来ました。あなたを責めるためではありません」
「……じゃあ、なんでそんな顔で立っていられるんですか」
「え?」
「なんで姉様は、そんな風にまっすぐ立っていられるんですか。私は……私は、うまくできないのに」
花純の声が少しだけ崩れた。
その瞬間、西園寺さんが一歩前に出た。
「あの……スミレさん」
私が花純だった頃の親友。私がスミレに戻ってから、私を蹴った人。
西園寺さんは唇を震わせていた。
「私、知らなかった。知らなかったからって許されるわけじゃないのはわかってる。でも、私……ずっと花純だと思って、だから……」
言葉が続かない。
西園寺さんの目に涙が浮かんでいた。
私は何も言えなかった。
謝られても困る。怒りをぶつけても、きっと何も変わらない。私が欲しかったのは、過去への謝罪だけじゃない。
もう一度、私を傷つけないでほしい。
ただ、それだけだった。
「スミレ」
柳小路君が低く呼んだ。
「俺は気づいてた。途中からだけどな。なのに何もできなかった。悪かった」
「私もや。ごめんな、スミレちゃん。わかってたつもりで、何もできんかった」
石神さんの声は震えていた。
藤沢君も、長谷君も、下を向いている。
ロイヤル・ブラッドの面々は、私が花純だった時の友人たちだった。
そして、スミレに戻った途端、私を見なくなった人たちでもあった。
周囲の生徒たちの中からも、ざわめきが広がる。
「だからおかしかったんだ」
「中等部の花純様と、今の花純様、全然違うと思ってた」
「待って、なら俺、スミレさんの悪口言ってたんだ」
「私も……」
「私、花純様に助けてもらったことある。あれがスミレ様だったなら……」
罪悪感。
周囲から感じる感情は、たぶんそれだった。
それは、私が花純だった時、みんなと一緒にいたからこそ生まれたものなんだと思う。
でも、その罪悪感が私を救うわけじゃない。
「……今は、謝罪を受け取れません」
私はゆっくりと言った。
声が震えないように、手首の時計に触れる。
「みんなが知らなかったのはわかっています。でも、知らなかったから何をしてもいいわけじゃないと思います。私はスミレになった途端、昨日まで話していた友達から嫌われました。悪口を言われて、蹴られて、叩かれて……それが、結構辛かったんです」
西園寺さんが泣きそうな顔になる。
静流様が何か言おうとしたけれど、私は続けた。
「私は初等部の頃からずっと落ちこぼれで、嫌われて、友達なんて誰もいませんでした。花純と入れ替わってから世界が一変したけど、それは花純のものです。誰もスミレを見てくれなかった」
胸が痛い。
でも、言葉は止まらなかった。
「だから、私はもう戻りません」
「スミレ、違う。俺は、俺だけは――」
「静流様」
私は静流様を見た。
かつて花純として婚約した人。静流様は私のことを愛していたと言う。でも、その愛は私の名前を持っていなかった。
「あなたの婚約者は花純です。私ではありません」
「違う! 俺が愛したのは君だったんだ! 俺はそれに気づいたんだ!」
「今さらです」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
静流様の顔が歪む。美しい顔が、嫉妬と焦りで崩れていた。
「その男が、極楽寺家が君を洗脳したのか? 君は俺のところに戻れば、前みたいに――」
「前みたいに?」
私は思わず聞き返した。
「前みたいに、花純として生きるんですか? あなたに愛されるために、花純の日誌を読み返して、花純の癖を真似して、花純として笑うんですか?」
「それは……」
「私はもう、花純にはなりません」
静流様は黙った。
花純は俯いている。
私の胸は痛い。
でも、前みたいに壊れそうな痛みではない。今の私は一人じゃないから。
蓮夜様が隣にいる。
それだけで、私は立っていられる。
「スミレ、俺は本気だ。君を救いたい。俺の父に頼んで、七里ヶ浜家との話もつけた。君が望むなら、次期当主の座だって――」
「望んでいません」
「どうしてだ!」
「私は、極楽寺家へ戻ります」
そう言った瞬間、周囲の空気が変わった。
正式な名前ではない。まだ私は七里ヶ浜スミレだ。けれど、今の私が選びたい場所は、もう決まっていた。
「スミレ」
蓮夜様が小さく私の名前を呼んだ。
私はそちらを見ない。見たら泣いてしまいそうだったから。
「私はスミレとして生きたいです。花純でも、七里ヶ浜家の道具でもなく、私として」
静流様の表情が変わった。
嫉妬。
怒り。
そして、捨てられた子供みたいな悲しみ。
「認めない……」
静流様が呪符を取り出した。
「静流! やめろ!」
石神さんが叫ぶ。
「認めない!!」
呪符が光を放った。
蓮夜様が私の前に出る。
「絶華」
「任せるのじゃ!」
蓮夜様の肩から現れた絶華君が、龍の鱗のような結界を広げる。
私たちに向かって飛んできた呪符は、その結界にぶつかり、火花を散らした。
周囲の生徒たちが悲鳴をあげる。
「龍……?」
「本物の龍なの?」
「極楽寺家は龍を使役しているのか?」
私は龍の鱗の向こうで、静流様を見ていた。
もう、彼の言葉で私の心は動かなかった。




