私が戻れば
極楽寺家に居候になってから、一ヶ月が過ぎた。
私には本当にもったいないほど、穏やかな日々だった。
朝起きて、稽古をして、学園に登校して、友達と過ごす。放課後は蓮夜様に付き合って異界の亀裂の管理を見学する時もあれば、なんとなく街を歩く時もある。
鎌倉異能学園にも、少しずつ慣れてきた。
リリーさんは毎日のように私をからかうけど、悪意はない。むしろ、人との距離を測るのが上手い人だった。絶華君は最初こそ私を警戒していたけど、最近はよく膝の上に乗ってくる。蓮夜様はそれを見るたびに少しだけ複雑そうな顔をしている。
エリさんは私の髪を結うのが好きらしい。誠士郎さんは厳しいけれど、私が無理をしようとするとすぐに止めてくれる。
蓮夜様は、変わらず静かにそばにいてくれた。
私と蓮夜様は婚約者。
でも、お互いまだそんな感じではない。恋や愛が何なのか、私はよくわからない。ただ、蓮夜様のそばにいるとすごく落ち着く。それだけは確かだった。
浜辺で一人、海を見ていた。
夕方の海は綺麗だった。台場の海とは違う。潮の匂いが強くて、波の音が近い。砂浜に座っていると、世界が少しだけゆっくりになる。
砂を踏む足音が後ろから聞こえた。
「ここにいたのか、スミレ」
「蓮夜様」
振り返ると、蓮夜様が紙袋を持って立っていた。
「誠士郎が夕食前に食べ過ぎるなと言っていたが、少しくらいなら構わないだろう」
「……それは、何ですか?」
「ハンバーガーだ。食べられるか?」
私は少しだけ笑ってしまった。
「夕食前ですよ」
「分かっている。だから一つだけだ」
「誠士郎さんに怒られます」
「その時は俺が怒られる」
蓮夜様は落ち着いた顔でそう言った。私はもう一度笑ってしまった。
隣に腰を下ろした蓮夜様から、ハンバーガーの匂いがした。海の匂いと混ざって、なんだか不思議な気持ちになる。
「最近、よく海を見ているな」
「はい。自分の人生を振り返っていました」
「……そうか」
「この一ヶ月、夢みたいでした。朝起きても叱られない。ご飯を食べても邪魔だと言われない。学園で話しかけてもらえる。稽古をしたら褒めてもらえる。……そういうことが、全部不思議です」
蓮夜様は黙って聞いてくれた。
「幸せって、こういうことなのかなって思います。でも、少し怖いです。幸せに慣れてしまったら、失った時に耐えられなくなりそうで」
「失う前提で考えなくていい」
「でも、私は……」
「スミレ」
蓮夜様は紙袋を置き、私を見た。
「ここはスミレの居場所だ。すぐに信じられなくてもいい。だが、出ていく前提で生きなくていい」
その言葉に、胸が痛くなった。
温かいから痛い。
優しいから苦しい。
「……ありがとうございます」
私はそれだけ言うのが精一杯だった。
蓮夜様の空気が少し変わった。何か大事なことを言おうとしている。私はそれに気づいた。
「何かあったのですね」
「分かるか」
「はい。蓮夜様は、隠すのがあまり上手ではないです」
「……そうか」
蓮夜様は小さく息を吐いた。
「七里ヶ浜家から連絡が来た」
心臓が一瞬、止まったような気がした。
「どんな、連絡ですか」
「極楽寺家との婚約を取りやめ、スミレを本家へ帰還させろ、とのことだ」
波の音が遠くなった。
「……帰らなければ、いけないのでしょうか」
「その必要はない。俺は拒否する。極楽寺家として、正式に抗議も出す」
「でも、母様は……」
「分かっている。七里ヶ浜麗華は危険だ。だが、だからといってスミレを差し出す理由にはならない」
蓮夜様の声は落ち着いていた。
だからこそ、嘘ではないとわかった。
「スミレは極楽寺家の客人であり、俺の婚約者だ。俺の家にいる限り、七里ヶ浜家の命令に従う必要はない」
「……はい」
そう答えたのに、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
母様に逆らう。
それは、私にとって自殺行為と同じだった。
***
夜、自分の部屋でスマホを握りしめていた。
花純から、初めてメッセージが届いた。
『スミレお姉ちゃん、お願い。戻ってきて。お姉ちゃんが戻らないと、私が殺されちゃう』
私はその文面を何度も読んだ。
母様が花純を殺すわけがない。そう思いたい。花純は母様の可愛い娘で、七里ヶ浜家の誇りで、母様が大切に育ててきた子だ。
でも、最近の母様なら何をしてもおかしくない気がした。
私が帰らなければ、七里ヶ浜家は極楽寺家に部隊を送るかもしれない。極楽寺家のみんなは強い。蓮夜様も、誠士郎さんも、エリさんも、街の人たちも。
でも、母様は化け物みたいに強い。
もし戦いになったら、誰かが傷つく。
蓮夜様が傷つくかもしれない。
それだけは嫌だった。
「……私が戻れば、誰も傷つかない」
声に出してから、胸が苦しくなった。
これは正しい答えじゃない。
わかっている。もし一人で勝手に出ていったら、蓮夜様は怒る。誠士郎さんも、エリさんも悲しむ。
でも、悲しみは時間が解決してくれる。
怪我や命は、戻らないかもしれない。
私は静かに部屋を出た。
夜分、片瀬江ノ島駅前。
ここまで来れば、あとは電車に乗って台場まで向かえばいい。構内を歩く足が重い。けれど、意思の力でねじ伏せた。
この一ヶ月、私は幸せだった。
本当に、本当に幸せだった。
だから大丈夫。この一ヶ月の思い出があれば、どんな場所でも生きていける。蓮夜様には申し訳ないけれど、きっと私より良い婚約者が見つかる。リリーさんだって、きっと――
そこまで考えて、胸がずきりと痛んだ。
改札が見えた。
私は足を止める。
改札の前に、蓮夜様が立っていた。
「……蓮夜様」
蓮夜様は怒鳴らなかった。
ただ、静かに私を見ていた。
「やはり来たか」
「……どうして」
「スミレなら、一人で行こうとすると思った」
私は何も言えなかった。
蓮夜様はゆっくりと歩いてきて、私の前で立ち止まる。
「スミレ。話をしよう」
その声は静かだった。
だから、私は逃げられなかった。




