35話 思わぬ邂逅と触れる逆鱗
「リリー……? リリーじゃないか!?」
唐突に、私の名を呼ぶ声が広い廊下に反響した――。
私は、その不快さに眉をひそめ、咄嗟にコルネリアと手を繋いだ。ハンスも瞬時に従者として控えつつ、不測の事態に備えて目を光らせている。
(おかしいわ。親しく呼び合う殿方なんて、ノーマン様以外にいたかしら……?)
心の中でそう呟いた。私は視線だけで、声がした方を追う。
そもそも仮に、近衛時代の知り合いだとしても、王城内で気軽に名で呼び止めるものではない。思うことは、ただひとつ。
(そうね、ここは――)
無視するに限るだろう。そもそも、彼の身なりは文官だ。私たちに気安く話し掛けられる場面ではないはず。私は静かにコルネリアへ視線をやった。
彼女の髪を彩るのはケディック家の家紋があしらわれた髪飾り。それだけで、コルネリアが高貴な身分だと分かるはず――。
しかし、彼は思いもよらない行動に出た。
彼は私たちが足を止めたのをいいことに、歩み寄って親しげに会話を始めたのだ。
「リリー。久しぶりだな」
しばしの沈黙。
コルネリアの冷たい視線が彼を射抜くも、どうやら伝わっていない様子。それどころか、彼はコルネリアやハンスのことなど視界に入れてもいないようだ。
私は冷たい声音で、言葉を発した。
「……失礼ですが、どなたでしょうか?」
「婚約してた仲じゃないか。ルシアンだ」
そう――思い出した。元婚約者のルシアン・ラグネル。すっかり記憶の彼方に追いやっていた。そんな彼が何故、王城にいるのか。
私はルシアンを冷ややかな目で見やった。ラグネル家の三男坊だった彼は今現在、文官として王城に勤めている――それは簡単に想像できることだ。
ただ、それがどうしたというのだろう。私は表情を動かさないまま、淡々と言葉を発する。
「仲、と言われましても困りますわ。とっくの昔に解消したのですから、名を呼ばれましても……」
空いた手を頬に当てて、首を傾げた。――下手な演技でも、しないよりはいいだろう。きっと私の所作はぎこちない。変な殿方に絡まれるのは、いい加減ご遠慮願いたいものだ。
私は、そのまま言葉を続けた。
「それに……、それほど親しく呼び合う仲でもございませんでしたわ」
これは事実。
すると、それを聞いたルシアンは平然と言い放った。
「そうだっか?」
場の空気が一気に冷え込む。
いつも温和なハンスから、ただならぬ気配を感じる。私はちらりと彼を見やる。互いに視線を交えて、小さく頷いた。
(これ以上はコルネリアにも悪影響だわ……。早く立ち去るのが賢明ね)
そう判断した私は、足を進めようと一歩踏み出す。
しかし――、ルシアンは私の前に立ちはだかったのだ。あからさまな妨害。まだ会話している途中だ、とでも言うように肩をすくませている。彼にとって、私はあの頃のままの「行き遅れ令嬢」なのだろう。
私はコルネリアに優しく語り掛ける。
「コルネリア。一足先に、サロンへ向かってくれる? すぐそこだから」
「……分かりました」
彼女は素直に頷いて、小さな手を名残惜しそうに離した。そして、パタパタと小さな足音をさせながらハンスの傍へ。――これでひとまずは安心だ。
私は目を細めながら、口を開く。
「ハンス、コルネリアをお願いね」
「かしこまりました」
口ではそう言うものの、何か言いたげなハンスの視線。私は苦笑するしかなかった。
元婚約者は去っていくコルネリアを見て、鼻で笑った。その態度に、私の眉がぴくりと動く。しかし、彼はそれにすら気付かず、意気揚々と口を開いた。
「歳の離れた妹君か?」
「私の可愛い娘ですわ」
すぐさま返した言葉に、ルシアンは目を見開いて驚いていた。
私はそんな彼の反応を気にする素振りも見せず、そのまま続ける。
「私、ノーマン・ケディック様と婚約いたしましたの。ご存知ない? それに、ここへは結婚の承認を賜りに参りましたのよ」
丁寧な口調で、ここまで言えば分るだろう。しかし、彼はさらに驚いた表情を見せたのだ。
ルシアンは悲壮感に満ちた表情を浮かべながら、わなわなと唇を震わせている。そんな彼がようやく発した言葉は――。
「ノーマン……、辺境伯殿のことか? あの……戦の狂人と? なぜ?」
衝撃だった。ノーマン様を罵る言葉を耳にしたのは――。
間髪をいれず、私は否定の言葉を口にする。
「聞き捨てなりませんわね。ノーマン様は国境を守護する騎士です。それに、私の憧れでもありましたから」
「リリー。君は王都から離れて久しいから知らないだろうが……。よくない噂が流れている。その……よしみで、教えてやるから……。その……、まだ王都にいるなら、僕と一緒に――!」
まるで何かに縋るように言葉を並べる彼に、私が抱く感情は何もない。彼の言葉に耳を貸すまでもなく、言うべきことは解りきっていた。
「結構ですわ」
私は冷たく言い放つ。そのまま彼の元を去ろうと足を進めようとした。
すると――ルシアンは何を思ったのか、私の手首を掴んだのだ。
「辺境伯なんて、戦に負ければ立場が危うくなるだけだろう!? なぁ、リリー!!」
彼は声を荒げながら、切羽詰まった表情で訴える。しかし、心に響くものは何もない。
先を急ごうとしていた矢先。強い力で後ろに引かれれば、私の体はバランスを崩す――こともなく。どうやら思った以上に、私の体は大幹がしっかりしているようだ。それには彼も驚いている。
だが、ルシアンはしっかりと私の手首を握ったまま、その場から動こうとしない。
そんな彼を尻目に、私は思考する。
(彼は何を必死になっているのかしら――? 可憐なご令嬢と婚約を結び直したものだとばかり……思っていたのだけれど)
どうやら、彼の思惑通りにはならなかったようだ。私は呆れたように溜め息をついた。
ルシアンはそんな私の表情を目にした途端、再び声を荒げ始めた。
「それに、あの娘だって! 辺境伯殿の娘ではないと噂が王都に広がっている……。そうなれば、貴族の身元を偽ったことに――」
「おやめになって!」
聞くに堪えない言葉の羅列だ。私は咄嗟に声を上げた。そのとき、廊下を行く侍女たちが息を呑む音が聞こえたような気がした。
(素手なら、ここで抵抗しても問題ないはず――。あの日とは違うもの……!)
ひびの入る物がティーカップから、彼の骨に変わるだけ。そう考えれば、言われ放題だったことにも報いることができるだろう。
ところが――ノーマン様を侮辱した言葉が、私の心を徐々に蝕んでいた。
(あぁ、駄目よ。ノーマン様を悪く言われたことに、いっそう怒りが――)
せめて、この怒りを抑えないと――と、私は唇を噛んだ。怒りに任せて抵抗してしまえば、力の加減を見誤ってしまうかもしれない。
そう、私はか弱い令嬢ではない。自らが振るう剣に誇りを持ち、コルネリアとノーマン様を愛しているのだ。
しかし――私の家族を侮辱し無体を働こうとする殿方をここで抑えることができずに、何が妻であり、母なのだろう。
(……加減なんてしていられない!)
そんな思いが、私の中に湧き上がっていた。私は捕まれた手首を捻り、ルシアンを捩じ伏せようと体を動かそうとした。
そのとき――。
「私の娘がどうかしたか? それに何故、私の妻に触れている?」
腹の底に響くような――怒気を含んだ声が、廊下に響いた。




