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第4話 おやすみ、できたね

「おはえりなさい(はぁと) 今日もお疲れがんばりましょう(はぁと)」


 《にこにこ門》が、


 ぱあっ。


 と花びらを開いた。


『あいさつが、じょうずです』


「じょうずじゃない」


 もう自分でも何を言ったのか分からなかった。


 帰ってきた夜勤の子へ、


「おかえりなさい」


 これから出かける朝勤の子へ、


「おはようございます」


 本来はそう言う。


 分かっている。


 分かっているのに、口から出たのは、


「おはえりなさい」


 だった。


 朝と夜を混ぜた。


 さらに、


「お疲れさまでした」


 と、


「今日もがんばりましょう」


 まで合体した。


 わたしの中で、始業と終業がひとつになりつつある。


 それでも門は褒めた。


『あいさつが、じょうずです』


「だから、じょうずじゃない」


『にこにこ、できています』


「そこじゃない」


 門は聞いていない。


 いつもにこにこしている。


 わたしもにこにこしている。


 違いは、門には意思がないことだった。


 たぶん。


 最近は自信がなくなってきた。


     *


 転生して三日目。


 勤務二日目。


 退勤回数、ゼロ。


 睡眠時間、ゼロ。


 借金、二きら。


 にこにこ率、百パーセント。


 胸には、虹色の《よくできました》。


 そして。


 金色の《よくできました》まで、


 あと六日。


「…………」


 わたしは胸のシールを見る。


 きら。


「違う」


 目を逸らす。


 門を見る。


《100%》


「違う」


 目を閉じる。


 金色のシールを想像する。


「違うって言ってるでしょう!」


「どうしたの?」


 ポポが聞いた。


「自分と戦ってる」


「どっちが勝ってる?」


「両方負けてる」


 目を閉じる。


 膝が、


 かくん。


 折れる。


「わ」


 目を開く。


 笑う。


「おはようございます(はぁと)」


 門が開く。


 目を閉じる。


 かくん。


 目を開く。


「今日もがんばりましょう(はぁと)」


 ぱあっ。


 閉じる。


 かくん。


 開く。


 笑う。


 閉じる。


 かくん。


 開く。


 笑う。


「きみ、楽しそうだね!」


「どう見たらそうなるの?」


 眠気は、わたしより先に退勤しようとしていた。


     *


 朝の列が半分ほど進んだころ。


 道の向こうから、薄紫色の猫みたいな子が歩いてきた。


 いや。


 歩いている、という表現には少し疑問がある。


 前へ進んではいる。


 ただし、積極的に進んでいる感じがまったくない。


 地面が後ろへ流れている結果、仕方なく位置が変わっているように見える。


 三角の耳は、片方だけ折れていた。


 毛には枯れ葉。


 パンくず。


 何かの種。


 黄色いエプロンは、ボタンを一段ずらして留めている。


 胸には、


《きれいきれい係》。


 そして箒。


「…………」


 逆さだった。


 柄の先を地面へ引きずっている。


 穂先は空を向いている。


 一粒も掃けない。


「おはようございます」


「おはよう」


「急がないと遅刻しますよ」


 反射で言った。


 完全に職場側の発言だった。


 薄紫の子は眠そうな目でわたしを見る。


「もう遅れてるよ」


「だから急ぐんです」


「急いでも遅刻だよ」


「…………」


「ゆっくり行っても遅刻だよ」


「…………」


「おなじだね」


「同じではない気がする」


 でも、すでに遅刻しているという一点だけを切り取れば同じだった。


 正しくない。


 正しくないのに、論理だけが綺麗につながっている。


「お名前は?」


「ノノ」


 一拍。


「たぶん」


「たぶん?」


「ちゃんと考えて答えるの、ちょっと面倒だった」


「自分の名前でしょう?」


「毎回おなじだから、だいたい合ってるよ」


「名前に概算を使わないで」


 ノノは門の前で、


 ぺたん。


 と座った。


「通らないんですか?」


「疲れた」


「まだ仕事始まってませんよ」


「始まる前から疲れてるから、効率がいいね」


「何の?」


「疲れるのの」


「効率化する対象を間違ってる」


     *


「《きれいきれい係》ですよね?」


「うん」


「どこを掃除するんですか?」


「《ぴかぴか広場》」


「もうお仕事始まってるのでは?」


「たぶん」


「行かないんですか?」


 ノノは遠くを見る。


 広場の方角。


 見た。


 それだけだった。


「昨日の汚れを今日きれいにしても」


「はい」


「今日また汚れるよ」


 右の前足が、


 ずる。


 外側へ開いた。


「だから今日掃除するんでしょう?」


「でも明日も汚れるよ」


 左の前足も、


 ずる。


 開いた。


「では、いつ掃除するんです?」


「汚れなくなったら」


 丸いお腹が、


 ぺた。


 地面についた。


「広場は毎日使われます」


「じゃあ、ずっと汚れるね」


 顎が、


 ぽす。


 地面についた。


 会話しているうちに、少しずつ潰れていった。


 問題は完全に理解している。


 解決する気だけが一切ない。


「…………」


 ノノの胸にパンくずがついていた。


 気づく。


 前足でつまむ。


 右を見る。


 左を見る。


 ゴミ箱を探しているらしい。


 ない。


「どうするんです?」


「うーん」


 ぱく。


 食べた。


「清掃員がゴミを内部処理した」


「なくなったよ」


「確かに」


 効率だけはいい。


 ノノは長い尻尾をくるりと丸める。


 枕にする。


 横になった。


「何してるんです?」


「寝る」


「ここで?」


「うん」


「仕事は?」


「寝たら行けないね」


「だから寝ないんです」


「どうして?」


「仕事に行けないから」


「うん」


「……うん、じゃない」


 ノノは片目だけ開けた。


「寝たら、おしごとに行かなくていいよ」


「…………」


 わたしは固まった。


 転生して三日。


 初めて聞いた発想だった。


 あまりに簡単。


 あまりに乱暴。


 あまりに美しい。


「…………もう一回」


「寝る?」


「その前」


「おしごと?」


「その間」


 ノノは少し考えた。


 考えるのも面倒そうだった。


「寝たら、おしごとに行かなくていいよ」


「…………」


 胸が震えた。


「天才?」


「ねむいよ」


「答えになってない」


 前世には、


《有給休暇》


 という似た言葉があった。


 発音すると上司の機嫌が悪くなる呪文だった。


     *


 ノノは、わたしをじっと見た。


「きみ」


「はい」


「昨日もいたね」


 どきっ。


「……いました」


「夜もいた」


「いました」


「いまもいる」


「います」


「ずっといるね」


「言わないで」


 この村へ来てから初めてだった。


 わたしが一度も帰っていないことへ気づいた子。


「なんで?」


「夜の《にこにこ係》がいないので」


「うん」


「夜も働いて」


「うん」


「そのまま朝になって」


「うん」


「朝の勤務が始まって」


「うん」


「昨日のごほうびをもらったら、生活費で全部消えて」


「うん」


「二きら借金になって」


「うん」


「でも百パーセントだったから、虹色の《よくできました》をもらって」


「うん」


「七日連続百パーセントだと金色が――」


 止まった。


 ノノがわたしを見る。


「なに?」


「なんでもない」


「金色が?」


「なんでもない!」


「欲しいの?」


「欲しくない!」


「そう」


 興味を失った。


 早い。


「……ちょっとは疑って」


「欲しくないなら、いらないね」


「正論で殴らないで」


 ノノはあくびをする。


「それで?」


「だから寝てない」


「なんで?」


「仕事中だから」


「寝れば?」


「仕事中です」


「寝ながらやればいいよ」


「寝たら仕事できないでしょう?」


「起きてても終わってないよ」


「…………」


 返せなかった。


 この子。


 すごく嫌。


 でも強い。


     *


 ノノが起き上がった。


 わたしの胸の《にこにこ係》を持ち上げる。


「なに?」


「これ」


「はい」


「《にこにこ係》って書いてある」


「そうです」


「《起きてる係》って書いてないよ」


「…………」


 脳の奥で、


 かち。


 何かが外れた。


「え」


「寝てもいいね」


「いや」


 待って。


 待って。


「笑顔が必要なの」


「笑ってるよ」


「起きてないと――」


「目、閉じてみて」


「え?」


「目」


 言われるまま閉じる。


「…………」


「そのまま」


「…………」


 しばらく待った。


 門が、


 ぱあっ。


 開いた。


『にこにこ、できています』


「え」


 目を開ける。


 閉じる。


 ぱあっ。


『にこにこ、できています』


 開ける。


「…………」


 閉じる。


 ぱあっ。


「…………」


 頬は生まれつき桃色。


 口元も生まれつき少し上がっている。


 つまり。


 意識がなくても。


 感情がなくても。


 心が折れていても。


 死ぬほど眠くても。


 かわいい顔が、決められた場所に置いてあれば。


『にこにこ、できています』


「…………」


 成立する。


 わたしは震えた。


「ノノ」


「なに?」


「これ」


「うん」


「不労所得では?」


「働いてるよ」


「寝てるのに!?」


「おしごと中に寝るから、働いてるね」


「言葉が邪魔!」


 喜び。


 絶望。


 喜び。


 絶望。


 感情が四回転した。


 丸い身体も一回転した。


「やった!」


 ころん。


「寝られる!」


 ころん。


「でも勤務扱い!」


 ころん。


「でも百パーセント!」


 ころん。


「でもこれでいいの!?」


 壁はないのに止まれなかった。


 ノノが前足で押さえた。


「忙しいね」


「感情が!」


     *


「寝る」


 決めた。


「でも百は落とさない」


 決めた。


「仕事はする」


 決めた。


「でも寝る」


「さっきから同じこと言ってるよ」


「大事なの!」


 金色シールまで、あと六日。


 ここで途切れたら、


 一日目からやり直し。


 でも。


 今寝なければ。


 たぶん金色を見る前に、わたしが《がんばり終わる》。


「両方取る」


「なにを?」


「睡眠と評価」


「欲張りだね」


「褒めないで」


「褒めてないよ」


「それはそれで傷つく」


 ノノは箒を見る。


 逆さのまま。


「これ使おう」


「掃除に?」


「寝るのに」


「道具の用途を守って!」


     *


 ノノは箒の柄を、わたしの背中へ差し込んだ。


「痛っ」


「痛い?」


「ちょっと」


「じゃあ少しずらす」


「そこは丁寧なんだ」


 箒が支柱になる。


 わたしの丸い身体が、


 ぐら。


 右へ傾く。


「倒れる!」


 箒がしなる。


 びよん。


 左へ戻る。


「わ!」


 びよん。


 右。


 びよん。


 左。


 ゆら。


 ゆら。


 ゆら。


 胸の大きな《にこにこ係》も遅れて揺れる。


 虹色の《よくできました》が、


 きら。


 きら。


「…………」


「どう?」


「遊園地の故障した乗り物」


「寝られそう?」


「無理」


 ノノは考えた。


 自分の頭の下から、長い尻尾を、


 ずる。


 と引き抜く。


 枕を失った頬が、


 ぽすん。


 地面へ落ちた。


「痛くない?」


「眠いから平気」


 尻尾を、わたしの頬の下へ丸めてくれる。


 ふわ。


「…………」


 柔らかい。


 温かい。


「なにこれ」


「尻尾」


「高級枕じゃん」


「いつもついてるよ」


「人生で初めて猫になりたいと思った」


「わたし猫じゃないかも」


「たぶんで生きすぎ」


 頬を預ける。


 ふかふか。


 身体は箒に支えられ、


 ゆら。


 ゆら。


 尻尾は温かい。


 風は柔らかい。


 目を閉じる。


「でも挨拶……」


「わたしが言う」


「ノノのお仕事は?」


「掃除より、ここでしゃべるほうが動かなくていい」


「親切じゃない」


「うん」


「でもありがたい」


「うん」


 善意ではなかった。


 だから信用できた。


     *


 目を閉じた。


 眠気が一気に押し寄せる。


「待って」


「なに?」


「百……」


「百?」


「数字……見てて」


「見ない」


「なんで!」


「数字見るの、おしごとじゃないから」


「お願い!」


「やだ」


「金色シールが!」


「欲しくないんでしょう?」


「欲しいよ!」


 言った。


 とうとう言った。


 ノノが目を細める。


「欲しいんだ」


「欲しい!」


「そう」


「そこ笑うところ!」


「面倒」


「この女!」


 でも限界だった。


「もし九十九になったら起こして」


「どうやって?」


「揺らして!」


「もう揺れてるよ」


「じゃあ叩いて!」


「痛そう」


「優しさを今出さないで!」


「じゃあ寝て」


「話が――」


 意識が落ちた。


     *


 夢を見た。


 前世。


 会社。


 夜。


 パソコン。


 上司が笑っていた。


『無理しないでね』


「はい」


『今日はもう休んでいいから』


「ほんとですか?」


『うん』


 嬉しい。


『パソコンだけつけておいて』


「…………」


『電話だけ出て』


「…………」


『メールだけ返して』


「…………」


『資料だけ直して』


「…………」


『寝てていいよ』


「…………」


『仕事しながら』


「それ寝てない!」


     *


「おはよう」


 声がする。


「今日も、できるぶんだけがんばって」


『がんばりが、たりません』


「じゃあ、いっぱいがんばって」


 ぱあっ。


 門が開く。


 わたしは眠っている。


 短い前足を誰かが持ち上げる。


 右。


 ふり。


 身体も箒を軸に、


 ゆら。


 左。


 ふり。


 ゆら。


「おはようございます」


 ノノの声。


 眠い。


「いっぱいがんばって」


 門。


 ぱあっ。


 わたしの手が振られる。


 ふり。


 ふり。


 完全に操り人形だった。


     *


 何人か通したところで。


「……つかれた」


 ノノが言った。


 代役まで疲れた。


 自分の尻尾は、わたしへ貸している。


 枕がない。


 ノノはわたしの背中へ、


 ぽす。


 寄りかかる。


「ちょっとだけ」


 目を閉じる。


 二秒。


 寝た。


 《にこにこ係》。


 睡眠中。


 代役。


 睡眠中。


 門。


 営業中。


     *


 桃色の耳をした小さな子がやってきた。


「おはようございます」


 返事がない。


「…………」


 わたしは寝ている。


 ノノも寝ている。


 桃色の子は少し待った。


 門も待った。


『にこにこ、してね』


 桃色の子が困った顔をする。


 それから。


 眠っているわたしの前足を、そっと持ち上げた。


「今日も、がんばるね」


 自分へ向けて、


 ふり。


 わたしの前足を振らせる。


 箒と一緒に身体が、


 ゆら。


 口元は生まれつき笑っている。


 桃色の子も笑う。


 ぱあっ。


 門が開いた。


『にこにこ、できました』


「やった」


 桃色の子は嬉しそうに門を通った。


 最後に、わたしの前足をお腹の上へ戻してくれた。


     *


 次の子が来る。


「おはよう」


 誰も起きない。


 少し考える。


 わたしの前足を持つ。


「がんばるね」


 ふり。


 にこ。


 ぱあっ。


     *


 その次。


「今日も行ってくるよ」


 ふり。


 にこ。


 ぱあっ。


     *


 その次。


 わたしの前足を持つ。


 自分の頭へ、


 ぽん。


 一回撫でさせる。


「えらい?」


 眠っているわたしは答えない。


 口元だけ笑っている。


「えへへ」


 満足した。


 門を通る。


     *


 その次の子は、わたしの前足を両方持った。


「いっぱい褒めて」


 ぽん。


 ぽん。


 ぽん。


 自分の頭を三回撫でた。


「ありがとう!」


 通る。


     *


 その次は、わたしの前足へ自分の頬を押しつけた。


「今日もかわいいって言って」


 返事はない。


「……言ったことにするね」


 にこ。


 ぱあっ。


     *


 いつの間にか。


 門の前に、新しい仕組みが完成していた。


 眠っている《にこにこ係》へ挨拶する。


 手を借りる。


 自分で自分を励ます。


 笑う。


 通る。


 誰も困らない。


 仕事は止まらない。


 《にこにこ係》本人の意識は必要ない。


 会話も必要ない。


 人格も必要ない。


 白くて丸い物体。


 桃色のリボン。


 笑っている口元。


 手だけ借りられればいい。


 村の入口には、


 ほぼ御神体が設置されていた。


     *


 昼の鐘。


 りん。


 りん。


 りん。


「っ!」


 目を開けた。


「百!」


 第一声だった。


「……最悪」


 自分でも引いた。


 門を見る。


《100%》


「…………」


 胸を見る。


 虹色。


 その下に、新しい小さな金色の印。


《れんぞく 2にち》


「…………」


「やった」


 小さく出た。


 泣きそうになった。


「違う!」


 感情が忙しい。


「寝た!」


 嬉しい。


「百!」


 嬉しい。


「勤務扱い!」


 怖い。


「連続二日!」


 嬉しい。


「違う!」


 怖い。


「あと五日!」


 嬉しい。


「違うってば!」


 自分の頬を両前足で挟んだ。


 むに。


 むに。


 《にこにこ門》が祝福するように花びらを広げた。


『にこにこ率、ひゃくパーセント』


「うん」


『にこにこ係、れんぞくおてつだい、ふつかめ』


「うん」


『おてつだいしながら、おやすみできました』


「…………」


 止まった。


「なんて?」


『おてつだいしながら、おやすみできました』


「いや」


 立ち上がる。


「私は休んでたの」


『おやすみ、できました』


「休んでた」


『おてつだいも、できました』


「それがおかしい!」


 ノノが背中から、


 ずる。


 落ちた。


「起きた」


「ノノ!」


「なに?」


「私、寝てたよね?」


「うん」


「仕事してないよね?」


「してたよ」


「してない!」


「ここにいたよ」


「それ勤務の定義として怖い!」


 ノノが拍手した。


 ぱち。


 ぱち。


「両方できて、えらいね」


「…………」


 少し嬉しかった。


「…………」


 すぐ気づいた。


「喜ぶところじゃない!」


 でも胸の《れんぞく 2にち》が光る。


「…………あと五日」


「欲しいんだね」


「もうそこは認める!」


     *


「でも」


 わたしは自分の身体を見る。


「何人通ったの?」


「いっぱい」


「どうやって?」


「途中からみんな自分でやった」


「何を?」


「きみの手を持って」


「は?」


「自分を褒めてた」


「は?」


「頭なでたり」


「は?」


「かわいいって言ってもらったことにしたり」


「…………」


 理解する。


 ゆっくり。


「私」


「うん」


「いらなくない?」


「寝てたね」


「違う。存在として」


「いたよ」


「置物として!」


「かわいかったよ」


「最悪の慰め!」


 寝ているだけで仕事が回った。


 むしろ起きているときより円滑だった可能性すらある。


 誰も長話しない。


 誰も相談しない。


 自分で自分を励まして勝手に通る。


「私が起きてる意味……」


 胸が、


 すう。


 冷える。


 前世でも。


 自分が休んだら職場が困ると思っていた。


 一日休んだ。


 次の日。


 普通に動いていた。


 メールも送られていた。


 会議も進んでいた。


 なんなら、自分抜きで決まったことまであった。


「…………」


 寂しい。


 自由になれるはずなのに。


 自分がいなくてもいいと分かった瞬間、


 寂しい。


「最悪」


 ノノがわたしを見る。


「寝られたよ」


「そうなの!」


 嬉しい。


「いなくても回った」


 悲しい。


「百パーセント」


 嬉しい。


「寝てた時間も勤務」


 怖い。


「連続二日」


 嬉しい。


「休めてない」


 怖い。


「あと五日」


 嬉しい。


「頭ぐちゃぐちゃ!」


「寝たら?」


「また勤務になる!」


     *


 そこへ、小さな子がやってきた。


 黒い葉っぱを何枚か持っている。


「ノノちゃん」


「はあい」


「《ぴかぴか広場》、まだ汚れてるよ」


「うん」


「今日できなかった分」


 黒い葉っぱを差し出す。


「《明日の自分とのおやくそく》だよ」


「はあい」


 ノノは気にせず受け取った。


 エプロンのポケットへ押し込む。


 ぐい。


 すでに黒い葉っぱが詰まっている。


「待って」


 ぐい。


「そこ入らない」


 ぐい。


「ノノ」


 ぶちっ。


 ポケットの底が破れた。


 次の瞬間。


 ばさあああああっ。


「えっ」


 大量の黒い葉っぱが舞い上がった。


 十枚。


 二十枚。


 いや。


 もっと。


 風に乗る。


 空を埋める。


 ノノの頭。


 耳。


 背中。


 尻尾。


 全部へ降り積もる。


 黒い山ができた。


「…………」


 山の上から、折れた耳だけ、


 ぴこ。


 出ている。


「何これ」


「おやくそく」


「見れば分かる!」


 わたしは葉っぱを一枚拾う。


《明日の自分とのおやくそく 12きら》


 別の一枚。


《明日の自分とのおやくそく 8きら》


 別。


《明日の自分とのおやくそく 17きら》


「桁!」


 もう一枚。


《きのうの自分から、あしたの自分へ》


「時間軸まで借金してる!」


 さらに。


《そのうちの自分とのおやくそく》


「債権者が概念になってる!」


 黒い山を見る。


「何きら借りてるの?」


「分からない」


 葉っぱの中から声。


「数えてないの!?」


「数えるのは《かぞえる係》のおしごとでしょう?」


「自分の借金!」


「わたし、《きれいきれい係》」


「その仕事もしてない!」


「うん」


 強い。


「怖くないの?」


「なにが?」


「返済!」


「明日のわたしが考えるよ」


「明日になったら?」


「明日のわたしが考える」


「それ今日のあなたでしょう!」


「じゃあ、ずっと明日のわたしが考えてくれるね」


「永久先送り機関!」


 わたしは頭を抱えた。


 そして。


 気づいた。


「……でも」


「なに?」


「ノノ、元気だね」


「眠いよ」


「私より全然元気」


「寝てるから」


「借金こんなにあるのに?」


「葉っぱだから重くないよ」


「精神的に!」


「せいしん?」


「…………」


 借金を抱えている。


 勤務態度は最悪。


 遅刻する。


 掃除しない。


 仕事中に寝る。


 返済額を把握していない。


 将来の自分へ全部丸投げ。


 それなのに。


 よく寝ている。


 ちゃんと食べている。


 生きている。


「…………」


 勤務態度は間違っていた。


 生存態度は、


 ものすごく正しかった。


「師匠」


「やだ」


「まだ何も頼んでない!」


「面倒そうだから」


「判断が早い!」


     *


 わたしは黒い葉っぱの山から、ノノを掘り出した。


「そういえば」


 ノノが言う。


「なに?」


「きみ、名前は?」


「名前?」


「ずっと《にこにこ係》って呼ばれてる」


「あ」


 忘れていた。


 この世界へ来てから。


 役職はある。


 借金もある。


 評価もある。


 連続勤務記録もある。


 限定シールまである。


 名前だけない。


「…………すごい世界」


「なにが?」


「個人情報より雇用情報のほうが先に揃った」


 前世の名前は、今の姿に似合わない。


「まだ決めてない」


「じゃあ、あとで決めよう」


「一緒に?」


「たぶん」


「その『あとで』来る?」


「あとになったら」


「怖い」


 でも少し笑った。


     *


「また来るよ」


 ノノが逆さの箒を引きずり始める。


「仕事へ?」


「たぶん」


「掃除する?」


「うーん」


「戻ってくる?」


「掃除したくなくなったら」


「それ、すぐじゃない?」


「じゃあ、すぐだね」


 ずる。


 ずる。


 逆さの箒。


 折れた耳。


 ポケットの底は破れたまま。


 黒い《おやくそく》を後ろへ何枚か落としていく。


「落ちてますよ!」


「あとで拾う」


「誰が?」


「拾う係」


「いるの!?」


 ノノは返事をしない。


 もう面倒になったらしい。


 来たときと同じ速さで去っていった。


     *


 わたしには。


 ポポ以外で初めて、


 顔見知りができた。


 友達と言うには少し早い。


 師匠と言ったら断られた。


 でも。


 眠らせてくれた。


 自分の尻尾まで貸してくれた。


 親切ではなかった。


 だからこそ、変に恩を感じなくてよかった。


「…………」


 胸の《れんぞく 2にち》を見る。


 睡眠。


 できた。


 休息。


 できていない。


 評価。


 百。


 連続記録。


 継続。


 仕事。


 勝手に回った。


 自分の存在意義。


 ちょっと傷ついた。


 気分。


 ぐちゃぐちゃ。


「まあ」


 姿勢を正す。


「寝たからいいか」


 これまでの人生で、もっと早く言うべきだった言葉かもしれない。


 次の子がやってくる。


 わたしは笑う。


「おはようございます(はぁと) 今日も笑ってがんばりましょう(はぁと)」


 そのとき。


 列の後ろから。


「おはようございます(はぁと) 今日も笑ってがんばりましょう(はぁと)」


「…………」


 聞き覚えのある声。


 ものすごく。


 というか。


 わたしの声だった。


 振り返る。


 空色の小さな鳥が立っていた。


 丸い身体。


 顔の周りだけ白い毛。


 桃色の小さなくちばし。


 二つに分かれた短い尾羽。


 わたしと同じ角度で首を傾けている。


「誰?」


「誰?」


「あなた」


「あなた」


「真似してる?」


「真似してる?」


「やめて」


「やめて」


「…………」


「…………」


 空色の子は、


 わたしとまったく同じ笑顔を浮かべた。


「おはようございます(はぁと) 今日も笑ってがんばりましょう(はぁと)」


 《にこにこ門》が、


 ぱあああっ。


 と開いた。


『にこにこが、おなじにできました』


「…………」


 眠っていても仕事が回る。


 そして今。


 起きている代わりまで現れた。


「待って」


 空色の子も言う。


「待って」


「嫌な予感する」


「嫌な予感する」


「私、これ以上いらなくならないよね?」


「私、これ以上いらなくならないよね?」


 《にこにこ門》は満面の笑みだった。


 胸の虹色シールも、


 きらきら光っていた。


 金色まで、


 あと五日。


 その前に。


 わたし自身が、


 業務上不要になりそうだった。

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