第2話 にこにこ、してね
「朝だよ。おしごとだよ。起きて」
黄色くて丸いポポが、朝日より先に部屋へ飛びこんできた。
「いや」
わたしは雲みたいなベッドへしがみついた。
「起きて」
「いや」
「遅れちゃうよ」
「遅れたい」
「おしごとが待ってるよ」
「待たせて」
「かわいそうだよ」
「仕事に感情を持たせないで」
異世界転生、二日目。
過労死してから初めて迎える朝だった。
正確には、過労死した翌日に仕事へ行く朝だった。
人生というものは、思ったより再放送が早い。
「昨日、無理しないって言ってたでしょう?」
布団の中から訴える。
「うん!」
「頑張らないとも言った」
「うん!」
「定時で帰るとも」
「うん!」
「なんで全部覚えてるのに迎えに来たの?」
「おしごとだから!」
強い。
善意で正面突破してくる。
「ポポ」
「なあに?」
「朝って何時?」
「おひさまが出る前」
「それは朝じゃなくて夜明け前」
「でも朝のおしごとの前だから、朝だよ」
世界の時間まで労働基準だった。
わたしは布団へ顔を埋めた。
「死にたい」
「だめだよ」
「なんで?」
「きのう死んだばっかりでしょう?」
「死者への配慮が独特」
ポポが掛け布団の端を引っぱった。
「起きて」
「いや」
引っぱる。
「いや」
さらに引っぱる。
「いやあああ――」
布団が、くるりと丸まった。
中のわたしも丸まった。
そのまま、
ころん。
ベッドから落ちる。
ころころころ。
壁へ、
ぽふん。
「起きられたね!」
「起こされたというより、梱包して発送された」
*
鏡の前で、桃色のリボンを首へ結んだ。
胸には、花形の《にこにこ係》。
昨日と同じく、身体に対して少し大きい。
名札の重みで右へ傾いた。
身体を左へ傾けて釣り合いを取る。
鏡を見る。
「…………」
可愛い。
やっぱり可愛い。
寝不足なのに可愛い。
目の下に隈がない。
肌荒れもない。
寝癖もない。
そもそも毛が全身に生えているので、どこからが髪かも分からない。
前世なら、睡眠不足の朝はコンシーラーを塗って、
《疲れてない顔》
を作っていた。
今は身体そのものが、
《元気でかわいいです》
と虚偽表示している。
「便利……」
「すっごく可愛い!」
ポポが拍手した。
ぱち。
ぱち。
三回目。
すかっ。
前足と前足がすれ違った。
「そうかな」
声が半音上がった。
知っていた。
自分でもそう思っている。
でも他人から言われるのは別腹だった。
「昨日より似合ってるよ!」
「昨日も似合ってた?」
「うん!」
「どっちが可愛かった?」
「どっちも!」
採点能力が低い。
「前の《にこにこ係》より?」
ポポが止まった。
「前の子?」
「耳、大きかった?」
「大きかったよ」
「私より?」
「うん!」
「…………」
朝から知る必要のない情報だった。
「でも、きみのほうが白いよ!」
「比較軸を変えないで」
「丸い!」
「それはたぶん同じ」
「転がるの上手!」
「長所にしないで」
それでも鏡をもう一度見た。
桃色のリボン。
白い毛。
花の名札。
「……まあ、悪くない」
「急ごう! もうすぐ、夜が明ける前からおしごとする子たちが来るよ」
「その文章、怖い単語を可愛い声で包まないで」
*
村の入口には、大きな花の門があった。
桃色の花びら。
中央には、まん丸い黄色の顔。
つやつやした目。
いつでも上がっている口角。
《にこにこ門》。
「趣味が悪い」
「かわいいでしょう?」
「かわいいから趣味が悪いの」
ポポは理解しなかった。
「この門はね、にこにこした子だけ通してくれるんだよ」
「なんで?」
「悲しい子や、怒ってる子を、そのままおしごとに行かせたらかわいそうでしょう?」
「……意外とまとも」
「だから、にこにこしてから行くの」
「まとも撤回」
ポポが門の横にある小さな札を指した。
《にこにこできた子は、じぶんから楽しくおてつだいへ向かった子です》
「待って」
「なあに?」
「笑ったら、自分から行ったことになるの?」
「うん」
「本人が『行きたくない』って言ってても?」
「にこにこしたら大丈夫!」
「便利だね、記録する側に」
笑顔とは、口角で押す同意ボタンらしい。
しかも取り消しボタンが見当たらない。
「で、私は何を?」
「みんながにこにこできるように、おてつだいするの」
「具体的には?」
「がんばってって言う」
「それだけ?」
「大変だったね、も言う」
「ほかは?」
「きっと大丈夫!」
「三種類しかない」
「すごいでしょう?」
「コールセンターのFAQより少ない」
朝の鐘が鳴った。
りん。
りん。
りん。
門の花びらが、
ぱあっ。
と全開になる。
左右の蔓が、ぐーっと伸びた。
一本が地面を叩く。
ぱん。
もう一本も。
ぱん。
「準備運動?」
「やる気いっぱいだね!」
「門にやる気を持たせないで」
地面が揺れた。
森の向こうから、
どどどどどどどど。
大量の小さな生き物が押し寄せてきた。
「えっ」
列ができる。
一列。
二列。
三列。
森の奥まで続いている。
「こんなに?」
「みんな、おしごとが大好きなんだね!」
「その結論になる?」
わたしは名札を見た。
《にこにこ係》。
嫌な予感が、順番待ちをせず最前列へ来た。
*
最初に来たのは、昨日、荷車につぶされていた茶色い子だった。
「あ」
「おはよう」
頭の葉っぱが一枚増えている。
治療なのかもしれない。
見た目はサラダの盛りつけだった。
両腕が、だらんと垂れている。
「腕、大丈夫?」
「上がらないよ」
「両方?」
「うん」
「荷車は?」
「引くよ」
「どうやって?」
「足が動くから」
「人体設計を雑に使わないで」
茶色い子が門へ進もうとする。
わたしは反射的に言った。
「今日は休んだほうがいいんじゃない?」
ぱたん。
門が閉まった。
「え」
花の顔は満面の笑みのまま。
『おやすみを、すすめました』
「ちゃんと機能するんだ」
少し感心した。
茶色い子の顔から血の気が引いた。
「だめ」
「え?」
「休んだら、あしたのごはんがないよ」
「…………」
「昨日のおてつだいも残ってるし」
「…………」
「今日休んだら、明日はもっといっぱいだよ」
「…………」
わたしは門を見る。
門はにこにこしている。
茶色い子を見る。
笑っていない。
ポポを見る。
にこにこしている。
「……なるほどね」
休める。
ただし、休んだ結果は本人が引き受ける。
制度としてはものすごく整っている。
整っている方向が最悪だった。
「どうしたら通れるの?」
茶色い子が聞いた。
「え」
「ぼく、笑えてる?」
「全然」
「じゃあ」
短い前足が、自分の口元へ伸びた。
指で両端を持つ。
ぐいっ。
無理やり上げる。
「こう?」
「それを笑顔と呼ぶの?」
ぱあっ。
門が開いた。
『にこにこ、できました』
「呼ぶんだ」
金色の粉が、
ふわあっ。
と舞う。
茶色い子の頭へ降る。
増えた葉っぱがきらきら輝いた。
『きょうも、じぶんから、おてつだいです』
「自分からではない」
門は聞いていなかった。
茶色い子が荷車を引いていく。
腕は動かない。
頭の葉っぱだけが、元気そうに揺れていた。
「…………」
「できたね!」
ポポが拍手した。
「何が?」
「最初のひとり!」
門の上に、小さな数字が浮かんだ。
《にこにこ率 100%》
「……なにこれ」
「今日、通った子がどれくらいにこにこできたかだよ!」
「評価あるの?」
「あるよ!」
数字が、きらきら輝く。
百。
パーセント。
「…………」
嫌だった。
こういうのは。
数字で評価されると、人は余計なことをする。
営業成績。
対応件数。
顧客満足度。
残業削減率。
研修受講率。
前世で何度も見た。
「別に気にしない」
「百パーセントだね!」
「だから?」
「すごいね!」
「まだ一人だから」
「でも百だよ!」
「…………」
ちょっとだけ嬉しい。
最悪だった。
*
「新しい係の子、かわいいねえ」
次に来た青い毛玉が言った。
「ありがとうございます」
反射で笑う。
百パーセント。
「前の子のほうが耳は大きかったけど」
「…………」
「どうしたの?」
「いえ」
笑顔を保つ。
「今日もがんばってくださいね」
「うん」
青い子が門をくぐる。
ふわふわの毛が、左右の花びらへ、
むぎゅっ。
挟まった。
「あれえ」
足だけ動いている。
毛の奥なので本体は見えない。
「大丈夫?」
「たぶん」
門の蔓が後ろへ回る。
青い子のお尻らしき場所を、
ぽん。
押した。
すぽんっ。
青い毛玉が栓みたいに抜け、向こう側へ飛んでいった。
『つぎのかた、どうぞ』
「門、結構乱暴だな」
百パーセント。
維持。
少し安心した。
なぜ安心した。
*
次に来た子は、身体より大きな二段のお弁当を抱えていた。
足しか見えない。
「おはようございます」
「おはよう」
「お顔は?」
「ここ」
お弁当が少し傾く。
上から三角の耳と、必死な笑顔がのぞいた。
『にこにこ、できました』
「判定甘いな」
「なに?」
「なんでもない」
その子はふらふらしている。
「重くない?」
「お昼には軽くなるよ」
「前向きだね」
「うん!」
「食べ終わったら帰りも楽?」
「帰りは空いた箱に、おしごとを入れて帰るよ」
「前向き発言の寿命が短い」
それでも笑っていた。
門を通る。
百パーセント。
*
「がんばってね」
次の小鳥へ言った。
「もう一回!」
「え?」
空色の小鳥が目を輝かせる。
「もう一回言って!」
「がんばってね」
「もう一回!」
「えらいね」
「もう一回!」
「今日も素敵だね」
「もう一回!」
門をくぐった小鳥が、空をぐるっと一周して列の後ろへ戻った。
「なんで戻るの?」
「もう一回言ってもらうの!」
「仕事行って」
「褒められてから!」
二周目。
「羽がきれい」
「もう一回!」
三周目。
「声がかわいい」
「もう一回!」
四周目。
「今日も……」
見る。
丸い。
青い。
嘴。
「くちばしが前についてるね」
「うん!」
小鳥は満足して飛んでいった。
「今のでいいの?」
「嬉しそうだったね!」
ポポが言う。
「褒め言葉って内容じゃないんだ」
前世にも似たような会議があった。
*
列は途切れない。
わたしは次第に慣れてきた。
「おはようございます(はぁと)」
笑う。
「今日もかわいいですね(はぁと)」
門が開く。
「えらい(はぁと)」
開く。
「すごい(はぁと)」
開く。
「大変だったね(はぁと)」
開く。
「でも、きっと大丈夫」
開く。
数時間後。
わたしは悟った。
この仕事、
めちゃくちゃ得意だった。
「はい、もうちょっと笑って(はぁと)」
「こう?」
「惜しい(はぁと) 口角あと二ミリ(はぁと)」
「こう?」
「かわいい(はぁと)」
ぱあっ。
「次の方どうぞ(はぁと)」
自分でも驚くほど手際がいい。
相手の目を見る。
疲れている。
聞かない。
「大変だったね(はぁと)」
相手が何か言う前に、
「でも大丈夫」
口元が上がる。
通す。
「次」
泣いている。
葉っぱで涙を拭く。
「せっかく可愛いお顔なのにもったいない(はぁと)」
笑う。
通す。
「次」
眠そう。
「今日だけ頑張ろ(はぁと)」
「昨日もそう言われた」
「じゃあ今日もおそろい(はぁと)」
意味はない。
でも相手が笑った。
通す。
「次」
すごい。
前世の経験が恐ろしいほど役に立つ。
問題を解決する必要がない。
話を最後まで聞く必要もない。
相手が笑えばいい。
そして、
《大変だったね》
《きっと大丈夫》
《今日もがんばって》
この三つで、だいたい処理できる。
「……私、天職かも」
『とても、じょうずです』
門が褒めた。
「ですよね?」
返事をした。
金色の粉が降る。
「へくしっ」
くしゃみ。
身体が、
ころん。
一回転。
「かわいい!」
ポポが叫ぶ。
「今のは事故」
「もう一回!」
「芸にしないで」
門の数字を見る。
《にこにこ率 100%》
まだ百。
「…………」
いい。
かなりいい。
いや。
よくない。
こういう数字は気にしてはいけない。
数字は人格ではない。
評価は人間の価値ではない。
前世で散々学んだ。
「百パーセント!」
ポポが言う。
「見れば分かる」
「すごいね!」
「まあね」
声が半音上がった。
終わっていた。
*
かたつむりみたいな子が来た。
ものすごく遅い。
一歩。
…………。
…………。
一歩。
門の蔓が地面を叩く。
とん。
とん。
とん。
「煽らないの」
門は笑顔のまま。
蔓だけが急いでいる。
かたつむりの子が、また一歩。
とん。
とん。
とん。
「プレッシャーかけない」
『にこにこして、おまちしています』
「言い方だけ丁寧にしないで」
わたしは持ち上げようとした。
『それは、はこぶ係の、おてつだいです』
「役割分担、こんなときだけ厳しい」
後ろの列が長くなる。
門が歌った。
『おはなしは、みじかく』
蔓が振られる。
『えがおは、すばやく』
「急かしてるじゃん」
でも数字は百パーセント。
後ろの子たちが待っている。
わたしはかたつむりの子へ笑った。
「大変だったね」
「うん」
「でも、きっと大丈夫」
「うん」
「今日もがんばって」
「うん」
「はい、笑って」
「うん」
にこ。
ぱあっ。
『じぶんから、たのしく、おてつだいです』
「行ってらっしゃい(はぁと)」
かたつむりの子が一歩進む。
門の向こうへ完全に抜けるまでに、そこからさらに朝の一割を使った。
数字は百。
わたしは数字を見ていた。
さっきより長く。
*
昼前。
とうとう門がわたしを褒めた。
『にこにこ係、とてもじょうずです』
花びらが開く。
金色の粉。
りんりん。
謎の小鳥まで飛んできた。
「なにこれ」
「お祝い!」
「何のお祝い?」
「上手だから!」
近くの子たちも拍手した。
「すごーい」
「新しい子なのに」
「百パーセントだって」
「かわいい」
「やっぱり似合ってる」
…………。
悪くない。
とても悪くない。
「まあ、前世でも接客は褒められてたので」
誰も聞いていないのに言った。
「こういうの、向いてるんですよね」
ポポが拍手する。
「すごい!」
「そんなでもないけど」
そんなでもあると思っていた。
「前の子も百パーセントだった?」
聞く。
「うん!」
「…………」
「ずっと!」
「…………」
「すっごくがんばったんだよ!」
競争相手はもう来ない。
それなのに急に負けた気がした。
「何日?」
「いっぱい!」
「具体的には?」
「いっぱい!」
「使えない」
わたしは門を見た。
《100%》。
なんとなく姿勢を正す。
「別に張り合ってないから」
「うん!」
「本当に」
「うん!」
「百なんて誰でも取れるでしょ」
「そうかな?」
「…………」
取る。
絶対取る。
死亡二日目に、新しい目標ができた。
*
朝の列の最後に、小さな灰色の子が立っていた。
耳はぺたりと伏せている。
長い袖から、前足の先だけが少し出ていた。
笑っていない。
「おはようございます(はぁと)」
わたしはいつもの笑顔を作った。
「……おはよう」
「今日もお仕事?」
「うん」
「じゃあ、にこにこしよっか(はぁと)」
「できない」
即答だった。
わたしの営業スマイルが一瞬止まる。
「どうしたの?」
「ぼく、大丈夫じゃないよ」
その言葉に、少しだけ胸が引っかかった。
昨日のお仕事が終わっていない。
今日のお仕事は増えた。
昨日から眠っていない。
灰色の子は淡々と言った。
「もう行きたくない」
後ろに列はない。
この子が最後。
「じゃあ……」
門を見る。
《にこにこ率 100%》
きらきら。
数字が光っていた。
「笑わなかったら、ここにいてもいい?」
「…………」
いい。
と言えばいい。
休める。
門はそういう仕組みだ。
明日の食事がなくなるかもしれない。
仕事が増えるかもしれない。
でも、それは――
「……今日は」
言いかける。
門の数字が目に入る。
百。
あと一人。
この子だけ。
いや。
違う。
そんなことで判断してはいけない。
百と九十九に意味なんてない。
ただの数字。
前世で何度も見た。
《達成率99.8%》
あと少し。
《顧客満足度4.9》
あと少し。
《目標未達 一件》
あと一件。
「…………」
灰色の子がわたしを見る。
「ここにいてもいい?」
わたしはしゃがんだ。
今の身体では、立っていてもほぼ同じ高さだった。
「ねえ」
「うん」
「今日休んだら、ごはんは?」
「ない」
「明日の仕事は?」
「増える」
「それ、困る?」
「困る」
「だよね」
灰色の子の目から、涙が一粒落ちた。
わたしは葉っぱを取る。
涙を拭く。
優しく。
ものすごく優しく。
「じゃあ」
笑った。
「今日だけ、行こっか」
自分の声が、前世の上司に少し似ていた。
「大丈夫」
灰色の子は首を振る。
「大丈夫じゃない」
「うん」
「眠い」
「うん」
「行きたくない」
「うん」
「もうやだ」
「うん」
全部聞いた。
聞いたうえで。
「でも、きっと大丈夫」
言った。
灰色の子が泣く。
門は開かない。
『にこにこが、たりません』
「分かってる」
わたしは灰色の子の頬に触れた。
「ほら」
「……?」
「ちょっとだけ」
自分の口角を上げて見せる。
「こう」
「できない」
「できるよ」
優しい声。
自分でも驚くほど優しい。
「かわいい顔してるから」
「……」
「少しだけでいい」
「……」
「ほんのちょっと」
「……」
「私も一緒に笑うから」
灰色の子は、短い前足で口元を持ち上げた。
涙で滑った。
一回目。
失敗。
二回目。
右だけ上がる。
「惜しい(はぁと)」
何が惜しい。
三回目。
口角が上がった。
ぱあっ。
門が開いた。
金色の粉が舞う。
灰色の子の涙へくっつく。
きらきら。
ものすごく可愛かった。
『にこにこ、できました』
灰色の子は泣いている。
『きょうも、じぶんから、おてつだいです』
自分からではない。
わたしが笑わせた。
拍手が起きる。
ポポも拍手する。
「できたね!」
灰色の子が門の向こうへ歩いていく。
小さな背中。
袖から出た前足で、何度も涙を拭いている。
「…………」
わたしは笑えなかった。
門が、
ぱたん。
と少し閉じた。
『にこにこ係の、にこにこが、たりません』
「うるさい」
蔓が足元を、
とん。
と叩く。
『にこにこ、してね』
「……はいはい」
口角を上げる。
ぱあっ。
門が開く。
金色の粉。
鐘。
『はい。じょうずに、できました』
門の上で数字が弾けた。
《ほんじつの にこにこ率》
《100%》
花火みたいに金色の星が飛び散った。
ポポが飛び跳ねる。
「百パーセント!」
「…………」
「すごい!」
「…………」
「初日なのに!」
「…………」
嬉しくない。
嬉しいはずがない。
最後の子は泣きながら仕事へ行った。
わたしが笑わせた。
記録の上では、
《悲しいまま仕事へ行った子》
は一人もいない。
全員、
《自分から楽しくおてつだいへ向かった》。
完全な嘘だった。
「……最低」
「え?」
「なんでもない」
百という数字を見る。
きらきらしている。
胸の奥が、
ほんの少しだけ、
嬉しかった。
「…………最低」
「なにが?」
「私」
「すごいよ?」
「それがもう最低」
ポポは意味が分からず、また拍手した。
わたしは理解した。
この世界はかなり地獄だった。
そして。
わたしは地獄への適応が、かなり早かった。
*
それから午後も笑った。
「大変だったね(はぁと)」
笑う。
「きっと大丈夫」
笑う。
「今日もがんばってね(はぁと)」
笑う。
自分でも少し怖いくらい、仕事が速くなった。
相手が、
「実は昨日――」
と言い始める。
「大変だったね(はぁと)」
まだ何も聞いていない。
「でも――」
「きっと大丈夫」
「何が――」
「今日もがんばって(はぁと)」
笑った。
通した。
次。
もう完全に業務だった。
*
日が傾いた。
空が桃色になる。
森へ夕日が沈む。
最後の子を送り出す。
『ほんじつの、にこにこ率。100%』
「よし」
思わず拳を握った。
直後に、自分で気づいた。
「……何がよしなの?」
「百パーセント!」
「知ってる」
「すごいね!」
「まあね」
もう反省していなかった。
門の花びらが、眠そうに半分閉じる。
「終わった……」
肩から力が抜けた。
今日一日で何回笑ったのか分からない。
頬が疲れた気がする。
毛なので表情筋がどうなっているのか知らないけれど。
「帰ろ」
「うん!」
「ごはん食べて」
「うん!」
「お風呂ある?」
「水浴び場ならあるよ!」
「妥協する」
「それから寝よう!」
「最高」
初めてポポと完全に意見が一致した。
そのとき。
遠くで鐘が鳴った。
ごーん。
「…………」
嫌な音だった。
根拠はない。
でも社会人には分かる。
退勤直前に鳴る音は、だいたい良くない。
暗くなった森の奥に、
ぽこ。
小さな明かりが浮かぶ。
もう一つ。
ぽこ。
その後ろにも、
ぽこ。
ぽこ。
ぽこぽこぽこぽこぽこぽこ。
「なに、あれ」
「夜のおしごとの子たち!」
「聞きたくなかった」
ランタンだった。
小さな身体より大きなランタンを持った子たちが、森からぞろぞろやってくる。
暗闇の中を、明かりだけが歩いているように見える。
半分閉じていた《にこにこ門》が、
ぱあああああっ。
朝より元気に全開になった。
「なんで元気になったの?」
「夜のおしごとだもの!」
「門にもシフト制を導入して」
わたしはポポを見た。
「夜の《にこにこ係》は?」
「まだ見つかってないよ」
「…………」
「どうしたの?」
「じゃあ、この子たちは誰が通すの?」
ポポが首を傾げた。
「きみ」
「違う」
「きみだよ」
「違う」
「でも《にこにこ係》でしょう?」
「昼の」
「昼の?」
「朝から夕方までの」
「どうして?」
「人間はそういうものだから」
「きみ、人間じゃないよ」
痛いところを突かれた。
「じゃあ、勤務時間は?」
「朝の『おはよう』から、夜の『おやすみ』まで」
「今、夜」
「うん」
「おやすみ」
「まだだよ」
「言ったよ?」
「最後のおしごとが終わったら、おやすみだよ」
「…………」
「だから最後までおしごとしたら、最後のおしごとが終わるよ!」
完璧な循環論法だった。
「ごはん持ってきたよ!」
ポポが大きなパンを抱えてきた。
わたしとほぼ同じ大きさ。
パンの後ろから耳だけ出ている。
「食べながら、にこにこしていいって言ってたでしょう?」
「それを休憩と呼んだら労働法が泣く」
「ろうどうほう?」
「この世界にはいない神様」
先頭のランタンが近づく。
下から、小さな顔が出た。
「おはよう!」
夜なのに。
わたしは巨大なパンを抱えた。
眠い。
疲れた。
帰りたい。
でも門の上には、まだ金色の数字が残っている。
《100%》
夜の一人目が、わたしを見る。
「にこにこ係さん?」
「…………」
「どうしたの?」
わたしは笑った。
完璧に。
「おはようございます(はぁと)」
門が、
ぱあっ。
と開く。
「今日もがんばりましょう(はぁと)」
『にこにこ、できました』
夜勤の子が嬉しそうに通っていく。
門の数字が変わらなかった。
《100%》
「…………よし」
言ってから、
もう訂正しなかった。
異世界にも、夜はあった。
わたしにあるとは限らなかった。
それでも、
にこにこ率は、
まだ百パーセントだった。




