第6話 森から来た少女
「一本!」
ボルグの声が響いた。
ガルドの棒の先が、カイルの左腕に当たっていた。
棒が当たった瞬間、ガルドの顔がぱっと輝いた。
「当たった! 父ちゃん、見たか!?」
「見てたから一本って言ったんだろうが。朝から何度も叫ぶな」
「カイルにも勝ったぞ!」
「一本取っただけだ。さっきまで三本続けて取られてたのは、もう忘れたのか?」
ガルドは一瞬だけ黙り、すぐにカイルへ向き直った。
「でも、今のは俺の勝ちだよな!」
「うん。今のはガルドの勝ちだよ」
カイルも笑って認めた。
三か月前なら、カイルが肩を動かしただけでガルドは棒を振っていた。今は足元まで見ている。左へ回ると見せかけたカイルが右足へ重心を移した瞬間、先回りするように踏み込んできた。
まぐれではない。
「もう一回だ!」
「今日はここまでだ。二人とも、朝飯を食ったら薪割りを手伝え」
ボルグが二本の棒を取り上げる。
ガルドは不満そうに父親を見上げた。
「やっと勝ったのに!」
「続きは明日だ。今日は薪割りが残ってる」
「もう一本だけ!」
「だめだ。お前の『もう一本』は、一本で終わらねえ」
ガルドは口を尖らせた。カイルが笑うと、ますます不満そうな顔になる。
悔しさはない。むしろ胸が弾んでいた。
三か月前には力任せだった相手が、こちらの動きを見て先を読んだ。次は、同じ入り方を使えない。ガルドが一つ覚えるたびに、カイルも別の手を試せる。
前世で部下たちと稽古していた頃の楽しさが、少しずつ戻ってきていた。
「ほら、帰るぞ。ベルタの飯がなくなる」
ボルグが稽古場を出ようとした時、村の北側から犬が吠えた。
一匹ではない。家々の軒先にいた犬が、次々に声を上げている。
ボルグは担いでいた棒を下ろした。
「ガルド。カイルと一緒にいろ」
さっきまでの笑いが、声から消えていた。
カイルは北へ目を向けた。
ヴェルンには、村を囲む壁も門もない。街道から外れた集落とはいえ、人が来れば最初の家までそのまま入ってこられる。
街道から村へ続く荷車道を、二十人を超える集団が歩いていた。
先頭には弓を背負った男がいる。その後ろを、荷物を積んだ二台の手押し車と、山羊を引く女たちが続く。子どもも多い。一番小さな子は母親に抱かれ、年長の子は寝具らしい毛皮を背負っていた。
襲撃に来た者たちではない。
だが、旅の途中とも思えなかった。鍋、毛布、弓を作る道具まで運んでいる。家を離れてきた者の荷物だ。
「父ちゃん、あいつら誰だ?」
「まだ分からん。勝手に近づくなよ」
「聞きに行けば分かるだろ」
「お前は、知らない奴に弓を向けられてから考えるのか?」
ボルグは近くにいた団員へガレスを呼ぶよう頼み、自分は荷車道へ向かった。
カイルとガルドも、言われたとおり少し離れて後を追う。
集団は最初の家並みに差しかかる前に立ち止まった。先頭の男が自分から弓を外し、地面に置く。
「ハルトじゃねえか」
駆けつけたガレスが男の名を呼んだ。
ハルトと呼ばれた男は、張り詰めていた肩をわずかに下ろした。
「久しぶりだ、ガレス。頼みがあって来た」
「後ろの家族も一緒か?」
「六家族、二十五人いる。冬の間だけでも、ここへ置いてほしい」
ガレスは、疲れた顔で立っている者たちを見渡した。
「山で何があった?」
「長雨で斜面が崩れた。家を二軒と炭焼き小屋を失った」
「家を建て直しても、山には残れないのか?」
ハルトは北へ続く街道を振り返った。
「住む場所だけなら何とかなる。だが、猟道が土砂で埋まり、獲物も山の奥へ移った。このままでは冬を越せない」
三か月前、ヴェルンの倉庫を崩した雨は、山にも降っていた。
カイルは目の前の荷物を見直した。手押し車には弓材らしい細長い木、なめす前の獣皮、炭を入れた袋が積まれている。持ち出せる物を選び、残りを諦めてきたのだろう。
「飯を分けてもらうだけのつもりはない」
ハルトは続けた。
「俺たちは狩りができる。炭も焼けるし、革もなめせる。冬までに働いた分は、必ず返す」
「それを決めるのは、食料と寝床を確かめてからだな」
ガレスは振り返り、エレナの姿を探した。
ちょうど共同厨房の方から、エレナとベルタが歩いてくる。事情を聞くと、エレナはまず人数を確かめた。
「二十五人のうち、子どもは何人?」
「十一人だ。一番下は二歳。怪我人はいないが、二人が熱を出している」
「今夜の食事は出せるわ。空いている小屋だけでは足りないから、三家族には団の集会所を使ってもらいます」
答えを聞いたハルトの顔が、初めて緩んだ。
「助かる」
「今夜の食事と寝床は用意します。明日からのことは、食料と仕事を確認してから決めましょう」
エレナはそう付け加え、熱を出した者から厨房へ案内するようベルタへ頼んだ。
「病人と小さい子を先に連れてきな! 温かい物を食べさせるよ!」
ベルタの声を聞いた子どもたちが、一斉に共同厨房を見た。
それまで大人の後ろへ隠れていた小さな男の子が、母親の服を引く。
「あっち、いい匂いがする」
「聞こえてるよ! ちゃんと全員分あるから、押さないで来な!」
張り詰めていた空気に、わずかな笑いが生まれた。
カイルも息をついた。
その時、荷物を積んでいた山羊が突然鳴いた。
見慣れない犬に吠えられ、引き綱を持つ少女の手から逃れたのだ。背に載せた籠を揺らしながら、家と家の間へ走ろうとする。
荷車道の右側には人が集まり、左側には空の桶が積んである。その間に、共同厨房へ抜ける細い隙間があった。
カイルは左へ走った。
同時に、少し離れた場所から少女が飛び出す。
肩までの黒髪を後ろで束ね、短い弓を背負っていた。少女は山羊を追わず、桶の前へ先回りする。
山羊は一度右へ首を振ったあと、少女の待つ左へ跳ねた。
カイルが反対側から道を塞ぐ。逃げ場を失った山羊は足を止め、少女に綱をつかまれた。
「ほら、もう暴れないで」
少女は山羊の首を撫でてから、カイルを見た。
視線が顔で止まらない。肩、腰、足元まで一度に見られた気がした。
「どうして、そっちへ来たの?」
少女が先に尋ねる。
「山羊が隙間を見てたから。あそこへ逃げると思ったんだ」
「右を向いてたよ」
「右は人が多かった。首を振る前から、前足は左へ向いてたよ」
少女は山羊の足と、カイルが立っていた場所を見比べた。
「私も、そう思った」
「だから先に桶の前へ行ったんだね」
少女の目が少し大きくなる。
追いついてきたガルドが、二人の間から山羊をのぞき込んだ。
「俺なら綱をつかめたぞ」
「追いかけたら、もっと逃げるよ」
少女はすぐに言い返した。
「逃げても俺の方が速い!」
「山羊の方が速いよ」
ガルドは山羊の脚を見てから、自分の足へ目を落とした。
「ナディア!」
ハルトが呼ぶ。
「山羊を頼む。荷物は俺たちで運ぶ」
「分かった、父さん」
ナディアは綱を持ち直した。
カイルより少し背が高い。
「俺はガルド。六歳だ。さっきの稽古で、カイルから一本取った」
「俺も六歳。カイルだよ」
「私はナディア。七歳」
ナディアは山羊を連れて歩き出した。数歩進んだところで振り返る。
「さっき言ってた稽古、今度は近くで見てもいい?」
「いいよ」
カイルが答えるより早く、ガルドが胸を張った。
「次は俺が勝つところを見せてやる!」
「一本だけじゃなくて?」
「全部だ!」
ナディアは今度こそ、声を出して笑った。
◇
翌朝、ガレスとエレナはハルトたちを共同厨房へ集めた。
一晩休んだ者たちの顔には、昨日より血の気が戻っている。温かい鍋を食べた子どもたちは、ヴェルンの子どもに交じって庭を走っていた。
エレナが木板へ人数を書きながら尋ねる。
「狩りに出られる人は何人?」
「俺を含めて七人だ。弓を引ける者はほかにもいるが、子どもと年寄りを山へ連れていくつもりはない」
「炭焼きと革仕事は?」
「炭焼きは四家族、革は三家族ができる。燻製なら全員が手伝える」
ハルトは質問ごとに答えた。人数を大きく見せようとも、できない仕事まで引き受けようともしない。
ガレスは腕を組んだ。
「東の森に獣が増えてる。畑を荒らす猪も出た。狩りを頼めるか?」
「できる。ただし、毎日入れば春まで獲物が残らない。猟場を三つに分けて、順番に休ませたい」
「森を休ませるのか?」
「獲り尽くせば、来年は何もいなくなる」
カイルは黙って聞いていた。
前世でも、資源を使い切る部隊は長く戦えなかった。狩りも同じだ。ハルトは目の前の冬だけでなく、来年の猟場まで考えている。
「炭は、今まで使っていた物より火が長く持つ?」
カイルが尋ねると、ハルトは少し考えてから答えた。
「木による。東の森なら、黒樫が使える。乾かす時間はかかるが、火は長く持つ」
「鍛冶場の炉にも使える?」
「使える。料理に使うなら、煙の少ない木を混ぜた方がいい」
ガレスがカイルを見る。
「もう炭の使い道を考えてるのか」
「厨房の薪も減ると思う。鍛冶場の火も強くできるよ」
ハルトの隣にいた男が、初めて話へ加わった。
「窯を作る場所があれば、十日ほどで最初の炭を出せる。山で使っていた道具も持ってきた」
昨日、手押し車へ積まれていた道具だ。
彼らは食べさせてもらうためだけに、ヴェルンへ来たのではない。仕事を持ってきている。
話し合いの結果、狩人七人には東の森の巡回と害獣駆除を頼むことになった。既存の弓使い二人も同行し、この土地の獣道と水場を覚える。
炭焼き窯は、森から村へ火が移らない場所を選んで作る。革を扱う作業場は、臭いと汚れた水が井戸へ入らないよう、村の下流側へ置く。
エレナは仕事ごとの報酬と、最初の一か月に渡す食料を書き留めた。
炭焼き窯を作る場所は、翌朝、ガレスとマルクも東の森へ行って確かめることになった。カイルも同行を許された。
「これなら、冬だけと言わず残ってもらった方が助かりそうね」
「俺たちも、家族を何度も移したくはない」
ハルトは答えた。
「春まで働いて、互いに約束を守れると分かったら、その先も相談したい」
「それでいい」
ガレスが右手を差し出す。
ハルトはその手を握った。
外では、ナディアがヴェルンの子どもたちに囲まれていた。誰かが投げた木の実を、落ちる前に次々とつかんでいる。
ガルドが自分にも投げろと騒ぎ、額で受けて笑われていた。
カイルは共同厨房の戸口から、その光景を見ていた。
三か月前まで、ヴェルンは遠征へ出る傭兵と、その帰りを待つ家族の村だった。
今は、住む場所を失った人々が、冬を越すためにやって来た。彼らが持ち込んだ弓、炭、革、森の知識は、ヴェルンに今までなかった仕事へ変わろうとしている。
人が増えれば、必要な食料も家も増える。
それでもカイルは、目の前の賑わいを負担だとは思わなかった。
この村には、まだ増やせるものがある。
食べ物も、仕事も、守る力も。
「カイル!」
外からガルドが呼んだ。
「ナディアが、俺の動きなら全部分かるって言うんだ! 違うって教えてやってくれ!」
「全部とは言ってないよ。右へ来るか左へ来るか、顔を見れば分かるって言ったの」
「同じだろ!」
「全然違うよ」
カイルは笑いながら二人のところへ向かった。
ナディアは言い合いをやめ、カイルの袖を引いた。
「父さんから聞いた。明日、東の森へ行くんでしょう?」
「うん。ハルトさんたちが炭を焼く場所を見に行くよ」
「川の向こうに、白っぽい土が出るところがあるよ。父さんが、炭窯の壁に混ぜると割れにくいって言ってた」
カイルは足を止めた。
高い熱に耐える粘土なら、炭窯だけに使う必要はない。
「そこにも案内してくれる?」
「いいよ。私の方が道を知ってるから、ちゃんとついてきてね」
ナディアは得意げに笑った。
森から来た親子は、ヴェルンに弓と炭だけを持ってきたわけではなさそうだった。




