第5話 怪力の幼なじみ
「カイル、遅いぞ!」
朝日が村の屋根を照らし始めた頃、ガルドの声が稽古場に響いた。
ヴェルンの外れにある、傭兵たちが稽古に使う空き地だ。踏み固められた地面の中央で、ガルドが短い木の棒を握っている。
隣に立っている大柄な男が、ガルドの頭を軽くはたいた。
「遅くねえ。お前が早すぎるんだ。朝飯の支度が始まる前から、人を呼びに行きやがって」
古参槍兵のボルグ。ガルドの父親だ。
日に焼けた腕には古い傷が何本も走り、手には子ども向けに短く切った棒がもう一本あった。
「だって、逃げるかもしれないだろ!」
「誰が逃げるって?」
「カイルだよ!」
二人そろってカイルを見た。
「逃げないよ。約束したから来たんだ」
カイルが答えると、ガルドは満足そうに笑った。ボルグは息子とカイルを見比べ、持っていた棒を差し出す。
カイルは受け取る前に、長さと太さを確かめた。腕より少し長い。表面はきれいに削られ、握る場所にささくれもない。
「朝飯前に子どもの喧嘩を見る羽目になるとはな。カイル、今ならまだやめてもいいぞ。うちの馬鹿は、止まれと言われて止まれるほど器用じゃねえ」
「止まれる!」
「昨日、梁を下ろす時にガレス団長から怒鳴られただろうが」
「梁はちゃんと下ろした!」
「地面がへこんでたぞ」
ガルドが口を閉じた。
どうやら怪力の扱いを心配しているのは、カイルだけではないらしい。
「やるよ」
カイルは棒を受け取り、右手で軽く振った。
前世では銃も刃物も扱った。警棒に近い武器で相手を制圧した経験もある。だが、今の腕は短く、握る力も弱い。前世と同じつもりで振れば、棒の重さに手首を持っていかれる。
両手で握り直し、足を肩幅に開く。腰を落としすぎず、前後へ動ける位置を探した。
カイルが足幅を調整する様子を見て、ボルグがわずかに目を細める。
「持ち方は知ってるみてえだな」
「父さんが稽古してるところを見てたから」
カイルは、父の稽古を見て覚えたことにした。
ボルグは追及せず、二人の間へ立った。
「強く叩く必要はねえ。先に棒を胴へ当てるか、相手を倒した方が勝ちだ。頭は狙うな。倒れた相手を叩くのもなし」
ボルグは最後にガルドへ顔を向ける。
「お前は夢中になると、父ちゃんの声まで聞こえなくなるからな」
「聞こえてる!」
「まだ何も言ってねえよ」
「今、言っただろ!」
「そういうところだ」
ボルグが笑う。ガルドは何が違うのか分からない顔をしたが、すぐに棒を構え直した。
腰の高さで両手に持ち、先をカイルへ向ける。構えは父親から習っているらしい。
ただし、膝は伸びきり、上体が前へ傾いていた。今にも飛び出しそうだ。
「始め!」
ボルグの手が下がった。
ガルドは右足で地面を強く蹴り、一息で間を詰めた。棒を持った両手を上げ、カイルの左肩へ振り下ろしてくる。子ども同士の勝負でも、まともに受ければ棒ごと腕を押し込まれる。
カイルは左足を斜め前へ出し、ガルドの右肩の外へ回った。
振り下ろされた棒が、すぐ脇を通り過ぎる。
カイルはすれ違いざまに、棒の先をガルドの脇腹へ当てた。
だが、ガルドの身体は止まらない。空振りした勢いのまま二歩進み、足をもつれさせて地面へ転がった。
土煙が上がる。
ボルグは駆け寄らなかった。ガルドが自分で顔を上げるのを見てから、腹を抱えて笑い出す。
「止まれるんじゃなかったのか!」
「今のは、カイルが逃げたからだ!」
ガルドは鼻の頭についた土を手の甲で拭い、勢いよく立ち上がった。
「勝負なんだから、避けるよ」
「棒で受けるだろ、普通!」
「お前が本気で振った棒を、カイルが受け止められるわけねえだろ。そんなことも分からねえで振ったのか」
ボルグに言われ、ガルドはカイルの細い腕と、自分の太い腕を見比べた。
「でも、俺は一回も当ててない」
「そうだな。殴るのは得意なくせに、止まるのは下手だ」
ボルグの言い方に腹を立てたのか、ガルドはすぐに棒を拾った。
「もう一回!」
負けた理由を考える前に、同じ突進を繰り返すなら断るつもりだった。
だが、ガルドは先ほどより足を広げた。棒を胸の前で構え、今度はカイルから目を離さない。
「次は走らない。お前が来るまで待つ」
自分が止まれなかったことを、もう理解している。
カイルは口元が緩むのを抑えられなかった。
怪力だけではない。ガルドは一度の失敗で、次に変える場所を自分で選べる。
「いいよ。もう一回やろう」
「お前ら、朝飯は待ってくれねえぞ」
そう言いながら、ボルグも二人の間へ戻った。先ほどより楽しそうな顔をしている。
「始め!」
二度目は、どちらも動かなかった。
ガルドは棒の先をカイルへ向けたまま、じっと足を止めている。飛び込んでこないだけで、先ほどよりずっと攻めにくい。
カイルは棒を身体の正面へ置き、ゆっくり右へ動いた。
ガルドも向きを変える。慌てて追わず、正面を外さないように足を運んでいた。
足元ばかり気にしているわけでもない。カイルの肩と棒を見比べている。
たった一度負けただけで、ガルドは突進をやめ、相手の動きを待つことまで覚えた。
カイルの胸に、久しく忘れていた高揚が戻ってきた。
前世では、訓練のたびに部下たちがこちらの癖を探してきた。同じ手で二度倒せば、次には必ず対策を持ってくる。カイルもまた、部下が持ち込む対策を上回る方法を考え続けた。
六年ぶりに、目の前の相手が自分の動きを見ている。
カイルは左足を半歩だけ前へ出した。
棒の先を下げ、ガルドの右脇へ視線を向ける。右脇を狙うように肩もわずかに沈めた。
ガルドは動かない。
先ほどのガルドなら、もう飛び込んでいた。今度はカイルの誘いを警戒し、両足を地面へ残している。
カイルはさらに一歩入り、左肩をガルドの間合いへ入れた。
棒が触れる距離まで近づけば、待つだけでは先に打たれる。
ガルドが棒を振った。
狙いは、カイルが見せた左肩だった。
カイルは踏み込むはずだった左足を後ろへ引いた。棒が目の前を横切る。すぐに右足を前へ出し、戻りきらないガルドの胸へ棒の先を触れさせた。
「勝負あり!」
ボルグの声が飛ぶ。
ガルドは今度こそ踏みとどまった。振り切った棒を抱えたまま、胸に当たった棒の先を見下ろす。
「今度は転ばなかったな」
ボルグが言うと、ガルドはすぐに顔を上げた。
「でも負けた!」
「一つ直したら、何もかも勝てると思うな。欲張りすぎだ」
「カイルは、俺が打つって分かってたのか?」
ガルドが尋ねてくる。
「分かってたよ。左を狙うように見せたから」
「なんで俺が左を打つんだ?」
「左肩を近づけたから。ガルドが動かなかったら、俺の棒が先に届いてたよ」
ガルドは自分が立っていた場所と、カイルの足跡を交互に見た。負けたことへ怒るより、何が起きたのかを知ろうとしている。
ボルグが地面へ残った跡を、棒の先で示した。
「最初よりはましだ。今度は転ばずに止まれた。カイルが近づくまで、ちゃんと待てたしな」
「じゃあ、もう一回やれば勝てるか?」
「さあな。だが、今のお前なら最初のお前には勝てる」
ガルドはしばらく考えたあと、急に笑った。
「じゃあ、次は今の俺より強くなればいい!」
「立ち直るのだけは早えな」
ボルグも笑い、ガルドの髪についた土を乱暴に払った。
カイルは二人のやり取りを聞きながら、何度か深く息を吸った。
短い勝負を二度しただけなのに、腿が熱く、棒を握る指にも疲れが出ている。二度目に足を引いた時は、前世の感覚より身体が遅れた。
六歳の身体でも、相手の動きを読んで先手を取れた。前世で何度も繰り返した読み合いを、もう一度できた。
ただ、二度続けただけで脚が重い。歩幅も狭く、棒を握る力も足りない。成人兵と正面から打ち合えば、動きを読めても身体ごと押し切られる。
カイルは手の中の棒を握り直した。胸の奥が熱くなる。子どもらしく喜んでいるふりではなかった。
「俺ともやるか?」
ボルグが自分の胸を親指で指す。
「今は無理だよ」
「お、ちゃんと分かってるじゃねえか。ガルドなら、負けた直後でも飛びかかってくるぞ」
「俺はまだやれる!」
「ほらな」
ガルドが棒を構え直そうとしたところで、ボルグが額を指で弾いた。
「今日は終わりだ。ガルド、お前は棒を戻すのが遅え。外した後、胸ががら空きだったぞ。明日は、振ったらすぐ構えに戻す練習だ。カイル、お前は走れ。動きは分かってるのに、脚がついてきてねえ。まずは走り込みだ」
カイルはボルグを見上げた。
二度の勝負だけで、身体の遅れまで見抜かれている。ボルグは子どもの勝負だからと、気を抜いて眺めていたわけではない。
「父ちゃんは?」
「俺はお前らの稽古を見てやる。危ねえ真似をしたら止めるし、間抜けな動きをしたら、たっぷり笑ってやるよ」
「教えろよ!」
「笑った後でな」
ボルグは二本の棒を受け取り、肩へ担いだ。
「明日も朝飯前だ。ガルド、まだ暗いうちにカイルを起こしに行ったら、お前だけ稽古場を走らせるからな」
「走る!」
「罰だぞ。喜ぶな」
ガルドは返事をする代わりに、稽古場の端へ向かって走り出した。
「おい、今から走れとは言ってねえ! 朝飯が先だ!」
「じゃあ、食ったら走る!」
ボルグは大きく息を吐き、息子の後を歩き出した。カイルも笑いながら続く。
握った手には、まだ棒の感触が残っていた。
明日の朝も、またガルドと戦える。




