第3話 崩れる倉庫
# 第3話 崩れる倉庫
カイルが共同厨房から飛び出すと、雨の向こうで倉庫の屋根が傾いていた。
戸口に近い柱が折れ、屋根の片側が落ちている。崩れた壁から麦袋が押し出され、泥の上へ転がっていた。
倉庫の前では、エレナが中へ入ろうとする男たちを止めていた。
「待って! まだ屋根が動いているわ!」
雨音に混じって、木が軋む音が続いている。
カイルは倉庫へ駆け寄りながら、崩れる直前に見た人影を思い返した。中へ入ったのは倉庫番と、麦袋を運んでいた若い団員。それから、木札を届けに来た倉庫番の息子だった。
「母さん、中に三人いる!」
「分かっているわ。ロッタがガレスを呼びに行ったところよ」
エレナは声を張りながらも、倉庫から目を離さなかった。
手には雨で濡れた木札が握られている。三人に倉庫の中を確かめさせたのは、エレナだった。
正面の戸は、落ちた梁と袋で半分塞がっている。右側の壁には大きな亀裂が走り、雨水を吸った土壁が崩れ続けていた。
男の一人が斧を持ち上げた。
「戸口を広げるぞ!」
「今は壊さないで!」
カイルの声に、男が振り返る。
「このままじゃ入れねえだろ!」
「戸の上の梁が屋根を支えてる。斧を入れたら、残っている屋根まで落ちるよ」
男は斧を下ろさなかった。六歳の子どもの言葉だけで、救助を止めるわけにはいかない。
だがエレナが、戸口の上へ目を向けた。
梁の中央から、細かな木屑が落ちている。
「斧を下ろして。ガレスが来るまで、勝手に壊さないで」
男は歯を食いしばり、斧の柄を握ったまま後ろへ下がった。
倉庫の中から、子どもの泣き声が聞こえた。
「父ちゃん! 暗いよ!」
倉庫番の息子、八歳のテオの声だった。
エレナが戸口へ近づく。
「テオ! 怪我はない!?」
「足が痛い! 父ちゃんが返事しない!」
声は戸口から遠くない。左側に積んでいた豆袋の近くだ。
カイルは、崩れる前の倉庫を思い浮かべた。
中央には荷を運ぶ通路があり、左右に低い木の台が並んでいる。テオが木札を置きに行ったのは、左手前の台だった。若い団員は奥から麦袋を運び、倉庫番は右奥で傷んだ袋を調べていた。
折れたのは戸口寄りの柱。屋根が落ちたのは右半分。なら、左手前には人が通れる空間が残っている。
崩れる前の配置へ、テオの声と梁の軋みを重ねる。
テオの声が返ってくる方向を確かめる。屋根を打つ雨音と足元へ伝わる振動まで拾うと、見えていない柱や梁の位置が分かった。
前世でも、壁越しの音から人の位置を絞ったことはある。しかし、ここまで鮮明に空間を組み上げられたことはなかった。
今は考えている場合ではない。
「テオは左の壁の近くにいる。正面からまっすぐ行かないで、入ったら左へ寄れば屋根が残ってる」
エレナが息子を見る。
「分かるの?」
「声が聞こえる場所と、崩れる前にいた場所を覚えてる」
嘘ではない。だが、声と記憶だけで梁や柱の位置まで分かるはずがない。カイル自身が一番よく知っていた。
人が残っていると分かっているのに、子どもの振りを続けて黙っている気はなかった。
蹄の音が近づき、ガレスが馬から飛び降りた。後ろから団員たちも走ってくる。
「中は何人だ!」
「三人よ。テオの声は聞こえる。残る二人は返事がないわ」
エレナが答えると、ガレスは倉庫と集まった男たちを見回した。
「中へ入るのは俺と二人だけだ。残りは縄と角材を持ってこい。屋根を見張る者も一人残せ! 傾いたらすぐ叫べ!」
二人が資材置き場へ走り、一人は倉庫から離れて屋根全体が見える場所へ立った。
「父さん、正面の梁は動かさないで。左側なら通れる」
ガレスは戸口から左側をのぞき、残っている屋根を確かめた。
カイルも後を追おうとした。
だが、ガレスに肩をつかまれた。
「お前は外だ」
「でも、中の場所は分かる」
「だから、ここから教えてくれ。中へ入るのは俺たちだ」
悔しかった。前世の身体なら、自分が先頭に入っていた。今の腕では梁を動かせず、怪我人を抱えて出ることもできない。
ガレスは革兜をかぶり、盾を頭上へ構えて戸口に入った。二人の団員も同じ格好で続く。落ちてくる木片から頭と背中を守るためだ。
カイルは戸口の外から声をかける。
「入ったら左。袋を二つ越えた先にテオがいるよ」
ガレスたちの姿が暗がりへ消える。
「いたぞ!」
ほどなく、ガレスがテオを抱えて戸口から出てきた。右の足首から血が流れていたが、意識ははっきりしている。
「父ちゃんを助けて!」
テオはガレスの上着をつかんだ。
「助ける。お前はここで待ってろ」
ガレスはテオをエレナへ預け、すぐに倉庫へ向き直った。エレナが少年を毛布で包み、ベルタが傷口へ清潔な布を当てる。
テオは立ち上がろうとしたが、痛めた足をついた途端に顔を歪めた。ベルタがその肩を支え、毛布の上へ座らせる。
「その足じゃ行けないよ! あんたの父ちゃんは、ガレスたちが連れてくる。ここで待ちな!」
テオは唇を噛み、涙を拭いながらうなずいた。
カイルは倉庫へ意識を戻す。
奥から、低いうめき声が聞こえた。
若い団員だ。中央通路の奥、倒れた袋の近くにいる。
「父さん! 奥で声がした。中央の通路!」
ガレスが再び中へ入る。今度は縄を持った団員が続いた。
倉庫の右側で木が鳴った。
見張りに立った男が叫ぶ。
「右の屋根が下がったぞ!」
「全員、出ろ!」
カイルより先に、ガレスの声が飛んだ。
中へ入った二人が戸口まで戻る。直後、右の壁が泥の上へ崩れ落ち、麦袋がいくつも外へ転がった。
救助に集まった男たちが、袋を拾おうと駆け出す。
「麦は後だ! 中の三人を先に出す!」
ガレスの一喝で、男たちは足を止めた。
屋根の動きも止まっている。
カイルはうめき声がした位置を思い返した。若い団員がいたのは、中央通路の右寄り。壁が外へ崩れたことで、上から押さえていた土と板が減っている。
「今なら右の壁があったところから近づけるよ。袋を運んでいた人は、倒れた袋の下にいる」
ガレスは崩れた壁の向こうをのぞいた。
「確かに足が見える。縄をこっちへ回せ!」
麦袋を一つずつ退けると、若い団員が姿を現した。腰まで袋に埋まり、折れた棚板が肩へ乗っている。
男たちが棚板へ手をかける。
「待って。急に持ち上げないで」
カイルは棚板の上を見た。さらに奥から落ちた袋が重なっている。板だけを動かせば、袋が若い団員へ滑り落ちる。
「上の袋を縄で止めてから、板を上げて。持ち上げたら、すぐ下に角材を入れるんだ」
エレナが同じ言葉を、男たちへ向けて言い直す。
「先に袋を縄で止めて! 板の下へ入れる角材も用意してちょうだい!」
二人が袋へ縄を回し、別の二人が端を引いた。ガレスたちが棚板を持ち上げ、空いた隙間へ角材を差し込む。
若い団員は引きずり出されると、泥の上へ仰向けになった。顔をしかめているが、手足は動いていた。
男はガレスの腕をつかんだ。
「親方が、俺を通路へ突き飛ばしたんだ。自分は奥に残って…」
最後まで言えず、激しく咳き込む。エレナが横へ寝かせ、もう話さなくていいと肩へ手を置いた。
「あと一人だ」
ガレスが息を吐く。
倉庫番からは、まだ返事がない。
カイルの頭に浮かぶ倉庫では、右奥の天井が低く落ちていた。倉庫番がいた場所には、太い梁と棚が重なっている。
それでも、完全には潰れていない。
「倉庫番は右奥にいる。梁の下に空いている場所がある」
「見えるのか?」
ガレスが初めて聞き返した。
「見えない。でも、右奥だけ雨音が違う。屋根が床まで落ちていたら、あんな音はしないよ」
ガレスは崩れた壁の前で耳を澄ませた。
「俺には雨しか聞こえねぇ」
「いるよ。早く助けて!」
ガレスは一度だけカイルを見て、うなずいた。
「分かった。右奥だな」
崩れた壁から入る前に、男たちは残った屋根を支える梁の下へ太い角材を立て、根元を木片で固めた。完全に直すためではない。救助の間だけ、屋根が落ちないように支えるためだ。
ガレスと二人の団員が、梁の下へ身体を滑り込ませる。
父の背中が暗がりへ消えた瞬間、カイルは呼び止めそうになった。
前世では、何度も部下を危険な場所へ送り出した。自分が先頭に立ったこともある。それでも今、崩れかけた倉庫へ入ったのは父だった。
カイルは声を飲み込み、屋根の軋みに耳を澄ませた。ガレスを戻せば、倉庫番を助けられない。
やがて暗がりから声が上がった。
「生きてるぞ!」
倉庫番は棚と梁の隙間に倒れていた。頭から血を流し、意識を失っていたが、胸は動いている。
梁を無理に持ち上げず、周りの板と袋だけを退ける。人が通れる幅ができると、ガレスが倉庫番の身体を引き寄せた。
三人が崩れた壁から戻った直後、支えに使った角材が低く鳴った。
「離れろ!」
全員が倉庫から離れる。
残っていた屋根が沈み、角材の上で止まった。
雨の中へ、倉庫番を寝かせる。エレナが鼻と口元へ手を寄せ、胸の動きを確かめた。
「息はあるわ」
ガレスが大きく息を吐き、周りから安堵の声が漏れた。
テオが父親の名を呼ぶ。倉庫番は目を開けなかったが、握られた指がわずかに動いた。
三人とも、生きて倉庫から出た。
カイルはようやく息を吐いた。握りしめていた拳を開くと、爪の跡が掌に残っていた。
エレナが駆け寄り、カイルを抱きしめた。
濡れた服も泥も気にせず、両腕へ力を込めている。
「無事でよかった」
「ぼくは入口から動いてないよ」
「分かってるわ。それでも、あなたまで中へ入るんじゃないかと思ったの」
カイルは母の肩越しに、崩れた倉庫を見た。
何も触れていないのに、柱と梁の位置が今も頭の中に残っている。前世の経験だけでは説明できない。
テオは父親の手を両手で握り、何度も名前を呼んでいた。
「三人とも、帰ってこられたね」
エレナの腕に、さらに力が入った。
◇
雨は夜明け前に止んだ。
倉庫番は夜中に目を覚まし、最初にテオの居場所を尋ねた。隣の寝台にいたテオが手を伸ばすと、父親は何度もその手を握り返した。
若い団員も肩を痛めていたが、朝には自分で椀を持ち、温め直したカイルの鍋を飲んだ。
濡れずに済んだ麦袋は、共同厨房や空いている家へ運ばれた。水を吸った袋は中身を布の上へ広げ、乾かせる麦を選り分けた。倉庫は屋根の半分と壁を失い、もう荷物を置ける状態ではなかった。
朝食の後、ガレスはカイルとエレナを崩れた倉庫の前へ呼んだ。
「昨日、倉庫の中で何が起きてるか、分かってたのか?」
「人がいた場所も、梁が落ちた場所も分かったよ。どの柱が残ってるかも」
ガレスは折れた柱を見たあと、カイルへ向き直った。
「分かった。建て直す前に、気づいたことを全部教えてくれ。もう二度と、村の連中を危ない目に遭わせたくねえ」
カイルは崩れた倉庫の周りを見渡した。雨水が流れた跡は、斜面から倉庫の壁へまっすぐ続いている。
「同じ場所に建てたら、また斜面の水が倉庫へ流れ込むよ。先に、倉庫の横へ水を逃がす溝を掘りたい」
ガレスは雨水の跡を追い、斜面を見上げた。
「よし。大工は俺が呼ぶ。溝は団の連中に掘らせる。お前は、どこへ溝を通すのか板に描いてくれ」
エレナは帳場から木板と炭を持ってきた。カイルは板を地面へ置き、炭を手に取った。
カイルが木板に最初に描いたのは、新しい倉庫の形ではなかった。
斜面から流れてくる雨水を、倉庫の横へ逃がすための溝だった。




