第2話 カイルの鍋
共同厨房へ入った途端、ガレスは味見役を断られた。
「帰ってきたばかりなんだから、手を洗ったらさっさと座りな!」
大鍋の前に立つベルタは、木杓子でガレスを食堂の方へ追い払った。ヴェルンの共同厨房を預かる女性で、傭兵たちが酔って喧嘩を始めても、杓子ひとつで黙らせる。
「味見くらいさせろよ。俺も手伝うって」
「鍋から肉をつまみ食いするのは、手伝いとは言わないね!」
ガレスは反論しかけたが、エレナに腕を引かれ、渋々食堂へ向かった。
カイルは厨房に残った。
石を並べた炉では、二つの大鍋が火にかけられている。片方には麦粥、もう片方には塩漬け肉と豆の煮込み。どちらからも湯気は上がっていたが、肉の鍋から漂うのは塩と煙の臭いばかりだった。
ベルタが小皿へ煮汁をすくい、カイルに渡す。
「夕飯をうまくするんだろ? ほら、まずは食べてみな」
煮汁をひと口含む。舌に塩気が刺さり、その後に豆の味が残った。
「しょっぱい」
「塩漬け肉を煮れば、そりゃ塩辛くなるさ。水を足せば、今度はただの薄い汁だ」
鍋の中の肉を杓子で押す。長く煮ているはずなのに、表面はまだ硬そうだった。
厨房の隅には、肉を切り分けた後の骨が桶へ入れられている。その横には、形の悪い玉ねぎや小さな蕪が積まれていた。
「その骨、捨てるの?」
「明日、犬にやるよ」
「じゃあ、少し使ってもいい?」
ベルタは骨の入った桶を見た。
「何をするんだい?」
「きれいに洗って、水から煮るんだ。最初は骨だけで」
「骨だけ?」
「うん。温まるとアクがたくさん浮くから、先に全部すくっておくんだ」
「アクなら、いつもの鍋でも取ってるよ」
「肉や豆まで入ってると、アクがすくいにくいよ。骨だけで取りきってから野菜を入れれば、臭みが残りにくいんだ」
ベルタは桶から太い骨を一本取り出し、付着した肉を確かめる。
「それじゃ今夜には間に合わないね」
「じゃあ、明日の鍋にしよう。夜も火は消さないんだよね?」
「見張りが火も見てる。鍋ひとつなら増やしていいよ」
話が決まると、ベルタは骨を水でよく洗い、表面に残っていた血と肉くずを落とした。底の深い鍋へ骨と水だけを入れ、火にかける。
湯が温まり始めると、カイルの言ったとおり、灰色の泡が浮いてきた。
「なるほど。これならすくいやすいね」
「煮立てるとアクが汁に混ざるから、火は強くしないで」
ベルタは木杓子で泡をすくい、脇に置いた器へ捨てた。何度か繰り返すうちに、浮いてくる泡が減っていく。
そこで初めて、傷んだ部分を切り落とした玉ねぎと蕪を大きめに刻み、鍋へ加えた。カイルが香草を探していると、ベルタは棚から乾燥させた葉を何種類か出してくれた。
「で、どれを入れるんだい?」
カイルは葉を一枚ずつ指で揉み、匂いを確かめた。前世で知っていた香草とよく似たものもあれば、初めて嗅ぐものもある。
「こっちを少しだけ。もう一つは、朝に味を見てから入れよう」
「何でも放り込めって言わないだけ、父親より見込みがあるね」
香草を加えた鍋は、そのまま夜通し弱い火にかけられた。
今夜の煮込みは変えられなかったが、ベルタは塩漬け肉を湯から出し、別の水へ浸した。しばらく置いてから豆の鍋へ戻すと、先ほどより塩気が和らいだ。
食堂からガレスの声が飛んでくる。
「ベルタ、腹が減った! まだか!」
「うるさいよ! 団長だけ麦粥にするからね!」
すぐに静かになった。
◇
翌朝、カイルは空腹で目を覚ました。
家の中まで、肉と香草の匂いが流れ込んでいる。顔を洗うのもそこそこに共同厨房へ向かうと、ベルタが昨夜の鍋をのぞき込んでいた。
鍋の水は、薄い茶色の澄んだ汁に変わっている。表面の脂はすでにすくわれ、別の器へ移されていた。
「やっと起きたね。ほら、味を見ておくれ」
ベルタは小さな木椀へ汁を注いだ。
熱さに気をつけながら、ひと口飲む。
骨と野菜の旨味が広がった。塩気は足りない。それでも、前世で何度も飲んだ、ごく普通のスープによく似ている。
特別な料理ではなかった。食べたい時に食べられた、ありふれた味だ。
六年ぶりだった。
カイルはすぐに二口目を飲んだ。
「おいしい…! 塩は少しだけでいいと思う」
ベルタも木椀へ口をつけた。
飲み込んだ後、椀の中を見て、もう一口すする。
「…へえ。骨を煮るだけで、こんな味が出るのかい」
「玉ねぎと蕪も入れたよ」
「昨日まで犬にやってたのが、もったいなくなるね」
ベルタは塩を加え、昨夜使わなかった香草も一枚だけ入れた。
「こっちは匂いがきついね。ひとつまみで十分だ」
カイルがうなずくと、ベルタは骨を取り出し、汁を布でこした。
朝のうちに、昨夜から水へ浸しておいた塩漬け肉と、麦、豆、刻んだ野菜が鍋へ入れられた。肉を減らした分、豆と麦はいつもより多く入れた。
昼が近づく頃には、共同厨房の前に人が集まり始めた。
「今日は何を煮てるんだ?」
鍛冶場から来た男が、戸口から鍋をのぞこうとする。
「昼まで待ちな! つまみ食いしたら、あんたの椀は豆だけだよ」
男は素直に引き下がったが、しばらくすると別の団員が現れた。匂いにつられて来る者を追い返すたびに、ベルタの声は大きくなっていく。カイルは鍋の蓋を開けるたび、昼が待ち遠しくなった。
昼食の時間になると、ベルタは最初の一杯をガレスの前へ置いた。
「あれだけ騒いだんだ。団長から食べな」
「やっと味見役の出番か」
ガレスは湯気の立つ汁をすすった。
もう一口飲み、肉を口へ入れたところで、ガレスの手が止まった。椀に残った肉を木匙で押すと、力を入れなくても崩れる。
「ベルタ、これ…本当に昨日と同じ肉なのか!?」
「同じ桶から出した肉だよ」
「嘘だろ…昨日はあんなに硬かったじゃねぇか!」
「文句があるなら返しな!」
ガレスは椀を両手で抱え込んだ。
「誰が返すか。うまいぞ、これ!」
待ちきれずに見ていた団員たちから声が上がった。ベルタが大鍋から次々によそうと、食堂はしばらく、汁をすする音ばかりになった。
遠征で頬を切った若い団員も、一口目で目を丸くした。続けて肉を頬張り、ベルタを見る。
「うまい…! なんだこれ、いつもの煮込みだよな!?」
「肉も豆も、いつもと同じだよ」
「全然違うぞ。塩辛くないし、肉も柔らかい」
若い団員はパンで椀の底までぬぐった。
「ベルタ、明日もこれにしてくれ」
「毎日食べたら、すぐ飽きるよ」
「じゃあ、次の遠征から帰った日に頼む」
あちこちから「俺もだ」と声が飛ぶ。
カイルも熱いうちに汁をすすった。朝の出汁へ肉と豆の味が加わり、塩気もちょうどよくなっている。
周りから歓声が上がるたび、頬が緩んだ。前世でしか知らなかった味を、今は父や村の皆が夢中で食べている。
気づけば、カイルの椀も空になっていた。
向かいに座っていた古参は、もう空になった椀を差し出している。
「俺は次の遠征まで待てん。もう一杯くれ」
ベルタは大鍋を見て、首を横へ振った。
「一人一杯! 後ろがまだ並んでるだろ」
「鍋にはまだ残ってるじゃねぇか!」
「いいから後ろを見な!」
古参が振り向くと、器を持った子どもたちが列を作っていた。男は黙って椀を引っ込める。
最後の子どもへ配ると、ベルタは鍋を傾け、底に残った煮込みを自分の椀へ入れた。大鍋はきれいに空になった。
隣で帳面を開いていたエレナが、昨日の使用量と見比べる。
「昨日の半分の肉で、同じ人数に一杯ずつ配れたわ」
「その代わり、おかわりを断るのが大変だよ」
ベルタはようやく椅子へ座り、自分の分を食べ始めた。
「豆や野菜を変えたら、違う味になるよ」
「この鍋のほかにも作れるのかい?」
「うん。市にほかの香草があったら、それも試してみたいな」
「なら次の市は一緒に来な。自分で匂いを確かめた方が早いだろ」
「ほんと? 行きたい」
その日の夕方には、昼の料理が「カイルの鍋」と呼ばれていた。言い始めたのはガレスだったが、カイルが気づいた時には、子どもたちまで同じ名前で呼んでいる。
「作ったのはベルタだよ」
「いつものあたしの鍋なら、誰も名前なんか付けないよ。あんたが始めたんだ。カイルの鍋でいいじゃないか」
ベルタ本人が気にしていないため、名前はそのまま残った。
◇
カイルの鍋は、共同厨房の定番になった。
骨を煮る鍋は前日の夜から火へかけ、朝になったらベルタが味見をして、塩と香草を加える。肉や豆、野菜はその日にある物を使うため、同じ味が続くこともない。
鍋を火にかける時間が長くなるにつれ、薪置き場は以前より早く空になった。
三つの炉へ火を入れる日は、朝から室内が煙たくなる。壁の上部に煙を逃がす穴はあるが、風向きが悪ければ煙は外へ流れず、調理をする者たちが涙を流しながら鍋を混ぜていた。
薪の減りも早い。
ベルタは鍋の下へ枝を足しながら、空になりかけた薪置き場を見た。
「薪がもうこれだけだよ。また森へ取りに行ってもらわないと」
「炎が鍋に当たらず、横に出てる。だから薪がたくさんいるんだよ」
石を並べただけの炉は、鍋の底より広い。炎の一部は鍋へ届かず、周りの空気を熱していた。
カイルは炉のそばにしゃがみ、灰の上へ枝で絵を描いた。
「火の通り道を狭くして、鍋の下を通すんだ。煙は後ろから外へ出す」
ベルタが隣へしゃがむ。
「ここを塞いだら、薪はどこから入れるんだい?」
「前に薪を入れる穴を残すよ。横から風が入らなければ、炎は鍋の方へ上がるから」
カイルは絵を描き直した。炉の前に薪を入れる口を残し、鍋を置く穴を二つ並べる。一つの火から出た熱が、二つの鍋の底を通る形だ。
ベルタは灰の絵と、実際の炉を何度か見比べた。
「絵は分かった。でも、あたしに石積みまでやらせる気かい? 石工を呼ぶよ」
午後になると、村の家や井戸を直している石工が厨房へ来た。
カイルは灰の上ではなく、木の板へ描き直した絵を見せる。石工は炉の幅を測り、煙を外へ出す場所を確かめた。
「壁に穴を開けるなら、雨が入らないように覆いがいる。炉の中は粘土で固めれば、火も漏れにくいだろう」
「鍋が入らなきゃ話にならないよ。穴はこの大きさにしておくれ」
ベルタが一番大きな鍋を指した。
作る者と使う者が話し始めると、カイルが口を挟む必要はなくなった。
新しい炉は、厨房を使わない午後に少しずつ組まれた。石と粘土で火の通り道を囲み、二つの鍋を縦に並べる。煙を壁の外へ逃がす穴も付けた。
火を入れた最初の日、ベルタはいつもの半分ほどの薪を炉へ入れた。
二つの鍋から湯気が上がり始めても、室内に煙はほとんど戻ってこない。
ベルタは炉を見つめたまま、深く息を吸った。煙の臭いはしない。戸口まで歩き、開けたままだった戸を閉める。
「本当に戸を閉めても平気じゃないか!」
ベルタは声を上げて笑った。
「こりゃいいよ。去年の冬なんて、雪の日まで戸を開けてたんだからね」
使わなくなった古い炉ではパンを焼き、近くに設けた棚で香草や薄く切った野菜を乾かした。干した野菜は布袋へ入れ、雨の日や遠征中の鍋に使う。
やがて、夕食時になると共同厨房の前へ自然と人が集まるようになった。
遠征から戻った者は温かい鍋を食べ、怪我をした者には柔らかく煮た肉が出る。家で一人分だけ作るのが難しい老人も、子どもたちと同じ卓についた。
ガレスは二杯目の鍋を平らげ、腹をさすった。
「倉庫の次は厨房か。お前が七つになる頃には、俺の知らない村になってそうだな」
「まだ直せそうなところ、いっぱいあるよ」
「頼むから、父親の仕事を少しは残しておいてくれよ」
「あなたの仕事は、遠征で稼いで無事に帰ることでしょう」
エレナに言われ、ガレスは三杯目を頼むのを諦めた。
◇
新しい炉へ火を入れてから十日ほど経った夜、雨が降り始めた。
初めは屋根を軽く叩く程度だった雨は、夜更けには会話を遮るほど強くなった。翌朝になっても止まず、村を通る荷車道には茶色い水が流れている。
三日目の夕方、共同厨房の片づけを手伝っていたカイルは、倉庫の方から響いた音に顔を上げた。
太い木が、内側から折れたような音だった。




