第1話 傭兵団長の息子
榊が次に聞いたのは、銃声でも爆発音でもなかった。
すぐ近くで、誰かが泣いている。
目を開けようとしても、まぶたは重く、手足には力が入らない。呼吸を整えようとした口から、高い泣き声が飛び出した。
自分の声だった。
誰かに抱き上げられ、柔らかな布で身体を包まれる。視界がぼやける中、疲れきった顔の女性がこちらへ手を伸ばしていた。
女性の隣では、日に焼けた大柄な男が何度も目元をぬぐっている。腰には幅の広い剣があり、革鎧には乾いた泥が残っていた。
二人の言葉は理解できなかった。ただ、女性が赤ん坊を胸へ抱くと、男も泣きながら笑った。自分の誕生を喜んでいることだけは分かった。
男が太い指で頬に触れ、同じ言葉を何度も繰り返す。
「カイル」
後に、それが自分の新しい名前だと知った。
◇
六年後。
言葉を覚え、家の外へ出られるようになると、前世とは違う場所に生まれたこともはっきりした。
カイルが生まれたのは、ヴェルンという小さな傭兵村だった。銃も自動車もなく、遠くへ行く者は馬に乗る。父は剣を持って戦い、母は村の食料と金を預かっている。
榊という名で生きていた記憶を残したまま、彼はカイルとして六歳になった。
「カイル、そこにいると馬に蹴られるぞ」
父の声に呼ばれ、カイルは荷車から一歩離れた。
夜明け前のヴェルンでは、遠征に出る傭兵たちが村の南側にある稽古場を行き来していた。馬へ鞍を載せる者、槍の穂先を布で拭く者、食料袋を荷台へ放り込む者。怒鳴り声と笑い声が飛び交い、眠っていた村が一気に騒がしくなっている。
その中心にいるのが、父のガレスだった。
六年前より白いものが増えた髭を撫で、団員の間を歩いている。大柄な身体は人混みの中でもよく目立った。
「三台目の荷車、右へ積みすぎだ。麦袋を二つ、反対側へ移せ。古参組は若い連中の水袋も見てやってくれ」
団員たちは文句を言いながらも、すぐに動いた。
出発前、腕を布で吊った団員が自分も行くと言い張っていた。ガレスは男の肩を軽く叩いた。
「片腕で何を守る気だ。俺たちが帰るまで、街道の見張りを頼む」
男は吊った腕を見てから、村の西を通る街道へ目を向けた。
「留守は任せろ。怪我人を増やして帰ってくるなよ」
「父さん、三台目だけじゃないよ。二台目も左の車輪が傾いてる」
カイルが指さすと、ガレスは荷車の前でしゃがみ込んだ。車軸の下をのぞき、御者を呼ぶ。
「本当だ。留め具が緩んでやがる。出る前に締め直せ」
御者が慌てて工具を取りに走った。
ガレスは立ち上がると、カイルの頭を大きな手で撫でた。
「よく見つけたな」
「昨日から気になってた」
「昨日?」
「空の荷車を動かした時、二台目だけ変な音がして、車輪も揺れてた」
ガレスはもう一度、二台目の車輪をのぞき込んだ。
カイルは父の手から逃げ、乱れた髪を自分で直した。
「それより、いつ帰るの?」
「予定どおりなら十五日後だ。今回は街道沿いの村を回るだけだから、心配するな」
「前にもそう言って、二十日帰ってこなかった」
「あれは雇い主が、最後になって護衛先を増やしやがったんだ」
「帰ったら母さんに叱られてたね」
「余計なことは覚えなくていい」
ガレスは顔をしかめたが、近くにいた団員たちは笑っていた。
出発を知らせる角笛が鳴る。
「土産は何がいい?」
「母さんが喜ぶもの」
「一番難しい注文をするな」
ガレスは困った顔で笑い、カイルの肩を二度叩いてから団員たちの先頭へ向かった。
「カイル。父さんの邪魔をしていないで、こっちを手伝って」
荷車道沿いの倉庫から、母のエレナが顔を出した。
淡い茶色の髪を後ろでまとめ、胸元には数本の木札を下げている。木札には荷車ごとの食料と飼料の数が書かれていた。
ガレス傭兵団の稼ぎと、ヴェルンで暮らす家族の食料を管理しているのはエレナだ。遠征前になると、団長のガレスより彼女の方が忙しい。
「邪魔はしてないよ。荷車の故障を見つけた」
「そう。それなら次は、この札を荷車の番号順に並べてちょうだい」
言い返す間もなく、木札の束を渡された。
カイルは倉庫前の長椅子へ座り、一番から五番までの札を順に並べた。それから札に書かれた袋の数と、荷台に積まれた袋を見比べる。
三番の札だけ、麦袋が二つ足りない。
「母さん、三番の荷車は袋が二十八って書いてある。でも、積んであるのは二十六だよ」
「二袋は倉庫の中よ。朝になってから、底が湿っているのが見つかったの」
エレナは答えながら、別の札へ書き込みを加えた。
「代わりの袋はあるの?」
「いま運ばせているわ」
ほどなく、倉庫から二人の男が麦袋を担いで出てきた。ところが、二人とも荷車へ向かわず、袋を地面へ下ろした。
片方の男がエレナを呼ぶ。
「奥さん、こいつも駄目だ。変な臭いがする」
エレナの手が止まった。
「昨日、確認した時は?」
「表に積んであった袋は問題なかった。湿ってるのは壁際の下段だけだ」
エレナは木札を置き、男と一緒に倉庫へ入っていく。
カイルも後を追った。
倉庫の中には、麦や豆を入れた袋が大人の肩ほどの高さまで積まれていた。朝の光が戸口から差し込んでいるが、奥は薄暗い。土を固めただけの床には冷たい湿気が残り、壁際には雨が染み込んだ跡がある。
男が一番下の袋を引き出した。
口を開く前から、カイルには酸っぱい臭いが分かった。
中の麦は黒ずみ、いくつかは指で押すと潰れた。
エレナが眉を寄せる。
「この列を全部、外へ出して。隣の袋も確かめましょう」
男たちが動き始める。
カイルは床にしゃがみ、袋をどかした跡に触れた。壁だけではない。床まで湿っている。袋を直接積めば、下からも水気を吸う。
倉庫を見回すと、同じ積み方をしている列がまだいくつもあった。
「母さん」
「どうしたの?」
「腐っているのは、あの袋だけじゃないと思う」
エレナが振り返った。
カイルは壁際に並ぶ袋を指した。
「下の段を、全部確かめた方がいいよ」
遠征へ持っていく食料だけの問題ではない。この倉庫には、ヴェルンの家族が冬を越すための麦も入っている。
エレナは手にしていた木札を台へ置いた。
「どうしてそう思うの?」
「壁だけじゃなくて、床も濡れてるから。袋の下に木を入れて、床から離せば濡れにくくなるよ」
エレナは床へ視線を落とし、壁際の袋を順に確かめた。
「カイル。もう少し詳しく聞かせて」
カイルは倉庫の外に積んである古い角材を指した。
「あれを床に並べて、その上に板を置くんだ。袋は壁から少し離して積む」
エレナは床と壁際の袋を見比べた。
「床が湿っても、袋まで水が届きにくくなるのね」
「うん。袋の下が見えるから、水が入ってきた時にも気づきやすいよ」
倉庫番の男も外の角材へ目をやった。
「古い荷台の板が残ってる。あれなら作れるぞ」
「どれくらいかかる?」
エレナに尋ねられ、男は倉庫の奥行きを目で測った。
「壁際の一列なら、昼までにできる」
「お願い。できたところから麦を移しましょう」
エレナが決めると、仕事は早かった。
倉庫番が大工仕事のできる団員を呼び、使われていない荷台を解体する。ほかの者たちは袋を外へ運び、中身を確かめていった。
カイルはエレナが書き留めた数と、外へ運ばれた袋の数を照らし合わせた。
昼を過ぎる頃には、壁際にあった袋がすべて外へ出された。
完全に傷んでいたのは三袋。底が湿っていた九袋は、麦を布の上へ広げて乾かすことになった。残りは早く見つけたため、中身まで水気が届いていない。
倉庫の中では、組み上がった低い木の台へ、乾いた袋が積み直されていった。壁との間にも隙間があり、今度は奥まで見渡せる。
エレナは帳面へ最後の数字を書き込み、息を吐いた。
「冬の分まで減らさずに済みそうね」
「三袋は捨てるんだろ。損には違いねえ」
倉庫番は悔しそうだった。
「今日見つからなかったら、もっと増えていたわ。あなたが知らせてくれたから止められたのよ」
男は何か言いかけ、気まずそうに頭をかいた。
「次からは、朝と夕方に壁際を見ます。俺が休みの日も、代わりを決めておきます」
「そうしてちょうだい」
カイルは二人のやり取りを聞きながら、積み直された袋を眺めた。
エレナはカイルの視線に気づいた。
「まだ気になるところがあるの?」
「母さん、どの袋から先に運び出すか、帳面を見ないと分からないの?」
「そうね。袋を見ただけでは分からないわ」
「じゃあ、袋にも印をつけたら? 先に入れた袋から厨房へ運べるよ」
エレナは帳面の端に挟んであった薄い木の板を差し出した。
「どんな印なら分かりやすいと思う?」
カイルは炭筆を受け取り、形の違う札を三つ描いた。文字が読めない者でも、切り込みを数えれば、いつ入れた袋か分かる。
エレナは口を挟まず、息子が描き終えるまで待っていた。
◇
ガレスが遠征から帰ったのは、出発から十六日目の夕方だった。
荷車道の先に一行が見えると、村の子どもたちが一斉に駆け出した。カイルも母と村の外れまで迎えに行く。
団員の中には腕や頭へ包帯を巻いた者もいたが、自分の足で歩けないほどの怪我人はいない。荷車も三台とも戻ってきた。
ガレスは馬から降りると、真っ先にカイルを抱き上げた。
「約束より一日遅い」
「帰ってきた父親へ、最初に言うのがそれか?」
「数えてたから」
「予定どおりなら、って言っただろ」
「父さん、ずるい」
エレナが横からガレスの腕を叩いた。
「言い訳は後にして。みんなを休ませてあげて」
「ほらな。帰った途端にこれだ」
そう言いながらも、ガレスは笑っていた。
夕食の前に倉庫へ来たガレスは、床一面に組まれた木の台を見て足を止めた。
「ずいぶん変わったな」
「カイルが麦の傷みに気づいたの。台も木札も、この子が考えたのよ」
エレナから説明を聞き、ガレスは袋の下と壁との隙間を順に確かめた。木札を手に取り、切り込みを指でなぞる。
「これなら字が読めない奴でも分かるのか」
「一つなら今月、二つなら先月。三つなら、それより前だよ」
「六歳の頃の俺は、木札を剣にして遊んでたぞ」
「いまも似たようなものでしょう」
エレナが言うと、ガレスは反論せずに木札を戻した。
「ほかにも、直したいところがあるのか?」
カイルは答える前に、夕食の並ぶ共同厨房へ目を向けた。
大鍋では塩漬け肉と麦が煮込まれている。腹は満たせるが、肉は硬く、味つけも塩だけだ。帰還した傭兵たちは、早くも酒の肴が足りないと騒いでいる。
「まず、今日の夕飯かな」
ガレスが声を上げて笑った。
「そいつはいい。俺も手を貸すぞ」
「あなたは味見しかしないでしょう」
「大事な仕事だ」
カイルも両親と一緒に厨房へ向かった。




