8
幻は放課後の部活動を終えると、帰宅するために電車に乗り込んだ。
いつものように、足の踏み場もないほどの満員電車だった。ところが珍しいことに、幻のすぐ目の前の席が一つだけ空いていた。
幻は周囲を見回してから、改めてその空席を見下ろした。優先席というわけでもなく、シートが汚れている様子もない。周りに高齢者や妊婦がいるわけでもないのに、どういうわけか、誰もその席に座ろうとはしなかった。
不審に思いながらも、幻はそのまま腰を下ろした。特に咎めるような視線を向ける者もいない。幻は運が良かったと思い直し、最寄り駅までの時間を楽に過ごすことができた。
家に着き、ドアを開けると、玄関まで食欲をそそる良い匂いが漂ってきた。
キッチンへ向かうと、紬が夕食の支度をしている背中が見えた。食卓には豪華な料理が並べられ、中央には「17」の形をしたロウソクが飾られたショートケーキが置かれている。
「あ、お帰りなさい」
紬は幻の姿を見つけると手を止め、慈しむような微笑みを浮かべた。
「幻、お誕生日おめでとう」
「……僕の誕生日、今日だったっけ」
問い返してから、幻は今日が自分の誕生日であったことを思い出した。紬は少し寂しそうな表情を見せた。
「そうよ。幻の、十七回目の誕生日。もう十七歳になったのに、まだ自分の誕生日も覚えられないの?」
「いや、今思い出したよ」幻は照れくさそうに笑ってみせた。「ありがとう、母さん」
すると、紬の表情もパッと明るくなった。彼女は何かを隠すように後ろ手に組んで言った。
「それからね、母さんからのプレゼント」
「何? 何?」
「目を閉じて」
「……またそれ?」
「いいから、早く。手で目隠しして」
幻は言われた通りに目を閉じ、両手で視界を覆った。五秒ほどの静寂が流れた後、紬の声が響く。
「もういいわよ、開けて」
幻が手を離して目を開けると、目の前には新品の自転車が置かれていた。
「これ……」幻は目を見開いた。「ずっと欲しがってたやつだ」
「どう? 嬉しい?」
「うん、めっちゃ嬉しい。ありがとう、母さん。……ところでさ」
喜びよりも先に、疑問が口をついた。幻は周囲を見回す。
「これ、一体どこに隠してたの?」
まるで魔法でも見たような気分だった。キッチンにもリビングにも、これほど大きな自転車を隠しておけるスペースなんてないはずだ。運んできたはずの車輪の音さえ、全く聞こえなかった。
「内緒。種明かしをしちゃうと、面白くないでしょ?」
「教えてよ。不思議すぎる」
紬は少し考え込む素振りを見せたが、やがて悪戯っぽく微笑んだ。
「……秘密だけどね。母さん、実は魔女なのよ」
「……へえ」幻は生返事を返した。「すごいね」
真面目に答える気がないのだと察すると、それ以上追求する気も失せた。一種の手品のような演出だろうと思い、幻は追求をやめた。
幻は自転車のフレームを愛おしそうに撫でた。
「すごく嬉しいけど、無理してない? これ、結構高かったでしょう」
「平気よ」紬は軽く手を振った。「幻が生まれてきてくれたことをお祝いする日なんだから。お金のことなんて気にしなくていい」
「……わかった。ありがとう。大事にするね」
「ええ」
幻は母親と二人で夕食を囲み、穏やかな団欒の時間を過ごした。
その後、プレゼントされた自転車で一時間ほど夜のサイクリングを楽しみ、帰宅してシャワーを浴びた。
その日の授業の復習を済ませ、最後にスマホで動画を少し眺めてから、寝床に入った。
満ち足りた幸福感に包まれて、幻は夢も見ることなく深い眠りに落ちた。




