7
リビングは静まり返っていた。
床に置かれた大きなスーツケースが目に付いたが、人の気配はない。奏汰はそのまま階段を駆け上がり、紬の部屋の前に立った。
一度ノックをしたが、返事はない。
奏汰は汗ばんだ手でドアノブを握り、ゆっくりと扉を開けた。
そこには、床に座って優しく手招きをする紬の姿があった。そして、彼女に向かってよちよちと歩み寄る赤ん坊の後ろ姿。
綱渡りのように危なっかしい足取りだったが、赤ん坊は誰の助けも借りず、独りで歩いていた。
体格も、朝に見かけたときより遥かに成長している。紬が現実で病院に運ばれている間に、この夢の中ではすでに、赤ん坊が歩き出すほどの月日が流れてしまったようだった。
奏汰は眩暈にも似た感覚を覚えながら、慎重に声をかけた。
「……これ、紬がやったの?」
紬は視線さえ向けずに答えた。「何を?」
「赤ちゃんが、もう歩いてる。どういうことだよ」
「赤ちゃんって……。離婚したからって、自分の子供の名前まで忘れちゃったの?」
「……離婚?」
「あなたの荷物は全部まとめてリビングに置いてあるわ。今すぐ持って行って。今日から裁判所の接近禁止命令が出ているんだから、二度と『私たち』に近づかないで」
「……」
奏汰は開いた口が塞がらなかった。
絶句して立ち尽くしていると、ようやく紬が違和感を覚えたのか、冷ややかな視線を彼に投げた。
「何ぼーっとしてるのよ」紬は吐き捨てるように言った。「聞こえなかった? 早く出て行ってって言ってるの」
「紬、まさか……」
奏汰は、自分の疑念が間違いであることを願いながら尋ねた。
「自分の記憶まで、書き換えたのか?」
「……はあ?」
今度は紬が呆気に取られたような顔をした。本当に何を言われているのか分からない、という反応だった。
奏汰は地団駄を踏みたい衝動を抑え、声を張り上げた。
「ここは夢の中なんだよ! 紬、思い出せ!」
紬の顔から困惑が消え、たちまち恐怖に近い表情へと変わる。
彼女は赤ん坊を自分の方へ引き寄せながら、怯えたように言った。
「奏汰……大丈夫? 今のあなた、ちょっと怖い。もしかしてお酒でも飲んでるの?」
もはや言葉が通じる相手ではない。それでも、奏汰は必死に説明を続けた。
「紬、聞け。ここは夢なんだ。現実の俺たちはまだ高校生で、付き合ってはいるけど結婚なんてしてない。それに紬、君は今、現実で昏睡状態になってるんだよ。病院で酸素マスクまでつけて……。だから、俺と一緒に今すぐここを出よう。な?お願いだから……」
奏汰が近づこうとすると、紬は怯えたように身を縮めた。そして、震える手でポケットからスマホを取り出す。
「来ないで……」紬の声は掠れていた。「それ以上近づいたら、警察を呼ぶから」
「だから……」奏汰は縋るように訴えた。「ここは夢なんだって!」
紬の腕に抱かれた赤ん坊が、ぐずり始めた。紬は赤ん坊をあやすふりをしながら、密かに画面に番号を入力している。
奏汰は一瞬躊躇したが、以前、電話をかけた直後に救急車がやってきたことを思い出し、強引に距離を詰めた。
スマホを奪い取ろうと手を伸ばすと、紬が鋭い悲鳴を上げる。その声に呼応するように、赤ん坊が火がついたような声を上げて泣き出した。
奏汰は結局、それ以上踏み込むことができなかった。彼は壁に背を預け、互いを抱き合って震える二人をじっと見下ろした。
何度も、何度も首を横に振る。もはや言葉を尽くしても無駄だった。
――無理やりにでも、引き剥がすしかない。
奏汰は一度部屋を出て、一階のキッチンへと向かった。そこで包丁を手に取り、再び二階の紬の部屋へと戻った。
「……っ」
奏汰が握る刃物を見た瞬間、紬の顔から血の気が引いた。
彼女が赤ん坊を強く抱きしめすぎたせいか、一度止みかけていた泣き声が再び激しさを増す。
「……言い忘れていたことがあるんだ」
奏汰は自分に言い聞かせるように言った。
「夢から覚める方法が、もう一つある。夢の中で『死ねば』いい」
「奏汰、お願い……」紬が掠れた声で懇願する。「やめて、お願いだから……」
「ごめん。俺だってこんなことしたくない。でも、紬を救うためなんだ」
奏汰は紬のそばに膝をついた。逃げ出すかと思ったが、紬はただ震えながら座り込んでいる。恐怖で体が動かなくなっているようだった。それでも、赤ん坊を庇うように背中を丸め、必死に守ろうとしている。
奏汰は包丁を両手で握り締め、丸まった彼女の背中を見つめた。
「……」
どうしても、振り下ろす勇気が出ない。
たとえ夢だと分かっていても、その感触は記憶に残るだろう。
彼女を傷つけるという事実、そしてこれから先の関係が修復不可能になるかもしれないという恐怖が、彼の身体を凍りつかせた。
だが、彼は必死に理性を繋ぎ止めた。何よりも優先すべきは、現実の紬の命だ。
奏汰は目を固く閉じ、奥歯を噛み締めて腕を動かした。しかし、刃先が彼女に届く直前、背後から何者かに襟首を掴まれ、強引に引き倒された。同時にもう一人の誰かが、奏汰の手から包丁をもぎ取った。
通報を受けた警官たちが、すでに部屋へ踏み込んできたのだ。
床に組み伏せられながら、奏汰は横目で状況を確認した。自分を抑え込む警官の腰元に、拳銃が差さっているのが見える。
奏汰は一瞬の隙を突き、馬乗りになっていた警官を跳ね除けると、その拳銃を奪い取った。そして、飛びかかろうとする別の警官へ素早く銃口を向けた。
「……銃を下ろせ!」
警官たちは一斉に銃を抜き、奏汰を包囲した。相手は三人。勝ち目など万に一つもない。だが、彼の目的は最初から一つだけだった。
奏汰は紬を狙い、引き金を引いた。
「……っ!」
弾が出ない。引き金が異様に重い。
奏汰は一拍遅れて、安全装置がかかっていることに気づいた。焦燥に駆られながら装置を解除し、再び銃口を向けようとしたその瞬間、正面から複数の銃声が響き渡った。
奏汰は断末魔のような叫びとともに、目を見開いた。
飛び起きて周囲を見回し、ようやくここが現実の病室であることを知る。夢の中で射殺された衝撃が、まだ身体に残っていた。震える手で額の冷や汗を拭い、彼はハッとして隣に視線を移した。
紬のバイタルを示すモニターから、けたたましい警告音が鳴り響いていた。
酸素マスクをつけた紬の呼吸が、目に見えて荒くなっている。奏汰が医者を呼びに行こうとした矢先、医療スタッフたちがなだれ込んできた。奏汰は弾き出されるように病室の外へ出された。
廊下で、ちょうど戻ってきた紬の母親と鉢合わせる。紬の容態が急変したことを告げると、彼女はその場にへたり込んでしまった。
奏汰は彼女を支えて椅子に座らせ、自分も隣で祈るように結果を待った。
しばらくして、病室から医師が出てきた。幸い、紬は一命を取り留めた。
呼吸は安定したが、脳の状態は依然として芳しくない――医師の説明をぼんやりと聞き流しながら、奏汰は夢の中の二人を思い出していた。
よちよちと歩く赤ん坊と、それを見守っていた紬の姿を。
大人びて見えるほど慈愛に満ち、どこまでも幸せそうだったあの顔。奏汰には一度も見せたことのない表情だった。
赤ん坊を産んで、たった一日。彼女は奏汰の知っている少女とは全く別の「誰か」に変貌していた。
紬は、本当の意味で、あの赤ん坊の母親になってしまったのだ。




