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朝、授業が始まる前。
奏汰はまだ空席のままの紬の席を見つめ、小さく溜息をついた。
昨日の出来事が脳裏をよぎる。
夢とはいえ、あの凄絶な出産の光景、特に激痛と戦う紬の姿は、まるで現実の記憶であるかのように生々しく刻まれていた。いや、むしろ現実よりも鮮明にさえ感じられる。
奏汰は得体の知れない不安を紛らわすようにスマホを取り出した。アルテミス計画に関するニュースを検索し、好物の宇宙やロケットの画像を眺めて、意識を無理やり現実に繋ぎ止めようとした。
しかし、登校してきた紬が隣の席に座るなり、彼にこう切り出した。
「早く、あそこに行こう」
「……」
「一時間目は数学でしょ? すぐに寝られるから」
奏汰は黙って彼女の顔を観察した。髪はボサボサで、目はどんよりと濁り、ひどく疲れ切っている。
だが、重そうな瞼の奥に宿る眼光だけは異様なほど鋭く、それが少なからず不気味だった。
「一緒に入るよね?」紬が詰め寄るように尋ねた。「あの夢は、奏汰と一緒じゃなきゃ見られないんだから」
奏汰は迷った末、結局頷いた。「……ああ」
一時間目の授業が始まると、紬は号令を済ませるや否や机に突っ伏した。十秒も経たずに、深い眠りへと落ちていく。
奏汰はやはり止めるべきではないかと葛藤した。
あの赤ん坊ともう一度向き合う自信がなかった。忌まわしい、拭いきれない予感が胸をざわつかせる。
だが、紬を「あの場所」に一人にしておくわけにはいかなかった。奏汰はやがて、彼女を追うように夢の中へと潜り込んだ。
二人は学校を出ると、一目散に紬の家へ向かった。そして、あの子がいる部屋のドアの前に立つ。奏汰は緊張のあまり、無意識に唾を飲み込んだ。
ドアの向こうから、子供の泣き声が漏れ聞こえてくる。
やがて紬が意を決してドアを開けた瞬間、奏汰はびっくりして後ずさりした。
開かれたドアの向こうから、大量の水が濁流となって溢れ出してきたのだ。
奏汰はなす術もなく、下半身まで一気に飲み込まれた。立っているのがやっとの勢いで、流されないよう必死に壁にしがみつく。
紬も転倒しそうになるのを、奏汰が支えてどうにか食い止めた。そのまま、荒れ狂う部屋の奥を凝視する。
部屋の中は、完全に水没していた。
水が廊下へと流れ出たことで水位は膝あたりまで下がったが、ドアが閉まっていた時はおそらく腰の高さまで満ちていたのだろう。室内は無残に荒れ果て、家具や小物が水面にぷかぷかと漂っていた。
そして、その洪水の中心に、あの子がいた。
部屋から水が引くと、二人はすぐに中へ踏み込んだ。
紬は袖で顔の飛沫を乱暴に拭い、ベビーベッドへと駆け寄る。奏汰は無残に荒れ果てた室内を見渡し、呆然と呟いた。
「一体……どうなってんだ、これ」
「……涙だよ」紬が答えた。「この子が流した涙」
紬は赤ん坊をそっと抱き上げた。今にも泣き出しそうな、それでいて深い慈しみを湛えた顔で言葉を継ぐ。
「私たちが出ていってから、ずっと一人でここに閉じ込められて泣いていたんだよ。私たちが戻ってくるまで、ずっと……」
「え、じゃあ……」奏汰が聞き返した。「赤ちゃんが一晩中流した涙が、部屋を埋め尽くしたっていうのか?」
「一晩じゃない。夢の中は時間の流れが遅いから、何日も絶え間なく泣き続けていたんだと思う」
紬の表情が苦悶に歪む。あまりに凄絶な現実に、彼女の心は完全に叩き折られていた。
「ごめんね……」
紬は腕の中の赤ん坊をあやし、宥めるように囁いた。
「怖かったよね。寂しかったよね。ごめんね、本当にごめんね……」
奏汰は赤ん坊を見つめる紬の瞳を見て、直感した。昨日まであった戸惑いや迷いは消え去り、そこにはもう確固たる、盲目的なまでの愛情が宿っている。
「……夢じゃなければ、よかったのに」
紬は絶望を孕んだ声で呟くと、奏汰を真っ直ぐに見つめ、宣言した。
「奏汰。私、この子を育てる」
奏汰は湧き上がる苛立ちを抑え、確認するように尋ねた。
「……うん、わかった。それってつまり、夢と現実を行き来して、面倒を見るってことだろ?」
「違う」
紬は短く首を振った。それ以上の言葉を拒む彼女に、奏汰はついに声を荒らげた。
「それじゃ、どうするつもりなんだよ! まさかずっとここに残る気か?」
「……」
紬の沈黙が、肯定を意味していた。
奏汰は力なく項垂れ、再び顔を上げると絞り出すように言った。
「紬、昨日も言ったけど、ここは……」
「分かってるよ!」
紬も声を張り上げた。
「ここが夢だってことくらい、私が一番分かってる。自分で作った世界なんだから。でも……」
「でも、何だよ」
「この子は、作られたんじゃない。生まれたの!」
奏汰は額に手を当て、深い溜息を吐いた。
「紬」
奏汰は諭すように言った。
「君の夢を操る才能は異常だよ。他の明晰夢を見る人はどんなレベルか知らないけど、とにかく紬は群を抜いてる。それほど自在に世界を扱えれば、退屈な現実より夢に没頭したくなるのも当然さ。……けど、まさかこんな風に呑み込まれるなんて思わなかった」
「は?」紬の瞳に、明確な敵意が宿った。「何が言いたいわけ?」
「もう、明晰夢を見るのはやめよう」
「嫌だ」
「お願いだから、もうやめよう。俺たち最初に約束しただろ?現実に支障が出たらすぐにやめるって」
「そんな約束、した覚えはない」
「紬、目を覚ませ! この子は偽物なんだ!」
「偽物じゃない‼」
奏汰の叫びを、紬のさらなる絶叫がねじ伏せた。
「この子は、本物だよ。実体がないと本物にはなれないっていうの? 誰が決めたのよ、そんなこと。現実に存在しなくたって、『重さ』を持つことはできる」
「……」
「私は決めたの。この子は私の子。私は、この子を育てる」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
その間も赤ん坊は泣き止み、腫らした目でひたすら紬のことだけを見上げていた。
「……わかった」奏汰は吐き捨てた。「勝手にしてくれ。俺はもう、二度とここには入らないからな」
一応は虚勢を張ってみたが、紬は眉一つ動かさず、ただ赤ん坊を見つめ続けていた。もはや奏汰の存在など、彼女の視界には入っていないようだった。
不安に駆られた奏汰は、追い縋るように言った。
「でも、授業が終わるまでには戻ってこいよ。いいか? まさか本気でずっとここに残れるなんて思ってないよな?」
しかし、紬は透明人間を相手にしているかのように口を閉ざしたままだった。
憤りに耐えかねた奏汰は、そのまま背を向けて部屋を飛び出した。紬は彼を引き留めるどころか、見向きもしなかった。
外へ出た奏汰は、紬の家を一度だけ一瞥し、独り学校へと引き返した。
夢から覚めて隣の席を見ると、紬は変わらず机に突っ伏していた。
最初は無理矢理にでも揺り起こそうかと思ったが、思い直した。いくら夢に憑りつかれているとはいえ、時間が経てば自ずと目が覚める程度の理性はあるはずだ。そう信じるしかなかった。
だが、三十分が経過しても、紬は起きるどころか微動だにしなかった。
ついには痺れを切らした教師が、二人を指差して言った。
「おい、そこ。さすがに寝すぎだぞ。さっさと起こせ」
奏汰はすぐに紬の肩を掴んで揺さぶり始めた。
それでも、紬は起きない。
どれほど強く揺さぶっても、耳元で名前を繰り返し呼んでも、頬を叩いてみても、無駄だった。
彼女はまるで死体のように、ただ揺さぶられるがままに揺れるだけだった。
「……気を失ってるの?」
誰かのその言葉を聞いた瞬間、奏汰の背筋に冷たいものが走った。
紬の親しい友人が真っ先に立ち上がって駆け寄り、教室中が一気に騒然となる。
教師が慌ててスマホを取り出し、指示を飛ばした。
「今、救急車を呼ぶ! とりあえず保健室へ……」
その言葉が終わるよりも早く、奏汰は紬を背負って保健室へと走り出していた。
運び込むなり、授業中に眠ったまま意識を失ったと養護教諭に説明する。
教諭が紬の容態を確認したが、呼吸が極めて弱く、自力で目を覚ませる状態ではないという診断だった。
ほどなくして救急車が到着し、紬は担架で運び出された。奏汰も強引に乗り込んだ。教師たちは止めようとしたが、土下座せんばかりの勢いで懇願する彼を、最後には黙認するしかなかった。
紬は救急外来へと運ばれ、すぐに医師や看護師たちに囲まれた。
幸い外傷はなく、呼吸が弱まっている以外に目立った異常は見られなかったため、酸素マスクと点滴の処置が取られたところで一旦の落ち着きを見せた。
後に医師が、奏汰に当時の状況を詳しく尋ねてきた。奏汰はどうしても「夢」のことは言い出せず、居眠りしている最中に突然昏睡状態に陥った、という説明を繰り返すしかなかった。
やがて紬の両親が病院に駆けつけ、彼女は個室へと移された。
奏汰は両親と共に検査結果を待った。医師の所見では、命に別状はないものの、依然として昏睡状態にあり、いつ意識が戻るか見当がつかないため、時間をかけて経過を追う必要があるとのことだった。
状況が落ち着くと、紬の父は仕事に戻り、母が付き添うことになった。彼女は、娘のそばを離れようとしない奏汰を追い返そうとはしなかった。彼が娘の恋人であるという事実は、周知のことだったらしい。
奏汰は学校へ早退の連絡を入れると、静まり返った病室でしばらく紬の傍らにいた。そして紬の母が中座した隙に、ベッドの端にうつ伏せになり、意識を「明晰夢」へと向けた。
長く滞在するつもりはなかった。紬が作った夢の中では時間の流れが緩やかだ。一、二分もあれば、彼女を連れ出せるはず。奏汰は間もなく、深い眠りに落ちた。
夢の世界に降り立った奏汰は、迷わず紬の家へと向かった。
庭付きの一軒家。門扉は閉ざされている。
奏汰は塀を乗り越えて裏庭から玄関へと回り込んだ。施錠されていれば窓を割ってでも入るつもりだったが、ドアは無防備に開いていた。
奏汰は周囲を警戒しながら、家の中へと踏み入った。




