26
「どう? 嬉しい?」
紬が尋ねると、幻は深く頷いた。
「ああ、めちゃくちゃ嬉しい。ありがとう、母さん」
「どういたしまして」
「……ところでさ」
幻は何もない灰色の平野をぐるりと見回しながら、何気なく尋ねた。
「一体どうやって来たんだ? ロケットもなしに」
紬はいたずらっぽく微笑んで答えた。
「それはもちろん、魔法のほうきに乗ってきたのよ。母さんは魔女だからね」
「あ、そうだった。そういえば魔女だった。謎が解けたよ」
二人は散策するように、月の表面を歩き始めた。
頭上から降り注ぐ太陽の光は、刺すように強烈だった。
両手で日差しを遮っても防ぎきれず、光の重圧に押しつぶされるような錯覚に陥る。
だが、暗闇に目が慣れていくように、過剰な明るさにも次第に順応していった。
やがて手で庇う必要もなくなり、足元ばかりを見て歩くこともなくなった。
ふと顔を上げて前方を見据えると、月の表面とは対照的な、漆黒に浮かぶ真夜中の地球が視界に飛び込んできた。
日本列島を始め、陸地のあちこちが人工的な光の粒で明るく縁取られている。
幻は立ち止まり、まるで夜空の星座を眺めるような心地でその光の群れを凝視した後、再び紬と並んで歩き出した。
幻は、ふと思いついて一度ジャンプしてみた。だが、着地が遅くなるような感覚はない。どうやら月の重力までは再現されていないようだった。
紬が口を開いた。
「少し、ふわっとした状態にしてあげようか?」
「いや、いい。普通がいいんだ。それより……」
幻は周囲を見渡し、呟いた。
「このままだと、ちょっと寂しすぎるな。何か建物があればいいんだけど。月面基地とかさ」
「基地?」紬は曖昧に応じた。「それより、普通の家の方が落ち着くんじゃない?」
「似合うか? こんな荒野に」
「やってみなきゃ分からない。……ほら、どう?」
紬が振り返って指差した先に、一戸建ての家がぽつんと姿を現した。
二人が暮らしている実家だった。
「ふーん……」幻は首を傾げた。「やっぱり、違和感しかないな」
「そうね」紬も同意して頷く。「『星の王子さま』の住んでる家ならこんな感じかしら。やっぱり他の建物も造ろうか? それとも、街の一部をそのままここに移してみる?」
幻は首を横に振った。
「いや、それじゃ意味がないだろ。せっかく月に来たのに、地球と同じじゃ面白くない」
「確かに、それもそうね。じゃあ、どうする? 遊園地でも造ってみる? ディズニーやユニバよりもっと派手なやつを」
「だから、地球にあるものを真似ても意味がないって」
「じゃ、どうすればいいのよ」紬はぶつぶつと不満を漏らす。「母さんは想像力が足りないから、幻が何を作ればいいか提案してよ」
幻は少し考えた後、答えた。
「別に、何も作らなくていいんじゃないか? このままでも十分だよ。それより……腹が減った。ずっと歩きっぱなしだったし、何か食べよう」
幻が自分の腹を撫でると、タイミングよくグーという音が鳴った。
空腹を意識した途端、猛烈な食欲が湧いてくる。
「そう?」紬が言った。「じゃあ、家に入りましょう。何か作ってあげるから」
「家の中で? 嫌だ。せっかくだから外で食べよう。バーベキューとかどう?」
「お、それいいね!」
紬も手を叩いて即座に賛成する。
二人は家に入り、バーベキューに必要な調理器具と食材を外へ持ち出した。
普段から庭で楽しんでいたこともあり、セッティングは手慣れたものだった。
まもなく炭火のグリルに火が灯り、肉や野菜が焼ける香ばしい匂いが漂い始める。
紬が微笑んで言った。
「月でバーベキューなんて、素敵だね」
「うん、最高」
食材が絶妙な焼き加減になったところで、それらを切り分け、口に運ぶ。
炭火の香りを纏った肉が舌の上でとろけると、思わず感嘆の溜息が漏れる。
紬も頬を膨らませて手を当て、幸せそうな表情を浮かべていた。
味そのものは、いつもの見慣れた味だった。
だが、漆黒に輝く地球を鑑賞しながら楽しむ食事は、どんな山海の珍味よりも格別だった。
食べながら、紬は外での生活がどうだったかを熱心に尋ねてきた。
幻は祖父母や奏汰、友人たちの近況など、彼女が気に掛けているであろう話を一つ一つ語り始めた。
ところが、紬は周囲の出来事にはそれほど関心を示さず、幻自身が現実で何を感じ、何をしていたかを最も知りたがっていた。
結局、幻は自分のことばかりを話すことになった。
五感が徐々に目覚め始める感覚がどのようなものだったか。
何が一番美味しくて、何が最高に面白かったか。
特別な経験から、ありふれた日常の些細な出来事まで、紬が問うことなら何でも話して聞かせた。
本来なら自分のことを語るのはあまり好きではなかったが、紬がこれ以上ないほど熱心に耳を傾けてくれるので、話すのが次第に楽しくなっていった。
そうしてすべてを打ち明け、語るべき言葉が尽きた頃。
月に夜が訪れた。
太陽が反対側の地平線に姿を隠すと、明るい灰色だった平原が一瞬にして闇に塗りつぶされる。
瞬く間に隣に座る紬のシルエットさえ判別できなくなるほど暗くなったが、代わりに向かい側の地球が太陽の光を浴び、鮮やかな青色を帯び始めた。
幻は、地球にゆっくりと朝が訪れる光景を見守りながら、紬に言った。
「……ちょっと、寒くない?」
陽光が消えたせいか、体が小刻みに震え始めた。
それと同時に、急激な疲労感が押し寄せてくる。
夢の世界に入ってから休まずに歩き続けて蓄積された疲れが、今になって一気に噴き出したかのようだった。
「火を起こしましょうか」
紬はそう言って、食べ終えたグリルの片付けを手早く済ませると、その場に腰の高さほどの焚き火を起こした。
そして、二つあるキャンプ用の折りたたみ椅子のうち、一つを幻に手渡した。
「座りましょう」
幻は椅子を広げ、焚き火を囲んで紬と並んで座った。
かじかむ両手を炎にかざして暖を取っていると、紬が毛布を広げて幻の膝にかけてくれた。
さらに保温瓶から熱いコーヒーを注ぎ、幻に手渡す。
幻はそれを啜りながら、地球の大気に浮かぶ雲が、太陽の反対側へ長く影を落としているのをぼんやりと眺めた。
薪が爆ぜる音を聞きながら温かい飲み物を口にしていると、全身の強張りが解け、心地よい眠気がやってきた。
幻はあくびをしようとして頭を傾け、そのまま眼前に広がる光景に息を呑んだ。
夜空の星が、視界の限界を超えて無限に広がっていた。
幻は思わず椅子から立ち上がった。
星々がそれぞれの周期で瞬き、その輝きが波を成すたびに、銀河がカーテンのように柔らかくなびく。
胸が締め付けられるほどの美しさに、不意に涙がこぼれそうになる。
幻は、その煌めきが瞳孔を突き抜けて眼球の奥まで染み渡るまで、見つめ続け、静かに呟いた。
「……綺麗だ。今まで見てきた中で、一番美しい」
「そう? 良かった」
紬も幻に合わせて立ち上がり、空を見上げて満足げに微笑んだ。
「次は、何をしてあげようか。宇宙旅行でもする? 宇宙船に乗ってさ」
幻は苦笑した。
「いや……ここまででいいよ。あんまり遠くへは行きたくない」
「そう? ふーん……。じゃあ、月と地球の間に橋をかけてあげようか? その橋の上をドライブするのはどう?」
それはなかなか魅力的な提案だったが、それでも幻は首を横に振った。
紬が少し不満げに唇を尖らせる。
「じゃあ、何をしてほしいのよ」
幻は銀河からようやく目を離し、紬と向き合った。
そして、はっきりと言った。
「母さんはもう、月から出て行ってほしい」
「……え?」
「これからは、俺一人にしてくれ。せっかく独立したんだ。母さんがいると邪魔なんだよ」
「独立って……」紬の顔に困惑した笑みが浮かぶ。「なんで急にそんな話になるのよ」
「最初からそういう話だったんだ。地球を離れて、月に着いた時から」
「勝手に決めないでよ。月から出たって、私には他に行くところなんてない。家だってここに移しちゃったし」
「だから、地球に戻れって言ってるんじゃなくて……」
「嫌だよ!」紬が突然、激昂する。「幻が出ないなら、私も出ない。いっそこのまま二人で、月で一緒に暮らそう」
「無茶を言うなよ」
「本気だよ。外の世界なんて、もうどうだっていい。私には幻が一番大切なの。幻こそが私の世界なのよ。だから……」
「違う」
幻は静かに、けれど明確に首を振った。
そして、淡々と告げた。
「俺は幻なんかじゃない。ただの、幻なんだよ」
「……」
「だから、これ以上俺に囚われないで。これからは母さんの現実で、母さんの人生を生きてください。……それが、俺の最後のお願い」
紬はまだ何かを言い募ろうとして口を開いたが、結局、力なくそれを閉じた。
彼女が頭を垂れると、零れ落ちた髪がその表情を隠す。
幻は視線を逸らし、向かい側の地球と、その背後に果てしなく広がる宇宙を改めて仰ぎ見た。
そして、心からの感嘆を込めて言った。
「すごいよ、母さん。たった一人の俺のために、これらすべてを作ってくれたんだろ? この世で俺より親に恵まれた子供なんて、どこにもいないよ」
紬の肩が微かに震え始めるのを感じながら、幻は静かに言葉を紡いだ。
「どんなに凄い親でも、子供のために宇宙まで作ってくれる人はいない。母さんの息子に生まれて、本当に良かった」
「幻……」
「ありがとう、母さん。おかげで現実をたっぷり味わえた。月に行きたいっていう夢も叶った。母さんのおかげで、生きてる間にやりたいこと全部やれた」
ようやく顔を上げた紬を見つめながら、幻は健やかに微笑んだ。
「産んでくれて、ありがとう」
紬が、幻を力いっぱい抱きしめた。
幻は、生々しく伝わってくる彼女の震えを受け止めながら、そっと腕を回して抱きしめ返した。
母を抱擁するのはこれが初めてだった。どこかぎこちなさを感じながらも、胸が締め付けられるほどに愛おしく、心地よい。
紬の涙が幻の胸元を濡らしていく。
彼女は何かを口にしようとしたが、喉が詰まって、むせび泣く声しか聞こえない。
幻は、かつて紬が自分にしてくれたように、彼女の背中を優しく、ゆっくりと撫で続けた。
そうして長い時間をかけて彼女を宥め、ようやく泣き声が静まった頃、幻は最期の別れを告げた。
「さようなら。母さん」
***
紬は、ゆっくりと目を開けた。
最初は、視界にぼうっと広がる光の散乱に遮られ、何も見えなかった。
もう一度瞼を閉じると、溜まっていた涙が目尻を伝って、枕へとぽろぽろと流れ落ちた。
しばらくして、ようやく周囲の輪郭が形を成し始める。
最初に見えたのは、白く無機質な天井だった。
紬は室内の明るさに目が慣れるのを待ってから、ゆっくりと視線を横へ移した。
そこには、奏汰がいた。
「……紬?」
その掠れた声に、紬は微かに頷いてみせた。
奏汰は安堵に胸を撫で下ろしながらも、どこか寂しそうな微笑を浮かべ、すぐに彼女の手を優しく握り締めた。
「おかえり」
奏汰が医師を呼ぼうと立ち上がりかけたが、紬は彼の手をぎゅっと握って引き止めた。彼は結局座り直し、もう片方の手でティッシュを取って彼女の涙を拭いながら、静かに尋ねた。
「幻は?」
「……月に、いる」
「そうか。あいつ、ついに夢を叶えたんだな」
「はっきりと、感じられたの」
「何が?」
「体温が。……幻の温かさが。抱き合った時の震えが。私をぎゅっと抱きしめてくれた、あの腕の力が」
「……そうか」
「うん。幻は、幻なんかじゃなかった。確かに、そこにいた」
再び涙が溢れ出したが、紬の心にもう悲しみはなかった。
彼女は晴れやかな笑顔を浮かべ、確信を込めて言葉を紡いだ。
「確かに……私の子だったよ」
握り合っている奏汰の手に、ぐっと力が籠もるのが分かった。
彼もまた、深く頷いて応えた。
「ああ。幻は間違いなく、俺たち二人の子供だよ」




