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夢の子  作者: 真好


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25

 紬は元気そうだった。そしてどういうわけか、制服を纏っていた。


「やっと会えた」幻は言った。「久しぶり。元気だった?」


「……」


「なんだよ、母さん。俺を勝手に現実に放り出しておいて、自分はこうして隠れてるなんてさ」


 紬は唇を固く結んだまま沈黙を守っていたが、やがて顔を上げて幻を射抜いた。


 怒っているというよりは、どこか拗ねているような、厳しく振る舞おうとしても幼さが隠しきれない表情。


 やはり、紬はどこからどう見ても、まだ十七歳の少女にすぎない。


「帰って」紬が言った。


「嫌だ」


「幻。お母さんの言うことを聞いて」


「嫌だって言ってる」


「幻!」


「なんだよ!」


「……っ」


 結局、紬が先に視線を逸らし、幻も倣うように目を逸らした。



 結構長い間、二人の間に気まずい沈黙が流れる。



 幻の作った波紋が消え、水面が再び鏡のような平坦さを取り戻した頃、幻が再び口を開いた。


「ここ、全部消すつもりなの? 一応、俺の故郷なんだけど」


「もう、いらないから」


「酷いな。だからって、ここまでする必要あるのかよ」


「しょうがないから」


 紬は感情を押し殺したような口調で続けた。


「ここを維持しようとすると、無駄に体力を消耗するの。現実のあなたを支えるために、ここはもう畳むつもり。一度に全部消すと負荷がかかるから、少しずつ削っていたけれど……もう限界」


「……」


「だから、今日中に一気に消す。だから幻、今すぐここから出て行って」


「嫌だって言っただろ。母さんこそ出て行けよ。元々、母さんの体なんだからさ」


「これからは幻の体よ。二ヶ月も過ごしたんだから、もう十分に馴染んでいるはず」


「全然馴染んでないんだけど?」


 幻は吐き捨てるように言った。


「まず人間関係がめちゃくちゃでさ、いつどこでボロが出るか毎日不安で仕方ないんだ。それに夢と現実じゃ勝手が違いすぎて、基礎知識からやり直しだよ。第一、ずっと男として生きてきたのに、いきなり女の体で生きるなんて……もう無理」


「でも、そのくらいは我慢できるでしょ?」


 紬は動じずに言い放った。


「贅沢を言わないで。世の中には、もっと過酷な状況で生きている人たちがたくさんいるのよ」


「そういう問題じゃないだろ、これは」


「いいえ、そういう問題よ。……いいえ、そもそも何の問題もないの。だから、今すぐ夢から出て。そして、生きて。そうしてくれないなら――幻を殺してでも、無理やり目覚めさせるから」


 幻は呆れたような顔で問い返した。「……殺せば、夢から覚めるのか?」


「そうよ。死ねば、現実に戻れるわ」


「じゃあ、殺してくれよ」


「……なっ!」


 幻がすべて受け入れるとばかりに両腕を軽く広げると、紬の頑なな表情が一気に崩れた。


 やはり虚勢だったのだ、と幻はわかった。


 死ぬことで覚醒できるのは、あくまで現実から入り込んだ人間だけなのだ。


 最初から夢の産物として生まれた幻に、そのルールが適用される保証はない。


 おそらく幻がここで死ねば、それは文字通り「存在の消滅」を意味するはずだった。


「……できないのか? じゃあ、自分でやるよ」


 言い終えるなり、幻は背を向けて海へと歩き出した。


 最初から、こうするつもりだった。


 ただ最後に、紬の顔を一度だけ見ておきたくて、先延ばしにしていただけだった。



 自分が死ねば、紬だけがこの世界に残る。



 単純な計算だった。


 紬の目の前で命を絶つのは気が引けたが、背に腹は代えられない。姿は見えずとも、彼女はどこかで見ていたはずなのだから。


 死ぬのは怖かったが、不思議と足がすくむことはなかった。


 もともと確かな生を持たない存在だからだろうか。


 幻は躊躇なく水の中へと進んだ。


 冷たい感触が腰のあたりまで這い上がってくる。


 そろそろ泳ぎに切り替えようとしたその時、背後から強引に腕を掴まれた。


 幻は振り払おうと振り返り、そのまま凍り付いた。



 紬の顔が、かつて見たことがないほど青ざめていた。



 彼女は幻の腕を命綱のように固く握りしめ、言葉を失ったまま、震える瞳で幻を見上げている。その絶望に当てられ、幻が謝罪を口にしようとした瞬間――。



 激しい衝撃とともに、視界が弾けた。



 紬の掌が、幻の頬を力任せに打ち抜いたのだ。



 首が真横に持っていかれるほどの衝撃だった。



 かつて野球部員たちに道端で叩きのめされた時でさえ、これほど痛くはなかった。文句の一つでも言ってやろうと正面を向き直したが、続く言葉が喉に張り付く。


 紬の瞳から、大粒の涙が溢れ出していた。


 母の泣く姿を初めて目の当たりにし、幻は激しく動揺した。


「……どうして」


 紬が、掠れた声で絞り出した。


「どうして私の目の前で、そんなことができるの……?」


「いや……」幻は視線を泳がせながら、力なく呟いた。「そもそも、母さんが先に……」


「最低!」紬が激昂する。「悪い子!本当に最低!何考えてるのよ!やめて……お願いだから、二度とそんなことしないで。もし次があったら、その時は、本当に……本当に許さないから。わかった!?」


「……わかった。ごめん」


 紬は涙と鼻水で歪んだ顔を、両腕で手荒に拭った。そして再び、堰を切ったように怒りをぶつけてくる。


「帰って! 早く現実に戻ってよ!」


 まるで駄々をこねる子供のような、甲高い叫び。


 幻はあまりの耳の痛さに思わず目を閉じた。すると、紬はついにその場に泣き崩れてしまった。


「なんで……なんでこんなに……」


 紬は激しくむせびながら、恨みがましく声を漏らす。


「なんでそんなに私を困らせるの? なんで私の言うことを聞いてくれないのよ。私の言う通りにしていれば、あなたは幸せになれるのに……」


 幻は答えなかった。


 ただ、紬が泣き止むのを静かに待ち続け、やがて彼女を促して波打ち際から砂浜へと戻った。




 紬は乾いた砂に足を踏み入れるなり、糸が切れた操り人形のようにへたり込んだ。


「……もう、立っている力もない。幻のせいで」


「……ごめん」


 幻はそんな彼女の隣に腰を下ろした。


 少しの間をおいて、紬が弱々しく尋ねてくる。


「……それで? 外はどうなのよ。父さん……じいちゃんとばあちゃんは、元気?」


「え? 知らないのか? ずっと見てたんだと思ってたけど」


 紬は力なく首を振った。


「いいえ、全然。ずっとこの夢の中に引きこもってたから」


「……そうか」


 幻は少し考え、わざと深刻そうな面持ちで答えた。


「二人とも元気だよ。でも、母さんのことは死ぬほど心配してる。『紬が変わってしまった』って。頭では我が子だと分かっていても、心で受け入れられないみたいなんだ。俺がどれだけ記憶喪失のフリをしたところで、中身が違う違和感までは隠しきれないからな」


 紬がしゅんとして視線を落とすのを見て、幻はさらに畳みかけた。


「正直言って、母さんがやってることはみんなに迷惑なんだよ。心配してるのはじいちゃんたちだけじゃない。母さんの友達もそうだし、親父だって……どれだけ心配してるか分かってるのか? 母さんが戻ってくるのを、みんな首を長くして待ってるんだぞ」


 言い終えると、紬の表情に劇的な変化が現れた。


 しかしそれは、幻が予想していた後悔の色ではなく、鳩が豆鉄砲を食ったような顔だった。


「……親父?」


 紬が怪訝そうに問い返す。


「もしかして、奏汰のこと?」


「ああ……まあ、そうだけど」


 幻が頷くと、紬の目がさらに大きく見開かれた。


「幻……奏汰のことを、親父って呼んでるの?」


「まあ、うん。最初はからかうつもりだったんだけど、なんだか定着しちゃって」


 紬は何度か瞬きをし、それから耐えきれないといった風に「ぷっ」と吹き出した。


 それまでの強張っていた表情が嘘のように解け、彼女は可笑しそうに笑った。


「なんだ。……みんな元気そうじゃない。あ―あ、心配して損した」


「……」


 説得が水の泡になったことを悟り、幻は深い溜息を吐いた。



 しばらくの間、無言で砂を掬っては零す作業を繰り返す。



 やがて、その静寂の重さに耐えかね、幻は紬に不満を漏らした。


「……それにしてもここ、静かすぎるだろ。どうにかならないのかよ」


「……そう?」


 紬は呟くと、物思いに耽るように空を見上げた。


 それからゆっくりと、水面へと視線を滑らせる。


 幻も、彼女の視線を追った。


 すると、遠くの方からホワイトノイズのような微かな音が聞こえ始め、一筋のさざ波が穏やかに近づいてくるのが見えた。


 どこからか海鳥の鳴き声が響き、幻が辺りを見回すと、柔らかなそよ風がふわりと頬を撫でていった。


 背後の道路には車が走り、まばらながら歩行者の姿も戻る。



 崩壊しかけていた世界が、再び息を吹き返していた。



 幻は空を見上げ、ふわりと浮かぶ綿雲を眺めながら苦笑した。


「やっぱり違うんだな」


 幻は呟いた。


「戻ってみて、はっきり分かったよ。ここはやっぱり『夢』なんだ。自然の風景も、道端の騒音も、肌をなでる風の感触も……そして今ここにこうして存在しているという実感も。現実の方がはるかに鮮烈で、リアルだ」


「でしょ?」紬が答えた。「分かってくれたならそれでいい。だから、お願い。もう一度、現実に戻って」


「だから、それは嫌だって言ってるだろ。俺にとっての『現実』は、結局ここなんだよ」


 紬は膝を抱えて顔を埋め、深い溜息をついた。一瞬戦意を喪失したようにも見えたが、すぐに「あ」と声を上げ、弾かれたように顔を上げる。


「そうだ! そしたらさ、交代で生きたらいいじゃない!」


「……は? どういうことだよ」


「だから」と紬は興奮気味に身を乗り出した。「幻と私が、この体を交互に使えばいいのよ。ある日は幻が、次の日は私が、その次の日はまた幻が! 非番の人は、この夢の中で待機していればいい。どう? 名案でしょ?」


「……」


 幻は眉間に深く皺を寄せたまま、しばらく考え込んだ。


 確かに妙案ではある。


 だが、結局彼は首を横に振った。


「嫌だ」


「なんでよ!」


「紬は、俺じゃなくて母さんの人生だからだよ」


「……」


「それに、よく考えてみてくれ。そんな風にずっと生きていこうとすれば、面倒なトラブルが山ほど起こるに決まってる。スケジュール調整や喧嘩だけで人生のほとんどを使い果たすことになるよ。ものすごく非効率的だよ」


「私が幻に全部従うから」


 紬が強く言った。


「全部譲るから。幻の言う通りに全部合わせてあげる。幻がどこで誰と何をしようと、その選択に絶対に口出ししないと約束するから」


 幻は再び首を横に振った。


「それでも嫌だ。調整だけじゃない、プライベートがなくなってしまう。嫌でも俺のすべてを母さんに報告しなきゃいけなくなるじゃないか。絶対に嫌だ」


「でも……」


「絶対に、嫌だ」


 断言されると、紬もついに開いていた口を閉ざした。


 幻は言葉を継いだ。


「俺はもう、心の整理がついたんだ。だから今度は、母さんの番だよ」


 紬は深い絶望を滲ませた顔でしばらく幻を見つめていたが、唐突に立ち上がった。


 そして幻とは反対の方角に向かって、つかつかと歩き始めた。


「私には、無理」


 紬は震える声で言った。


「心の整理なんて……できないよ、そんなこと」


 幻は遠ざかる彼女の背中をしばらく見つめた後、立ち上がって後を追った。


「どこへ行くんだよ」


 紬の歩調がさらに速まった。「ついてこないで」


「だから、どこへ行くつもりなんだって」


「話しかけないで」


 幻は彼女を止めようとして手首を掴んだ。すると紬は激しくその手を振りほどき、怒りをあらわにした。


「ついてこないでって言ってるでしょ!」


「……」



 二人はしばらくの間、無言で睨み合った。



 やがて紬が再び背を向けて歩き始め、幻もまたその後を追う。


 紬が振り返って睨むたびに幻は立ち止まり、彼女が歩き出すとまた追いかける。


 そんな茶番のようなやり取りも長くは続かず、やがて紬も諦めたのか、幻がついてこようがまいが、ただ前だけを見つめて歩くようになった。


「どこまで行く気だよ」


 途中で幻が一度尋ねたが無視され、それ以降は会話が途切れた。




 二人はおよそ六歩ほどの距離を保ったまま、ひたすら歩き続けた。


 丸一日、無言の行進が続いた。


 一歩一歩踏み出される紬の躊躇いが、まるでヘンゼルとグレーテルのパン屑のように見えてくる。


 幻はそれを一つずつ拾い集めるような気分で、彼女の背中を追い回し続けた。




 ある夜のことだった。


 海岸沿いを歩いている途中、幻は久々に紬の背中から視線を外した。


 ようやく顔を上げて夜空を仰ぐと、中天にかかった月が視界に降り注いでくるように現れた。


 満月だった。


 異様に大きく、どこか恐怖感さえ抱かせるほどのスーパームーン。


 幻はしばらく月の引力に捕らわれたかのようにそれをじっと見つめ、それから紬を呼んだ。


「母さん」


「話しかけないでって言ったでしょ」


「一つ、お願いがあるんだけど」


「……」


 紬は一瞬立ち止まったが、すぐにまた歩き出した。


 振り返ることもなく、淡々と応じる。


「……何よ」


 幻は少し間を置いてから言った。


「月に行きたい」


 紬が再び足を止めた。


 幻は月を見上げたまま歩いていたため、紬の背中にぶつかり、慌てて数歩下がった。


 紬は振り返り、幻と月を交互に見比べると、尋ねた。


「月? どうして急に?」


 幻は気恥ずかしさを隠せない様子で告白した。


「……実は、宇宙飛行士になって月に行くのが夢だったんだ。大げさで恥ずかしくて、今まで言えなかったけど」


「えっ……本当?」


 紬は静かに驚き、目を見開く。


「幻に、そんな夢があったの?」


「うん」


「全然知らなかった……」


 紬の表情が、ぱっと明るくなる。


「素敵だね。とっても素敵な夢だと思う。そうか……そうだったんだね。分かった。母さん、全力で応援する!」


「応援はいらないから、今送ってくれよ」


「えっ? ここで? 夢の中で月に行ったって……。母さんが応援するって言ったのは、現実での……」


「違う」


 幻はきっぱりと遮った。


「俺は、『ここ』の月に行きたいんだ。最初から、それが夢だったから」


「でも……」


 紬は言葉を濁し、やがて視線を月へと移した。


 眩しそうに目を細めてしばらく見つめた後、再び幻へと向き直る。


「……わかった」


 彼女は幻と真っ向から対峙し、静かに告げた。


「目を閉じて」


「またそれ?」


「いいから早く。手でしっかり目隠しして」


 幻は言われた通りに瞼を閉じ、両手で視界を塞いだ。


 五秒ほどの静寂が流れた後、紬の声が響いた。


「……もう、開けていいよ」


 幻は手を離し、ゆっくりと目を開ける。


 そこには、細かく挽いたセメント粉を果てしなく撒き散らしたような、灰色の広大な大地が広がっていた。


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